2011.3.12〜東日本大震災直後のくらしを振り返る②
①(3.11編)はこちらをご覧ください。
まえがき(一部修正して再掲)
東日本大震災から14年近くの時が過ぎている。
これまで、震災当初の自分の周りのできごとは自分の記憶の中に留めていて、人に話したり、何かに書いたことはなかったと思う。しかし今年、あるきっかけから、そういう記憶を何らかの記録として残しておこうと思い立った。
13年も経つと、忘れてしまったことも多いが、自分の周りで起こったこと、目にしたもの、思ったこと、考えたことなど、思い出しながら書いていきたい。災害下における、ひとりの仙台市民の生活を。
実家へ
12日の朝がやってきた。太陽の明るさで目が覚める。
もともと、この日は実家に行く予定があり、揺れも落ち着いてきたようだったので様子見がてら行ってみることにした。
前の日に行かなかったのは、片付けしているうちに薄暗くなってきてそういう中での車の運転はちょっと不安だったのと、留守の間に大きな地震が来て、また窓が空いてしまって誰か入ってきたら嫌だなあと思ったからであった。
実家までは、車で山の方に20分。
カーラジオからはいろんな情報が一気に入ってくる…。
実家の様子
実家には両親がいた。まずはホッと一息。お互いの無事を喜びあう。
昨日の話を聞くと…。
・まずはびっくりした。大きな揺れの間は何もできず、ただ地震が止まるのを待つのみであった。
・脱衣所に、洗濯で使うための風呂の残り湯をバケツにおいていたが、揺れで全てこぼしてしまった。揺れが収まってからは、その後始末に追われていた。
・少し落ち着いてから、水は出るかと蛇口をひねってみたら出たので、調子に乗って貯められるだけ貯めたが、やがて止まってしまった(電気とガスもストップ)。
・親戚から安否確認の電話がたくさん来て、出る間もないのと充電が減ること、また停電で電波の状況も悪くなってきたので電源を切っていた。
・弟は盛岡市に出張中だったのだが、戻るに戻れず知人の家に泊めてもらっている。
丘陵地の住宅地であること、車がないこともありライフラインの復旧までは大変そうだが、実家には非常時最強設備の石油ストーブ(電気がなくても使えるタイプ)があり、暖を取るのと調理関係は今のところ何とかなっているとのこと。そして…、
「河北新報」朝刊を見る
電気は来なくても朝刊は来ていた。そこで、地震が発生してから約20時間で起こっていたことを知ってしまった。正直背筋が凍るというか、写真や事実に押しつぶされそうな感じがした。新聞なので、ある程度の時刻までの情報でしかないのだが、それでも圧倒されてしまった。今は、どうなっちゃっているんだろう…? 声も出ない。
実家から家に戻る
家に戻る途中、近所の駅の方に回ってみたら、駅前の八百屋がやっていたので寄ってみた。例によって、ほとんどものはなかったのだが、プチトマトを買うことができた。
家に着き、実家から借りてきた脚立を使って居間の蛍光灯を交換した。数日前に切れたので、とりあえず新しいのを買っていて、週末に交換しようと思っていたのだ。その時点では全く意味がないのだが、電気が戻った時についたほうがいいなあと思ったのと、何もしていない状態がやりきれないというのもあったと思う。
実家に泊まる
夕方になった。脚立を返す用もあるし、地震の回数がだいぶ減り、規模も小さくなってきたことからこの日は実家に泊まることにした。水を持てるだけ持って。
石油ストーブはやはり偉大だった。
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