「美術系予備校生の謎」
「美術系予備校生とは」
生態がよくわからない”美術系予備校生”にスポットライトを当てたのが漫画「ブルーピリオド」。主人公が通った予備校は”新宿美術学院”、通称「新美/しんび」。
ちなみに当時は「お茶の水美術学院/おちゃび」「すいどーばた美術学院/どばた」「代々木ゼミナール造形学校/よぜみ」などが藝大受験では有名だった。(新美に通っていた現役高校生は都立芸術高校/ゲイコーの学生が多くとっぽい連中だった)
あたしは現役受験で見事にスベり、浪人突入。郷里で私塾に通っていたが「このままではダメだ」と見切りをつけ、5月のゴールデンウィークに上京した。うどん県お初の藝大受験に特化した特別クラス(15名)を設けた公立高校の一期生。
1年生からデッサンやデザインをみっちり学んでいたので、途中から東京で予備校に通ってもなんとかついていけるだろうと踏んでの上京だった。そしてあたしは新美を選んだ。
ところが、なんということかのカルチャーショックの嵐。関東一円から通学してくる予備校生たちの言葉がまず理解できない(茨城のズーズー弁など)。
通い始めてからずっとあいさつしていたおじさんが、先生でなく生徒だったとわかったときの驚愕!(どうみても30代、10浪しても20代なのに・・)
いま思い出しても”人生でいちばん学べたピリオド”(幼稚園の砂場より)だった。
「美術系予備校生の朝は早い!」
美術系予備校生の朝には熾烈な争いがある。鉛筆デッサンの授業が始まる9時前に教室に到着したら・・ありり・・もう満室というか、カルトン&イーゼルを並べるスペースがない。
どうしよう、と困り顔で立ってたら「こんなに遅く来て空いてる場所があるわけないじゃん」とクラスメートに言われた(茨城出身の親切な男子、彼のなまりはすごかった。正確には分からないがたぶん内容はこんな感じ)。
そうなのか・・
1週間は同じモチーフを描くので、月曜日に場所取りをすれば良いということもそのうちわかった。そこで、月曜は下宿のある東小金井から中央線で新宿まで通うのに朝の6時に下宿を出るようになった。もちろん朝食抜き。
朝の7時なら自分のイーゼルを教室のどこに置いても文句は言われない。できるだけモチーフの近くで、光の加減が描きやすいところを選んでいたような気がする。(受験では描く場所は選べないからどこでも描けないとダメなのに)
イーゼルの設置が終わり予備校の周辺を散歩して見つけた食料品店で焼きそばパンとコーヒー牛乳を買って毎朝食べるようになったので、結局月曜だけでなく毎日7時予備校到着が日課になった。あたしは、今でも”焼きそばパン”を食べるとノスタルジーに浸ることができる・・
「美術系予備校生、満員電車に乗る!」
当時、中央線のラッシュ時の電車内はひどい混み具合だった。新宿まで押しくらまんじゅう状態で毎朝生きた心地がしなかった(田舎の子なので)。これは・・どうにかせんと・・そうだ! 実習服があるじゃない!
