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言葉と季語の新鮮な邂逅:嵯峨根鈴子句集『ちはやぶるう』

いてふちるちはやぶるうのやまひかな

「ちはやふる」といえば、百人一首の「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは」(在原業平)、そして同名の漫画作品が思い浮かぶ。
でも、そもそも「ちはやふる」とはどういう意味なのだろうか?

【 ちはやぶる】
勢いのある、強暴な、荒々しいの意。
①神を導く枕詞。②神の勢力を表しながら対する人の表現性を高める。

(國學院大學デジタルミュージアムHPより一部引用)

こんなにダイナミックで厳か、かつ人間の表現とも関係のある言葉だったのか、と今回初めて調べて驚いた。

と同時に、鈴子さんの俳句作品とこの句集に相応しい言葉だな、と思った。
また、言葉をそのまま使うのではなく自分なりの味付けをして「ちはやぶるう」というタイトルとしたセンスも素敵だと思う。

本句集は嵯峨根鈴子さんの第四句集。
感銘句を以下に引く(全四章。一章・二句)。

うはのそら千年経つたら鯨かな
さびしさはこれか蜥蜴の瑠璃の縞

煮凝の舌がまさぐる秘仏かな
大阪の拗ねて甘えて夕立かな

秋刀魚焼くとなりの詩人を誰も知らない
蜩や死にたい人に生きたい人に

ででむしや箱にしんなりふたつの性
狼の遺志か敗れた傘の骨か

他にも好きな句がたくさんあった。
どの作品の言葉たち、季語たちも自由でイキイキしている。
17音にはエナジーが漲り、ともすれば弾けそうな勢いだ。

何よりも「こんな言葉と季語の合わせ方があるのか!」と読者の予想を次々と裏切っていく。何とも小気味よく、軽やかに。それが読んでいて実に楽しい。

たとえば、下記のような急カーブの取り合わせが魅力的な句もあれば

断層のずれゆく世紀彼岸花

実際の経験であろうことをユーモラスに詠んだ下記の句も面白い。
(かつて、わたしの周りにもホチキスの芯を「虫」という人がいて、最初に聞いた時は驚いた)
ホッチキスのあれを虫てふ鳴かせてみたい

白藤にやや不可解な吾が隣る
まつろはぬ我も歪や煮凝れり

新鮮な発想と言葉の併走が鈴子さんの表現の魅力のひとつだが、その根底には常に自分自身に対しての冷静な(ともすれば疑いを含んだ)視線がある。モノを見て感じている自分の感覚への安易な信頼を許すまいといった厳しさがあるからこそ、鈴子さんの俳句作品の中で言葉と季語は常に新鮮な邂逅を果たすことができるのだろう。

だからこそ

牡蠣啜るうは唇を呼び戻し

上記の句のようなリアルな生理的感覚を伴った句はかすかなエロスを感じさせつつ、下五「呼び戻し」という的確な動作の措辞へ着地できるのだろう。

さて、表題句に戻ろう。
いてふちるちはやぶるうのやまひかな

「ちはやふる」という言葉の意味を踏まえて改めてこの句を読むと、銀杏が散る輝かしい映像に神性めいたものを感じ取ることができる。
また色の使い方が巧みだ。銀杏=黄(金)、ちはやぶるう=青。二つの色の明確な対比、あるいは重なり合い。
絶え間なく動き重なる色の中に眩惑されながら、作者自身の抱く病が深まっていくような、でもその状態に陶酔しているかのような(または作者自身=病とも解釈できるかもしれない)。
この「やまひ」が具体的に何かをわからずとも、一句一章の型に奔流のように貫かれる言葉と季語のイメージが読者を未知の世界や体感へ連れて行ってくれる。
そのエナジーの凄さ・深さこそ作家・嵯峨根鈴子の力量であり、表現の道を行く者の悦楽であろう。

この句集は下記の句で終る。
今生のノンとひとこゑなめくぢり

潔く格好良い後姿だけが読者には見えて、すでに嵯峨根鈴子は前へ、次の表現へ向けて歩きだしている。

ご恵贈、ありがとうございました。

作品はもちろんだが、全体の装丁も素敵。
「豆の木」で一緒の鈴子さん。
しっかりとした背骨のある表現のファンです。

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