吐く息が白いことに、まだ愛しさを感じられたなら。

世の中がコロナ禍になってから、2年ぶりに帰省をしている。
わたいは実家が、家族が好きなので、ついにこの日がきた、と、少し緊張しながら新幹線に乗った。

地元は寒波に見舞われていて、雪が積もり、吹雪いている。
わたしの実家はもう築云十年の木造建築で、決して新しい家ではない。何なら、少し古すぎるくらいだ。
あたたかな居間と、台所を抜けて自分の部屋に荷物を置くと、暖房がついていないその部屋で、息が白くなるのを見る。
外は氷点下、そういえば家の中でも息が白くなるんだった、と思い出して、涙が出そうになる。
当たり前と言われれば当たり前の、自分がいままで何度も経験してきたその現象が、どうしたって愛おしいと想った。
そんなことを愛おしい、と想えるほど、私は寂しかったんだと、そしてそれを寂しいと想える心を大切にできるように生きていたんだと自覚する。

コロナ禍になり、それについて何か特筆して想いを綴ったことはない。
医療従事者の方達にも、政治云々についても、頭が下がるばかりだし、自分のできる範囲でコロナ禍を過ごしてきた。
自分の知らぬところで誰かが泣いたり、傷ついてることを横目に見ながら、そっと心の中で手をあわせて、それでも「どうにかしよう」と動いてくれている人達がいることの足音も、しっかりと聞いていたと想う。

そういったところを一旦置いておいても、コロナ禍で様々な人間関係が変化して、新しい出会いも、人間関係の構築も、継続も、いろんなことが変わっていった。
それこそ、いつだったか書いたように、配信アプリをはじめたこともその中のひとつで、その配信アプリでの人間関係が、いい意味でも悪い意味でも、自分のリアルに侵食してきているのも感じている。
リアルの友人関係でいえば、医療関係の友達とはコロナ禍になってから一度も会えていないけれど、その分オンラインでの言葉はいつでもまっすぐで、優しくて。「いつか」の約束を、同じ温度で指切りしてくれる。

そうした大切なものがいくら増えても、いや、増えたからこそ、わたしはきっと未だに、こうして吐いた息が白くなることに、まるではじめてかのように感動することができる。
心が死んで、言葉が死ぬ感覚を知ったとき、目に映る総てが怖くて、嫌で、どうしようもなかったとき、
そこにある驚きや発見、普段であれば嬉しくなってしまうようなことも、刺激になって痛くて、もうこんな想いをするくらいなら、と想っていた頃のわたしが、その白い息の中に溶けていく。


2022年はどんな年になるだろう。
特に大きな目標も、未来も、何もない私だけれど、それでもやっぱり、この感情だけは無くしたくないし、その感情を、意図せずだったとしても作り上げて、守り続けてくれる周りの人達を大切にしたい。
漠然としたこの想いが、どうかどうか、2022年の私を強くしてくれますように。

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