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なぜ神様は、人間に自由意志を与えたのか

最近、キリスト教を学び始めました。

少し前に、大学時代の友人から牧師さんを紹介してもらい、その方がとても気さくで面白く、素敵な方だったので、「これは何かの縁だ!」と思い、週に1回ほどのペースで教えてもらっています。

キリスト教を学ぼうと思った理由は、

・日本社会にある「宗教」という言葉に対する偏見に関心を持っていたこと
・今、Colorbathで一緒に仕事をしているパートナーがいるマラウイが、キリスト教徒が多く、彼らへの理解も深まるかなと思ったこと

みたいなものがあるのですが、何よりも素敵な牧師さんに出会えたということが一番大きかったと思います。

宗教に対しては、割とずっと興味は持っていたのですが、なかなか1人で教会に行ったり、第三者の勧誘で学び始めたりというのは、ややハードルが高く、、
かといって、自分で聖書を買って独学で学ぼう、というほどには興味もありませんでした。

そう考えると、やはり何か一歩踏み出せる「きっかけ」というのはとても大事で、ご縁やタイミングというのは本当にふとした時に訪れるものなのだろうなとも思います。

とはいえ、「神様を信じる」ということの実感は湧いていなかった

宗教に興味は持っていたものの、どちらかというと、それは宗教を客観的にみた時の興味であって、

・どんな構造、歴史があるのか
・なぜ人はそれを信じ、一方で怪しいものと疑うのか
・そして、時に迫害や戦争が起きてしまうのか

こういったことに関して、客観的に理解を深めたい、という思いがほとんどでした。

ですので、宗教の世界観を知ったり、その摂理への理解を深めるのはすごく楽しいのですが、「神様を信じる」ということに関しては、なかなか腹落ちしていない自分がいます。

それもあって、

「この世の中に原理原則があって、それに従えば、幸せになり、そこから外れると不幸になる。みたいなことはわかるんですけど、それと『神様』の存在がどうも紐づかないんですよね。」

「そもそも神様って人の姿をしてるんですか?」

「牧師さんは、『神様が見てる!』と思う時に、どんな絵を思い浮かべるんですか?髭の長い、天使の輪をかけたおじさんですか?」

みたいな、ど直球というか、無礼というか、そんな質問をよくしてしまいます。
それでも牧師さんは、一つ一つの質問に丁寧に、かつ、面白おかしく、わかりやすく答えてくれるので、とても学びがいがあり、「はぁ〜〜、なるほどおぉ。」を連発しています。

自由意志でしか愛は生まれない

先日のお話は「愛について」でした。

一番最初にお話させてもらった時、「神様を信じる」ということにどうも実感が湧かない、と話した私に対して、牧師さんは、

「最後、信じるかどうかは本当にその人次第。でも、神様はこの地球に生まれてきた人を、ただ一人の漏れもなく、とても愛している。それだけは知っておいてほしい。」

ということを伝えてくれました。
それを聞いたとき、なんだかすごくあたたかい気持ちになり、それまで無機質に感じていた「神様」という存在が、グッと身近になった気がしたのです。

その時の反応も踏まえて、まずは「愛について」から始めようと思ったということでした。

前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
前回の授業?の概要は、以下です。

・人間の目的は、幸せになることである。
・一人一人の人間が幸せになることは、神様にとってもまた幸せである。
・幸せになるための「道」を、キリスト教では「予定」(=あらかじめ定められたもの)という。
・「予定」から外れていくと不幸になる。
・「予定」を進むか、そこから外れた道を進むかは、人間が持つ「自由意志」に委ねられている。

ふむふむと聞いていたところで、ふと牧師さんから質問を投げかけられました。

「どうして神様は、人間だけに自由意志を与えたと思う?」
「人間が幸せになることが、神様にとっての幸せでもあるなら、予定から外れないように、自由意志を与えなければよかったのに。」
「なぜ、わざわざ自由意志を与えて、不幸に進む余地を残すようなことをしたと思う?」

確かに…
そうだよ。人間の幸せが神様にとっても幸せなら、わざわざ不幸を選べるようにしてくれるなよ。神様どうしてよ。矛盾してるじゃないか…!!

少し大袈裟に書きましたが、この問いを聞いた時には、おおよそそんな心境でした。

なぜだったのか。
なぜ神様は、人間に自由意志という諸刃の剣を与えたのか。
牧師さんは、ある例をもとに説明してくれました。

たとえば、パートナーと一緒に暮らしていて、君が仕事で遅く帰ってきたとき。
彼女は、料理を作ってくれていて、しかも自分も食べずに帰りを待ってくれていた。

その時、君はどんな気持ちになる?
自分のために、そこまでしてくれたことが嬉しくないかい?

仮に、ハンバーグが少し冷めていようと、味が薄かろうと、それはそんなに大事なことじゃないと思うんだ。
自分のことを思って行動してくれた。それだけで嬉しいはずだよね。

でも一方で、家事ロボットが同じことをしてくれた時、君は同じように感じるかな?

たぶん、そこまでの感動はないんじゃないかと思う。
彼らは、気分が乗らない、疲れている、それでもあなたのことを想って家事をする、というわけでは決してなくて、ただただ、決められた仕事をやってくれる。

彼女は、自分も疲れていたり、お腹が空いていたり、それでも、あなたのことを想って、自分の意思で家事をし、一緒にご飯を食べるという選択をしてくれた。
そこに愛を感じるんだと思う。

「自由意志」がなかったら、愛は生まれないし、愛を感じることもできないんだ。

……

気づいた時には、感動のため息が漏れていました。


これが、キリスト教がよく「愛の宗教」と呼ばれる所以なのかと感嘆しました。

そして、少し躊躇いながらも、最後に質問をしてみました。
こんなことを聞くのは、神様に対して、それを信仰している牧師さんに対して、失礼に当たるかなという想いを抱えながら。

「つまり、神様は私たち人間から愛されたかったってことですか?」



「その通りだよ。」

「神様は、この地球上で最も愛している人間に自由意志を与え、同様に、自分のことを愛してほしいと願っている。」

「でも、自由意志を与えるということは、神様を信じるも、信じないも、すべて一人一人の人間に委ねることになる。そうまでしてでも、神様は、人間に愛を生み出すための自由意志を与えたんだ。」

なんだか少し、神様の「人間味」触れることができたような気がします。

またここから、学びを深めていくのが楽しみです。







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