「平板」な視覚の危険さ

「工芸」「デザイン」を「現代アート」と錯誤して、日本は現代美術史から孤立しているというのは、日本の現代アート業界がよく口にされるし自覚していることで、しかしどうしようもなく、海外でもあり得るそれと擦り合わすことで、これをそのままにしていることには実は危険がある。「平板」さということ。

日本の現代の国粋主義者が藤田嗣治(『アッツ島玉砕』等)を「上手い!」と称賛するのも、それと繋がる。「平板」なんですけどね、あれも。私から見ると、お調子者としか言えない。

真珠湾攻撃の直後の感涙した小林秀雄の表現も、「平板」さにおいて同種のもので、その後戦況が悪化すると小林は発言しなくなり、モーツァルトや実朝語りに引き篭もるという。こういう行動(現代においても反復)。そしてことが終わってから戦後、「反省しない!」と言ってさも勇敢でもあるように人気を取る。

「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。(中略)その為に僕等の空費した時間は莫大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。
何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。それは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つたりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。

やがて、真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考へた。僕等は皆驚いてゐるのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。何故なら、僕等の経験や知識にとつては、あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は動かせぬではないか。名人の至芸と少しも異るところはあるまい。名人の至芸に驚嘆出来るのは、名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。処が今は、名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た。

(小林秀雄、1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦について、「三つの放送」)

そういう意味で、国粋主義者から正確に、最も遠い存在としての美術家は現代において私でしょうね。「平板さ」批判という、核心。

参照。

加藤 豪@_5925263769112·2月26日
目利きの一般論というものがあり(目利きも時代ごとにおそらく勿論単独ではないので)、所謂一般に思われているミケランジェロやモーツァルトあるいはドビュッシーが芸術であるというのは否定され、デザインの方になる。芸術はレオナルド、ベートーヴェン、ラヴェルということに。

加藤 豪@_5925263769112·2月26日
フローを天才とみなす(そして自分も憧れる)というのが素人の典型ということで、後者は「反省性」が(表には出なくても)絶えず含まれているという根本的な差異。後者が「文明」状態以後の、本来の芸術。

加藤 豪@_5925263769112·2月26日
目利きに庇護されるというのが古典的な芸術家の社会的関係だが、近代を経て、現在は専門的目利きの消失。(真の)芸術家に内在することになる。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1629636876985593856

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