母校の実習服は幼稚園児のスモックのような上着で、袖元にはゴムが入っている。これをデザイン制作など実習する際に羽織るので結構汚れるのだ。アクリル絵の具がベタベタついたとしても乾いてしまえば色移りすることはないのだが、一般人にはそれは分からない。
これをラッシュ時に着用して乗車すると・・周囲には10cmほどの空間ができる。ということでギュウギュウではなく少し楽な姿勢での車内となった。
そうそう、実習服といえば、背中のイラスト合戦が懐かしい。高校入る前、巷で流行ったTVドラマが「謎の円盤UFO」、クラスではストレイカー司令官派とフォスター大佐派のまっぷたつに別れてこちらはフォスター派。とーぜん背中のイラストはフォスター大佐だった。科長先生から「消しなさい!」と叱られたが「マジックで描いたので消せませーん」で通した。
「美術系予備校生、夏休み帰省中に母親に追い返される」
5月から東京で浪人中だったあたし、3ヶ月経ってもあまり成績は振るわなかった。夏期講習(前期・後期)が始まり、その課題は静物の水彩画。確かガラス製の水槽がモチーフとして使われており、どうしてもうまく描けず手詰まり感があった。そこで前期が終わった後の中休みにうどん県に帰省した。
1週間ほど滞在して東京に戻る日、連絡船(まだ瀬戸大橋はない)で岡山の宇野港に着いてみると新幹線が事故か何かで止まっていることが判明。こりゃしかたないやと高松に舞い戻った。当時高松築港のそばで喫茶店を営んでいた母親の元に寄ったら「東京に戻りたくないから逃げ帰ったんだな」「とっとともう一度東京へ行け!」と店を追い出された。
「なんていう仕打ちなんだ!」と恨みがましく母親を罵りつつ半泣きでまた連絡船に乗った。1年の浪人生活のなかでこれが分岐点となったのだ。あのときそのまま郷里に留まっていたら・・負け犬になっていたかもしれない。(わおーん)
後期の講習会でしぶとく粘って水彩画を描き終え、それがコンクールで初めて真ん中のラインを超えた。コンクールとは「美術系予備校の批評会」のことで、参加者全員の作品を教室の壁全体に貼りつけていきトップからビリまで並べていくのだ。
自分の作品が前に進んだりうしろに戻されたりと、予備校生にとっては針のむしろを転がされるような時間。これは、経験した人間にしかわからないけど、ビリになるのはクソつらいのだ!(壁面に全部は並ばないので実際は最後の方は省かれる)
「とっとと東京へ戻れ!」、これがなかったら今のあたしはない(このとき電話で父親に泣きついたら「高松におったらええが」と言われた。娘に甘い父)。母とはいろいろあったが、これがいちばんの思い出。感謝しかない。
「美術系予備校生、人生のなかで一番スマートだったころ」
夏期講習会を終え、なんとか浪人生活を軌道にのせた秋口、はっと気づいたら鏡のなかに見えた自分は驚くほど痩せていた。もともと152cmのチビ、高校時代の体重は47~48kgはあって中肉中背だったのが・・38kgまで落ちていた。
食事はほぼ外食、食べていないわけではないが何かに没頭すると食の優先順位は下がる。今思えば、少しずつ命をけずって日々のデッサン・デザイン制作(一般的な入試の課目)を行っていたのだ。怖いねえ・・死ぬわ。当時の写真が数枚残っている。なんとも「暗い」表情のブライス人形だ(痩せると目がデカく見える)。
「美術系予備校生、3畳一間トイレ風呂無しに住む」
東京で見つけた住まいは東小金井にある女性ばかりの下宿だった。そこから新宿の予備校に通っていた。その下宿の住人は半分が大学生、半分が働いている人たち、唯一のカテゴリー外があたしだった。
3畳一間、1畳の幅の流し台&ガス台付きというなんともな部屋(イラスト左)、押し入れに至ってはうちが上半分(つまり下半分が壁)、隣が下半分(上は壁)という構造だと判明したのはお隣さんちでお茶したときだった。1階廊下の奥にあるボッちゃんトイレは共同で風呂なし(当時の下宿は風呂屋通いと決まっていた)。
家賃はたしか7,500 円、なにせ仕送りが月5万円だから、家計の25%までで住居費を抑えるなら12,500円ということ。入学して引っ越した先が12,000円物件で4畳半の部屋に水洗トイレがついてきた(よしよし)。
