十二月の桜
転職を決めたのは社会人4年目のこと。
某テレビ局の受付に門前払いされた18歳のあの日から(この話はいつか書きたい)、夢はもっぱら「メディアを自由に操れる人間」になった。
だから、いずれはメディア関係の会社に転職するつもりでいた。
最終出社の日は、取引先への引継ぎの挨拶が一件残っていた。
その日も例外なく朝から慌ただしく、上司と先輩と私は取引先までタクシーで向かうことにした。
大企業が名を連ねる大きなビルのロータリーは、タクシーが列をなして待機している。
次にいく会社は社員が数十人のこじんまりとした会社だ。
これから先はこんなふうにタクシーに乗り込むこともなくなるのだろうと思うと、急に煌びやかな光景に思えた。
タクシーの運転手は、足早に歩く私たちに気がつくと、車を降りて後部座席に回りドアを開けた。
わざわざ車から降りるなんて、なんと律儀な人なんだ。
手にはめた白い手袋が、より一層印象づけた。
「どちらにお連れしましょうか?」
「神保町までお願いします。」
「かしこまりました。」
運転手が前方を指差したのち、タクシーはゆっくりと走り出した。
後部座席の上司たちは、一風変わった運転手を気にする様子もなく、何やら業務の打合せを始めている。
「お客さん、今日も冷えますね。」
「寒いですね。」
「師走に入ってから本当に寒いですね。こうも冷えると週末もなかなか外に出られませんよ。今朝の天気予報では………」
連日続いた送別会のお陰で私は十分な睡眠が取れていなかった。
運転手の話し声はどんどん遠くなっていく。
「お客さん、見てください!桜ですよ!」
急に大きな声が耳に飛び込んだ。
運転手が一瞬顔を振った先に目をやると、薄いピンク色の花びらが寒そうな枝の端にふんわりと開いていた。
「この桜一本だけ毎年この時期に咲くんですよ。
分かりますか?別れが近いということです。」
私ははっとした。この人はまさに今日私が退職するということを知るはずがない。
私は言葉を続けることができず、ただ、サイドミラーの中で小さくなっていく淡い色を見守った。「よくがんばったね、おつかれさま」そんな餞別が聞こえた気がした。
タクシーは神保町に到着した。
車から降りるとき、私はなんだか伝えなくていけないような気がして、口を開いた。
「実は今日、会社を辞めるんです。いまから別れの挨拶をしてきます。」
「そうでしたか。ご乗車どうもありがとうございました。良い一日を。」
運転手は特に驚いた様子は見せなかった。
もしかすると別れというものは、誰しもの近くにあるのかもしれない。
私は今日が、我が世の春の始まりであると確信し、ゆっくりと取引先の玄関に向かった。