【ペライチ小説】_『娘帰る』_28枚目
言いたいことはたくさんあった。だけど、どう不平不満を伝えたものか、さっぱりわからなくなってしまった。感情のひとつひとつがいまや互いに矛盾するほど複雑怪奇に発展し、どうにもこうにもお手上げだった。それでも、自分の中に怒りがあるということだけは百パーセントの確信が持てた。
ふと、鏡を見たくなった。自分の目が黒く淀んでいるような気がしたのだ。困ったときのおばあちゃんみたいに。困ったときの母親みたいに。いや、鏡なんて必要なかった。間違いなく、わたしの目玉は真っ黒に淀んでいた。絶対、そうに決まっていた。おばあちゃんと母親とわたし。三者三様、それぞれ、違う地平に立っていた。それぞれの間には越えられない大きな溝がたっぷりあった。たとえ母親とおばあちゃんの間に血のつながりがなかったとしても、わたしとおばあちゃんの間に血のつながりがなかったとしても、わたしたちが吸って吐いてを繰り返す大気に切れ目がないように、みんな、どこかの次元においては密接に結合し合っているはすで、この真っ黒に淀んだ瞳こそ、そういう表れのひとつに違いなかった。わたしは自分自身の中におばあちゃんの存在を感じた。母親の存在を感じた。
彼には返事を出さないことにした。無視を決め込むことにした。きっと、おばあちゃんも、お母さんも、同じ状況ならそうしていると思われたから。不安はなかった。恨まれようとかまわなかった。これからどんなメッセージが送られてきても、仮にそれが合理的な苦情だったとしても、すべてがすべて、どうでもよかった。
ただ、唯一、気がかりだったのはリアルタイムで彼に自宅を占拠されていること、それだけだった。わたしはこれからどこへ帰ろう。たちまち途方に暮れてしまった。いま来た道を遡り、おばあちゃんの家に泊めてもらおうか。いや、悩んでいる間に時間は流れに流れ、夜も二十三時をまわっていた。きっと、おばあちゃんは眠っているだろう。それに咳もしていた。いまから起こすのはあまりにも申し訳がなさ過ぎた。それにさっきの一言のせいでいますぐの再会はかなりめちゃくちゃ気まずかった。
さて、どうしたものかと考えあぐねていたところ、母親に手を引かれる二人の子どもが目の前を通り過ぎた。たぶん、女の子が八歳ぐらいで、男の子は五歳ぐらい。幼い頃の自分たち姉弟を見ているようだった。よく、母親に連れられて、あんな風にお出かけしたなぁ。不覚にも安易なノスタルジーにあてられていると、ぼんやり、まだまだあどけなくって、可愛らしかった在りし日の弟の笑顔が頭に浮かんできた。つい、ほのぼのしてしまいそうだった。でも、その後を追うようにいくつかの疑問が心の中にどろりどろりと湧いてきた。産後鬱だったはずの母親は、なぜ、弟を産んだのだろう。
自分は大きな勘違いをしていたのかもしれない。もし、そうだとしたら、それはあまりに大きな間違いだった。わたしはたちまちゾッとした。この謎をこのまま放っておくことはできなかった。少なくとも、お母さんが母親であることを放棄して、娘に帰る、その前にすべてを明らかにしておく必要があった。そうじゃないと、わたしたちは永遠にすれ違い続けてしまいそうだったから。