そうそう、下宿の通りを挟んで真ん前にあったのが庭のある白い洋館。そこはなんというか別世界だった。屋根に煙突あったから多分暖炉もあったかと。芝生のある庭には白いフェンスがあって・・あはは!! 今思い出したら笑える、歌みたいじゃん!!(当時のヒット曲「あなた」)
不思議なことにその洋館に出入りしているのはほぼ同年代ほどの男女数名だった。ある日、家から出てきたひらひらレースのカントリーファッションをまとった女性に「このお家のかたですか?」と尋ねてみた。「そうです」。「ご兄弟姉妹で住んでいらっしゃるんですか?」「いいえ友人たちと同居です」との返事。なるほど、今思えばこれは「シェアハウスの走り」なのだった。
数分立ち話をしてみて分かったのが、大家さんはアメリカ人で月に一度やってきて住人たちと一緒におしゃべりするんだとか。いいな~と思い、もしメンバーに空きが出たら教えてください、と頼んで別れた。
その後、東小金井よりもっと西のほうに位置する美大に入学したので、そんな機会は訪れなかったし、そんな話をしたこともすっかり忘れてしまっていた。
「美術系予備校生、通学ルートを変更する」
中央線で通学し始めてしばらくして、満員電車にうんざりで何か良い方法がないかと思案して、荻窪で地下鉄丸ノ内線に乗り換えることを思いついた。これだと荻窪は始発駅なので座って新宿まで、どころか予備校のある新宿御苑まで行けるので数倍は楽ちんになった。(御苑の駅から予備校は徒歩1~2分)
すると、御苑自体に慣れてきて御苑のなかでおやつを食べたり、ごろっと寝転んで昼寝もできた。当時の入園料は100円以下だったと思う。(今は500円。学生&65歳以上は半額)
そうそう、新宿駅から予備校までのちょうど真ん中に画材屋があって(おや、今でもある)、石膏像がたいへんお安く売られていた。他の画材も安いほうだったけど、石膏像の安さにおいては定評があった。「甘いよね?」「うん甘い」。何が甘いって?「型取りが甘い」というかゆるいのだ。
「美術系予備校生、ロッテ日本一の優勝パレードを上から見下ろす」
1974年は・・こちらにとってはただの浪人生の年だったのが、プロ野球ファンにとってはロッテが日本一になった記憶に残る年だっただろう・・
当時、予備校なのに、なぜか文化祭というイベントがあり、ちょうどその文化祭の準備をしているときに、巷ではロッテが中日に勝ち日本一になったのだ。
新美は新宿大通りに面したビルの上階にあった。ロッテの優勝パレードが新宿大通りを通過するという話を聞きつけた。有志が「紙吹雪を教室の窓からばら撒こう」というので、デザイン科総出で紙を切り刻んでビルの下をオープンカーが通過した際にどっさり撒いたのであった。あとで事務局から大目玉。
その際に飛んだ噂というのが、オープンカーに乗った金田監督が「チョコを道路にバラ撒きながら新宿大通りを進んでくる」というものだった。もちろん「デマ」だった(クラスの何人かは1階の路上で待機していたらしい)。ロッテだからね。
さて、新美には油絵・日本画・デザインと専攻科があり、各科で複数のクラスに分かれていた。学生の多かったデザイン科は確か3クラスあったかと思う。講師の名前でそれぞれが「〇〇組」と呼ばれていて、あたしはコバヤシ組だった。コバヤシせんせは藝大の講師だったと思う。当時の美術系予備校で、新美は後発ながら東京藝大デザイン科の受験に特化しており合格率も高かったのだ。
で、そのコバヤシせんせの格好はまさにヒッピーで、髪の毛はロン毛のちりちりパーマ。最初に目にした際は、田舎から出てきたばかりの少女に「都会はこわい(得体の知れない人間が多い)」と思わせるのに充分な迫力があった。
そして手にはいつも長い棒を持っていて、壁面に並べられた作品をその棒で指しながら講評を行うのだった。うわっ、忘れていたはずなのに・・目に浮かぶ・・
当時の新美のデザイン専攻の講師は、ほぼ東京藝大の助手で固められ、そのトップがコバヤシせんせ。受験する先のいわば身内がセンセと呼ばれ指導しているのだから色々優遇されることもありなん?(このシリーズの終盤でバラしますが、それで合格できるわけでもありませぬ)
「美術系予備校生、予備校の文化祭で”限界”を超える!」
