【読了】『捨てられる教師 AIに駆逐される教師、生き残る教師』
著者:石川一郎
SB新書
叫びたくなった。
教育現場に起きている現状を的確に指摘され、そして、考えさせられた。
もう何回「その通りです。」と首を激しく縦に振ったか。
はたして「持続可能な学校」とは?
「持続可能な先生」って何でしょう。
この世を大きく変化させている要因はたくさんあります。ここ数年でも、予想もしなかったようなことが起きているのは多くの方が実感できるでしょう。
それをより加速させているのは、1つはテクノロジーの発展ではないでしょうか。ここ数年によるIT関係の技術は意外性を突かれ、今までになかったようなサービスが提供されています。
その中でも、生成AIに関しては教育界も大きく揺るがすものでした。今まではAIはデータ処理に長けており、膨大なデータの中から正解を探すことがメインのお仕事でした。
しかし、生成AIが誕生したことにより、「生み出す」という人間にしかできないとされていた部分を行えるという事態になりました。
教育界にも少なからずの影響を与えました。
例を挙げるとすると、今までその存在が当たり前として疑われなかった「課題」の在り方。読書感想文など、これらも生成AIは長い時間をかけずに作り上げてしまいます。
その危機感から、文部科学省は7月、多くの学校が夏休みに入る前に生成AIの教育現場における使い方についての文書を出したことは記憶に新しいです。
教育現場と生成AI。
この二つの関係性は、教育に携わるものとしては今後、考えざるを得ない存在になりました。
この事態に対して、本書の著者の意見に激しく賛同しました。
厳しい表現だと思いますが、言いえて妙です。
日本の学校教育が今、抱えている3つの事実
①少子化の加速
②学校教師になる人の激減
③大きな変化を求められている「学びの形」
これらの観点から分かるのは、今の学校のままだと、時代と共に崩壊するということ。いや、もうしているのかもしれません。
これらの状況を踏まえ、生成AI。
だとすると、子どもたちと教員ともに求められるスキルは「高次思考」です。
つまり従来の「知識」「理解」「応用」までの教育ではなく、さらに先の「分析」「評価」「想像」ができる力。(ブルーム・タキソノミーを参考氏にした考えです。)
筆者の言葉を借りるのであれば、「知識を授けるだけの授業」から「思考で遊べる授業」へと展開させることが必要になってきます。
「正解のない問い」について、生徒と一緒に考える。
「生成AI」そのものも「正解のない問い」のひとつです。
「教育」とは、子どもたちと、予測困難で先行き不透明な時代、VUCA時代を強く逞しく生き抜くために成長していくものだと思っています。
この時代の特徴は「変化の激しさ」です。
目の前の子どもたちは、今までの常識が通じず、「正解のない問い」であふれ、それらを解決できるような、そんな激流の中で生き抜かなければならない。
そんな子どもたちのために、「教育」をする教師が「変化」から逃げてどうする。見ないふりしてどうする。子どもたちにどう生きてほしいのか。
そんなことを考えることが増えていました。
持論で、あくまでも個人的な意見ですが、貴重な青春の3年間を私に出会ってくれて、使ってくれている目の前の子どもたちのために教師がすべきことは、「子どもたちの未来の生き方を一緒に模索していこうとする」ということではないんでしょうか。
教師だって、未来なんか分かりません。子どもたちから見たら、勉強を教えている人だから、知識があってなんでも知っている人に見えるのかも知れませんが、全部知っていることなんてないです。
そしたら。だとしたら。
「未来について学んで、考えていくって楽しいよ」って伝えていきたい。
当たり前と信じ、意識的でも無意識的でも現状を変えようとすることしない「安定」はもはや「不安定」です。
教育現場だって、「正解のない問い」でいまやあふれています。
「先生」や「学校」、「授業」の価値観が今、問われています。
だからこそ、生徒と一緒に考えていきたい。そう、一緒に。
それが学び合いというものができる「学校」の意味だとも思います。
これから教師が目指すべきものは、学校という閉鎖的な空間で、学校の外で起こっている変化から目を背けず、むしろ利用してやるぐらいの気持ちで何ができるか考え、向き合い、生徒と同じ視線で見つめ、「探究」していくこと。
私は、「教育」とは、未来を生きること。そういうものだと思うのです。
教師という「人間」にしかできないこと。
AIにはできないことを、自ら模索し、子どもたちの生きる未来のために「私」は何ができるのか、考え続けます。