
コミュニティ
おはようございます☀
大山滞在12日目です。
今日も愉しんで生きたいと思います。
最近、「コミュニティ」というものについて考えています。
場づくり、第二のふるさと、サードプレイス、シェア〇〇などなど。
自分自身、そうしたコミュニティに憧れがあるし、そういったコミュニティでみられる人と人とのつながりが素敵だなと思っています。
今後、自分がある程度住む場所を決めたときには、自分の住む場所とカフェや食堂のようなコミュニティースペース的なものが一体となった空間を作りたいなとも考えています。
友だちの友だち、という形で広がっていく繋がりにも興味があって、大学の友人と高校の友人と話して、何かイベントをやりたいねということも話したりしています。
そういったことを考える中で、自分はどういったコミュニティをつくりたいのだろう、と考えるようになりました。
ただ、「コミュニティをつくる」ということに、なんとなくざわつきがありました。
大山に来てから、まーしーさんと一緒に過ごす中で、まーしーさんと一緒に仕事をしている人、大山に暮らす人、大山が好きで時々遊びに来る人、いろいろな人に出会いました。
それぞれの人がそれぞれのちょうどよい距離感で、ゆるやかにつながっている。
それを「コミュニティ」と呼べばそうなのですが、自分が無意識的に抱いていた「コミュニティ」という言葉のイメージに当てはめるには違和感がありました。
それでいて、自分がいいなと思っていた、コミュニティ像がまーしーさんの周りには自然にできあがっている感覚だったのです。
なんとなく持っていた違和感をの正体を紐解きたくて、まーしーさんに
「これまでの活動はコミュニティをつくろうと思ってやってきたのですか?」
と聞いたら、
「コミュニティをつくろうと思ったことは一度もないかな。」
という答えが返ってきました。
そこで、自分の違和感の正体がわかりました。
自分が考えていた「どういったコミュニティをつくりたいのだろう」は、コミュニティをつくること、が目的化していて、そこにある人と人とのつながりが手段になっていたのだなと気づきました。
でも、友だちの友だちというつながりも、コミュニティをつくりたくて声をかけたわけではなくて、なんとなく面白そう、新しい人と人とのつながりがワクワクするな、それくらいの感覚でした。
そのワクワクを増やしたいと思った先に、結果としてのコミュニティというものが見えたために、「コミュニティ」側から考えていたのだなと。
今日、コミュニティについて書いてみようと思ったのですが、いざ書き始めてみたら、全然まとまってないということに気づきました。
まだ自分の体験が足りていない感覚です。
ただ、朝シャワーを浴びているときに書きたいなと思ったので、割とピンときていたテーマだったのだと思います。
またこれからもアップデートされそうなので、そのときには改めて書こうと思います。
大山滞在「残り21日」