予備校の文化祭というイベント、デザイン科の場合は単にデッサンを仕上げて教室の壁面に飾るというものだった。いつものコンクールとどこがどう違うのか・・違わん。モチーフはいつもの石膏像だし、1種類ではなく数種類飾られていたので、自分の好きな石膏像をデッサンして良いということ。アリアドネに決めた。
それからは一日中、何の感情もなくひたすらデッサンに明け暮れた・・助手センセも生徒たちの合間をぬって「あーだ」「こーだ」とアドバイスして教室をまわっていたが、あたしのデッサンには何も口を挟まなかった。たぶんそういう雰囲気でなかったためか・・一心不乱なデッサンぶりだったと思う。
明日は展示という日の夕方、仕上げてフィクサチーフ(木炭や鉛筆の定着保護液)をかけようとして、それを切らしていることに気づいた。隣の教室の知り合いから借りてきてデッサンの前にもどってきたら・・・驚いたことにみんながあたしのデッサンを取り巻いているではないか! なんなんだ? 何事かと思った。
フィクサチーフを貸してくれた知り合いがやってきて「うわ!すごい!」と声をあげ「いくらでも使っていいよ。なんなら全部使って!」と言うのだが、使い過ぎて鉛筆や木炭がデッサンの画面から流れおちた光景を見たことがあったので「まさか」と言いつつ、軽く表面に霧を吹いてお返しした。返しざまに「いいできじゃん」との感想をもらう。
良い作品というのは人を惹きつけるものだということを初めて知った出来事だった。この後、これ以上に良いデッサンは描けなかったし、これが最初で最後のことだった。
『受験編』
「美術系予備校生、受験シーズンを迎える・・まずは準備」
文化祭が終わった頃から、これといって思い出すエピソードもあまりなく、2月の受験シーズンに突入したような気がする。ただ・・デッサンコンクールでは上位に自分の作品が並ぶようになってきた。
そういうときには決まってセンセが「これがいいってわけではないけど・・光の感じが自然だろ?」とかなんとか、「なんでおまえら見えもしないことを描くの?もっと自然に描けないのか」とぶつぶつ言いながら上げていくのだった。その繰り返しでとうとう一番上にのぼることも出てきた。(微妙・・)
東京藝大デザイン科の試験と私学のデザイン科の試験では教科も違うし、システムも異なる。あたしらの時代は、M美は学科試験(国語・外国語)を通過してから実技の試験、T美は学科(国語・英語)も実技も同時に行う。これが2月に行われる試験だった。当時の実技、2つの美大は鉛筆デッサンのみ。
これが藝大の受験となると、1次が鉛筆デッサン・2次が平面構成・3次が教科(英語・国語・数学)。1次を通過すると2次に、2次を通過すると3次に進めるというシステムなのだ。どんどん受験生が減っていく。当時の藝大デザイン科の競争倍率は約30倍ほど(2024年現在は14倍だそう)。スゴイ倍率だが、つまりは大学としての規模が小さく1学年の学生数が少ないということが起因している。
藝大美大のデザイン平面構成の課題といえば・・まあいろいろ出題されていて何が出るかは想像もつかない。ただ、のんびりと構えていては時間内に仕上げることができないので、ある程度画面を塗り潰すためのポスターカラーの準備を行う。試験当日に教室でポスターカラーを水で溶いて・・なんてやってたら地獄を見る。
そこで、写真フィルムの入れ物にポスターカラーを塗りやすく溶いたものを暖色系と寒色系に区別して20本くらい用意しておく。つまりは色作りはできている状態でそれらを並べた箱を受験会場に持ち込む。あとは現場で色を組み合わせるだけ。
試験はまずはT美から始まった・・これがねえ・・大変なことになった・・
「受験本番、私大”T美&M美”鉛筆デッサン!」
浪人突入9ヶ月経過、とうとうやってきた、来た、本番が。まずはT美の試験だ。
すでに美大生やってる相方が「合格弁当」を携えて受験会場の正門で待っていてくれた。弁当を受け取り中に入る。
デッサンの試験場、例えばある教室の入り口に「1~20」とか張り紙があるとすると、入る際に自分の受験番号19番を監視員に見せ、席順(イーゼルの位置番号)が書かれた紙切れをもらう。
あちゃーー!
列の最初のほうに並んだら、イーゼル席が後ろのほうだった。マズい! モチーフの石膏像がよく見えない。現役で受験した愛知芸大はこれで失敗(ここしか受験せず。落ちて浪人)したのに、またか!?
