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赫奕たる夏風1    序章 銘・夏風   



 公威《きみたけ》さまがあのようなかたちでの死をお選びになられますことを、お祖母様である夏様は、何年も前から予見しておられたようでございました。
 そして、その悲劇をなんとかくい止めねば、変えねばなどとは、みじんも考えてはおられなかったことと存じます。

 悲しみやあきらめ、運命などという、騒々しい心の波風は夏様の中にはありませんでした。

 もっと大きく静かなもの…
まるで、この世すべての行く末を定める天人が、滅びゆく塵芥<じんかい>の地人をひと時憐れみ、捨て置くかのような透徹な無慈悲が、夏様と公威様を結びつけているようでした。

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「くれはや」

 ほそく、かすれてはおられましたが、芯に薄刃を包んだようなお声の透徹さは、お小さいころから最期まで変わることはありませんでした。

 枕辺の水差しに敷いていた布巾を取り換える手をとめ、わたしは はい、とお返事いたしました。
 カーテン越しの冬の西日がふんわりと、お部屋全体に拡がっておりました。
 眩しい、と いつもであればお叱りになるところでしたでしょう。
 けれどその時、夏様はほんのすこしお顔を窓の方へ傾げ、拡散する冬の夕方の光を見つめて、馥郁と微笑んでおられるようにお見受けしました。

 その直後の事でした。
 どこに、そんなお力が残っていたのか。
「夏様、どうか」
「かまわぬ。今日はずいぶんと加減が良いようだから」
 横たえようとする私の手を制され、ご自分でお身体を起こされました。
 肩で息をしながら夕照の窓に向かって正座され、やがて呼吸が整うと、御髪を梳いて束ねるよう命ぜられました。
「久しぶりに、高く結い上げてみようか」
 私は微かに目を瞠り、にわかに心浮き立つのを覚えました。
「藍染の帯揚げ、あれを元結(もっとい)に結わえておくれ」
「久しぶりでございますね」
「たまにはよかろうよ」
 白いものが増え、ずいぶん痩せたとはいえ、柘植の櫛歯に吸い付くお髪の滑らかさはお若い頃から何も変わらずでございました。

「こんなに真っ白になってしまった」
「向島のお方様……彰様に似てこられましたね」
「似るわけがなかろう」
 それでもうれしい事だねと、夏さまはお笑いになりました。
 髪を梳かせる間、夏さまは白い寝巻替わりの襦袢の胸元を、耳後ろから丁寧に直されておられました。漆の手鏡を手渡すとお顔を横に傾げ、青白い頬にかかる濃藍がひらひらと揺れるのを、少女の頃と同じ切れ長のまなざしで楽しんでおられました。
「やはり、藍色は夏さまのお色でございますね」
「若い時のようにはいかぬよ」
「いいえ、何も変わってはおられませぬ。お美しく凛々しく…お懐かしゅうございます」
 病みついて、もう長いこと経っておりました。いつ息を引き取られても不思議のなかったここ数日のご容態からすれば、この日の夏さまは驚くほどお顔色もお声の張りも明るく、ひどくご機嫌のよろしいご様子に見えました。藍色をかざしたお顔には、うっすらと赤みがさしているようにも見えました。
 衣裳箪笥から、闇藍の風呂敷包みを持ってくるよう命ぜられました。
 現れたのは同じ深みの濃藍に染めた、控えめな艶の、妙なる流水紋色無地の一つ紋。
 永井梨の切り口紋。

 さんざん贅を尽くし、数多のお洒落を楽しまれた夏さまにとって、それは何よりも特別な装束でした。
 御身の生きてきた過酷を誰よりも知る、肌の一部のごとき衣でありました。   

 帯を結ぶだけのお力は残っておられませんでしたから、お袖をお通しし、肩を覆うようにお掛けしました。
 白い襦袢に深藍の絹。
「今日はほんとに気分が良いよ」
「たいへんよろしゅうございました」
 夏さまはしばらくの間、雪見窓から冬枯れのお庭を眺めてお茶を啜ったり、脇息にもたれて、金文字の擦れた古い洋書を読まれたりされておられました。


 He’s more myself than I am. Whatever our souls are made of, his and mine are the same…

 <あの方は
ここにいる私よりも、
はるかに「私そのもの」なのです。
わたくしたちの魂を為すものが何ものであろうとも
私とあの方はひとつの魂……
同じひとつの何かなのです>

 その呟きを、祈りを。
 それまで いく度お聞きしたことか。 
 これが最後になるのかもしれない。

 なぜそう思ったのかなど、わかりはしませぬ。

 水差しの脇に、端を整えた原稿用紙が置かれていました。
 いくつかの訂正線の上に、青いペンでなぐり書きがされておりました。
 一番上には、公威さまの字で但書された題名がありました。
 それがどんな題名だったかは、もう憶えてはおりません。

 夏さまは膝の洋書を閉じて原稿用紙に重ね、それを衣裳戸棚の一番上の抽斗にしまうようお命じになられると、私の手を借りることなく、ご自分の足で冬のお庭へ降りられました。

 薄橙の綿のような光の中、濃藍の流水紋の肩が、きらきらと光の粒子をまとわりつかせるようでした。
 剛きものを背負ってきた小さな背中は、細くはおなりだけれど、病みつきこごまる老婆の弱弱しさなど、欠片もありませんでした。
 流水紋の豊かな裾を後ろの枯芝に流れ落し、すっと形よく伸びた後姿は、かつていくども憧れ見た、若武者のごとき凛々しき夏姫のそれに間違いはありませんでした。

「南側の水仙も、もうすぐ開くようだね」
「今年は暖こうございます。梅の蕾もずいぶん膨らんでおります」
「ああ…なんて柔らかな日だろう」
 冬の午後の陽射しを仰ぎ、夏さまは目を閉じられました。



「くれはや」
「はい」
「私に代わり、あれの行く末を見届けるように」
 結い上げた御髪と藍色のリボンを、微かな冷風がふわりと揺らして消えました。
「あの子はいつか、あの子の輝きに殉じるであろうから」
「…姫様」
「その時が来たら、だれもそれを止めてはいけない。命を長らえるために、その輝きをふき消してはいけない。お前には、わかるね」

 夕餉は、おかゆをすこしにしてもらおうかね。
 そのくらいの、ごく軽い調子でございました。


「白錦の納袋を」
 わずかに横向いた頬に赤みが挿したのは、命の最後の残火だったのか、
真冬の午後の、緩やかな夕陽のせいだったのか。
 ただ、その時が来たことを私は悟りました。


 鳳凰の地紋の施された錦の長細を捧げ渡し、後ろ足に下がって居ずまいを正すと、私は庭にひざまずいて両手をつきました。
 鱗に結わえた房紐を解く指先もしなやかに、そして白錦を草に脱ぎ落して現れた、飾りも文字もない白拵えの、ちいさな刀。

 天の河のような星屑の揺らめく、ゆるやかな直刃の刃紋。 
 銘・夏風。

 白鞘を静かに抜き払い、刀身を真っ直ぐにかざされた。

 冬なのに。
 どこまでも静かな、冬の午後なのに。
 なぜ、刃先にきらめく光は、真夏の太陽のように赫奕と、ひときわまばゆく輝いては、今この御姿を逆光で見えなくさせるのだろうか。 

    姫様。
 その呼びかけは、声になっていたかどうか。
 お心には、届いていたか。

「くれは」
「はい」

ありがとう。

それが、姫様のお声を聞いた最後でございました。


 数時間後、小石川病院の個室病室で、夏様はお亡くなりになられたのでした。




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