世界には正誤も優劣もない
覚えてはいないけど
赤ちゃんの頃私たちは
お腹が空いたら乳を飲み
眠くなったら寝て
催したら用を足していたはず
やりたいことを
やりたいように
自由にやっていた
それが正しいとか間違ってるとか
何が優れてるか劣ってるかなんて
考えもしなかったはずだ
けれど、きっと他の誰かとか
世間一般の平均だとか
自分以外の都合によって
行為はどんどん制約されていく
周囲の思い通りじゃなかったり、
世の平均からズレていたり、
なんか偉い人から指導されたり、
やってることに優劣つけられ
やってることをジャッジされて
より正しく間違わず
優れた者となるように
躾けられて今に至る
だから今なお、誰かに植え付けられてしまった
自分の中の「正解」「不正解」に苛まれる
いつの間にか身についた、優劣に振り回される
でもそんな世界の中ではきっと
答は永遠に出ないのだ
自分が心からの充足を得て
生きていけるような答は
本当のところ
世界には正誤も優劣もない
「私はどうしたいか」しかない
その、自分だけの、選択の中で生きるだけ
自分の本当の「したい」に従って生きる
自分の本当の「したくない」に従って生きる
時に「今は選べない」もある
でもそれを、知っていることこそ
自覚していることこそ
「自分を生きる」ってことなのだと心底思う
自分の中の「正解」「不正解」だとか
自分のつけた優劣みたいなものが
自分の行動基準だった時には
自分に対してだけでなく
他者に対してもこの基準を当てはめる
無意識に
そして人をコントロールしようとする
あの人は劣ってる、間違ってる
もしくは
あの人はすごい、あの人は絶対
そういう人なんだ、と
自分の物差しで判断して、
相手が自分の思うような、
完璧な姿になるよう
勝手に求めてしまう
それは永遠にどこにも辿り着くことがない
不毛な行為に他ならない
人には、誰にも、自由に生きる権利がある
私に、私を自由に生きる権利があるように
誰かにも、その人を自由に生きる権利は、ある
他者を侵害しなければ
思考は、行為は、どこまでも自由なんだってこと
もう私は自分にダメ出しをしない
人から見たら眉を顰められるようなことでも
自分の心が望んだことを
やったりやらなかったりしたことに対して
ジャッジメントしない
もちろん、他の誰かのことも
人の行為に介入しない
もし何か被害に遭うようなことがあったら
介入はせずただ意思表示をする
自分の感じていることを正直に伝える
攻撃ではない、シンプルな意思表示を
自分に対する優劣とかジャッジが
ない、ということは
どんなに楽なことか
自分に対する優劣とかジャッジは
自分に対する攻撃だから
攻撃から離れて
ただ素直に思いのままに
考えるまでもなく、自ずとした行為の中にこそ
本当の私の財産がある
それが質とか、魅力とか、個性とか
いろんな言い方があるけれど
本当の私だけのもの
誰もが持っている、その人だけのものを
比べるでなく、批判するでなく
ただただ、発揮しあえる世界へ
これからどんどん
進んでいくのだ。