が、ここからが浪人生の本領発揮。イーゼルをずりずりと前の方に少しずつ移動する。少し移動したら休んでの繰り返し(目立ってはだめ)、真ん中あたりまで来たら、そこでしっかりイーゼルの位置を決める。
おや、同じことしてる人間がいるやん・・あやつも現役じゃないな。午前と午後で6時間だったかと思う。T美の場合は1日じゅうデッサンだ。
11時すぎた頃になると、監視員が入れ替わり立ち替わりやってきて後ろからこちらのデッサンを眺めている。同じように移動した輩の後ろにも立っている。実に鬱陶しいが、こういうシーンが受験の間じゅう続く。気にしちゃダメ。
お昼になってとりあえず弁当持って教室の外に出たら、なんとケンタの販売車が来ていた。うわあ!さすが東京はスゴい!(なんのこっちゃか)
ところが・・頭の中に浮かぶのが「消したい」「やり直したい」というワード。ここまで描いて来たデッサンがどうしても気に入らず、どうしようかと悩み始めてしまう。結局お昼休みの1時間、なにも喉を通らず、考えるだけで終わってしまった。。。そして13時試験再開。あたくし、暴挙に出る!!! 消したのだ、全て。きゃあああ==(周囲はかなり引いていた)
受験のデッサンは時間内にどこまで描き込むかは自由なので、試験時間の半分あれば問題なくある程度仕上げることは可能だとは思うけど、良い子はやっちゃだめ。それでも午後は自分の思い通りに描けて気分が良かった。もう1人の移動組のライバルはあきれた顔して見てたけど。そして、あっというまに終了となった。
朝別れた校門に迎えに来てくれた相方に何があったか話して、駅で弁当を食べさせてもらった。後悔のない、手作り合格弁当はとても美味しかったのは当然だ。
お次はM美、一次の英語・国語の教科試験を通過で実技試験に進むことができた。これは美術系の浪人生にとってはかなりの鬼門。なぜなら、彼らはほとんど学科の勉強をしないから。幸い出身高校の美術科は受験に特化した進学クラスだったので英・国はしっかりやらされた。その甲斐あって問題なく通過。
いよいよ実技試験の日となった。前回の失敗に学んで、試験会場に入る行列は最後のほうに並ぶ。席順の紙切れをもらってみると「やったあ〜」一番前だった。モチーフは確か植物が山ほど入ったバケツだったかと思う。
午前中3時間だけのデッサンだったので、今回は迷わず一心不乱に描けるだけ描いた。当時、T美は薄めのデッサン、M美は濃いめのデッサンが各大学の好みと言われていたため相当濃いめに描き込んだと思う。こういう情報は予備校ならでは。
倍率といえば、藝大の次にはM美の倍率が高く、そのM美のなかでも視覚伝達デザイン学科が一番倍率が高かった(20倍ほど)。はい、合格。
「受験最終、東京藝大デザイン科1次選抜!」
東京藝大デザイン科には難関な3つの試験がある。デッサン、平面、学科。そして最後に面接。1次選抜の日のこと。サモトラケのニケ像やガッタメラータ騎馬像など大型の石膏像が展示されている東京藝大の石膏室で、受験生たちが集まって取り囲み、下から見上げていたのはジョルジョ像だった。
「ジョルジョ」という石膏像は、全身像もあるがこの下の写真のような胸部の像が一般的。ちょっと神経質そうな顔つきで、あまりデッサン映えしない石膏なのだ。
すでに述べたが、美術系予備校の講師は藝大の助手たちが多い。新美はオール藝大の助手だった。でね、試験の前日、試験会場の教室に石膏像を並べるのはその助手たちなのだ。並べた後で予備校にやって来て「明日はジョルジョだ!」と学生に伝える(夜)。だから試験当日、集合場所の石膏室のジョルジョの前に受験生たちが集まるというわけ。
その光景を見て「意外、みんなジョルジョが好きなのね!」と思ったあたしは大勘違い。試験会場に入室して納得。私的にはモチーフ判明が当日で良かったと思う。
一次選抜の鉛筆デッサンは6時間。昼休みを挟んでの長丁場。1週間くらい時間をかけて行うデッサンと受験デッサンでは目指す終点が違うので、別に6時間目一杯描かなくても良いのだ、という感じ。実をいうと午後の1時間ほどで飽きてきちゃったのだ。
