「工芸」「デザイン」を「現代アート」と錯誤して、日本は現代美術史から孤立しているというのは、日本の現代アート業界がよく口にされるし自覚していることで、しかしどうしようもなく、海外でもあり得るそれと擦り合わすことで、これをそのままにしていることには実は危険がある。「平板」さということ。
日本の現代の国粋主義者が藤田嗣治(『アッツ島玉砕』等)を「上手い!」と称賛するのも、それと繋がる。「平板」なんですけどね、あれも。私から見ると、お調子者としか言えない。
真珠湾攻撃の直後の感涙した小林秀雄の表現も、「平板」さにおいて同種のもので、その後戦況が悪化すると小林は発言しなくなり、モーツァルトや実朝語りに引き篭もるという。こういう行動(現代においても反復)。そしてことが終わってから戦後、「反省しない!」と言ってさも勇敢でもあるように人気を取る。
そういう意味で、国粋主義者から正確に、最も遠い存在としての美術家は現代において私でしょうね。「平板さ」批判という、核心。
参照。