どうしよっかなあ・・トイレでふけてくるかと、挙手して「トイレ」と試験監督にお願いする。トイレ入り口までついてきたその試験監督、うちの予備校の講師である。「まあ今の感じでいいんでない」と呟きあり。
トイレは和式だからしかたなく床に座り込んで壁にもたれて少々眠ることにした。たぶん20~30分後にトイレから出て会場に戻った。「おまえ何してんだ」みたいな顔つきで試験監督にジロッと見られたが、気にしない気にしない。その後もう少しだけ描き足してあとは放置で無事終了。
「藝大デザイン科、2次選抜:平面構成」、やらかしたこと・・
残念ながら平面構成の試験がどんな出題だったかまったく思い出せない。ポスターカラーをとにかく画面全てに塗りたくったことしか覚えていない。やらかしたのは最後になってからだった。
試験会場の教室には後方に洗い場があって、試験終了の15分前あたりで仕上がったあたしは筆洗と筆とパレットを洗い、帰り支度をしたのだった。教室内がざわめき立った・・ことだけ覚えている(本人何も考えずきれいに洗い終えた)。
で、翌日の予備校の教室、2浪か3浪の先輩がつかつかとやってきて「おまえ許さないぞ!!あんなことして!!!」と怒鳴った。なにを怒っているのだろう・・と顔に「?」のあたし。「あのなあ、おまえが洗い場で道具を洗い始めた音で、一気に焦ったんだよ!気が変になったぞ!なんてことするんだ!」。
監督官だった講師からも「会場で洗いモンした受験生、おれは知らん。これまで1人もいなかったぞ」。あらら・・そうだったんだ・・。その噂は予備校中に知れ渡りマズい雰囲気が満載となったため、しばらく登校しなかったと思う。そして2次通過。幸い怒った先輩も通過していたので、恨まれはしたものの、それ以上責められることはなかった。ほっとする。
「藝大デザイン科、最終の三次選抜:3教科&おまけの面接」。なるほど・・という面接であった。 → 不合格!!
当時の藝大の最終試験は午前が教科、午後が面接であった。教科は私学と違い数学(数1)がある。国語と英語は私学の受験に備えて少しは勉強していたが、数学はなぜかまったく手付かず何の準備もなしに臨んでしまった。ほとんど答えを記入できなかったような気がする。
ががが!
教科がダメで落ちたとは思わない。なぜなら面接の際にはすでに合否が決まっているような雰囲気があったから。面接官からこう問われた。「君は今年不合格だったら来年も藝大を受けるかね?」
「決めてません」と答えた。正直なところ浪人生活をもう1年だなんてごめんだ。
この「来年も受けるか?」という質問が出ることがあるという話は聞いていたものの、まさか自分にも向けられるとは思っていなかった。ダメ押しだったのが、あたしのあとに2名の学生が残っていて、面接室を退出する際に聞こえてきたのが「2人一緒に入室しなさい」だった。
後に判明したが、その残り2名は合格していたから2人同時で面接OKだったのだろう。つまりは・・もう合否は2次選抜で出ていたということになる。じゃあ3次選抜は何のため? うーん・・想像の世界だが、ちょっと迷う学生の場合には教授たちがとりあえず会ってみようということかも?
予備校でまことしやかに伝えられていた藝大面接の伝説、「君、ちょっとぐるっとまわってみて」と言われた受験生がいたとか。今ではセクハラもどきだが、同じレベルの受験生なら少しでもカワイイ子をとりたいと考えることもあり得るのかな?
この3次選抜まできての不合格で、東京藝大合格と踏んでいた母校では大いに盛り下がったらしい。こちらは美大2校に合格していたからそれほどの落ち込みはなかった。まあボーイフレンドも同じ美大にいたからね。
そのうち中退までの2年間の大学生活を綴ることもあるやも。エピソードは結構ございます。
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