27 シカゴ万国宗教大会 仏教アメリカ東漸|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
「ランカーの獅子」カルカッタに拠る
インド・日本・イギリスとあちこちへ行きつ戻りつしてきたが、ここからは「ランカーの獅子」ダルマパーラと日本の関係に向けて少しずつポイントを絞りながらお話を進めていきたい。
さて、24章で触れたように、明治二十四(一八九一)年十月三十一日、ダルマパーラはブッダガヤで『国際仏教会議』を開催し、ガヤーの神権領主マハンタからの大菩提寺奪還に向けて気勢をあげた。しかし会議の当日ブッダガヤを訪問していたベンガル副知事は仏教徒との面会を拒否したばかりか、「寺院はマハンタに属しており、インド政庁に仏教徒を支援しマハンタとの交渉を仲介する意志はない」と冷や水をぶっかけたのである。その背景には、ダルマパーラが大菩提寺の金剛座に仏教旗とともに日本の国旗を掲げ、植民地当局に「日本人がブッダガヤをインドおよび、アジア全域における、野望の槍の穂先として用いるかもしれない」というあらぬ警戒感を抱かせたことも影を落としていた。
ダルマパーラの意図はどうであれ、ブッダガヤ問題はインドの仏教復興運動がまとっていた微妙な政治性を浮き彫りにしつつ長い迷走を続けることになる。
『国際仏教会議』直前の十月二十五日、ダルマパーラはカルカッタ(現コルカタ)のアルバート・ホールで「Indian Mirror」紙の編集者ナレンドラ・ナート・センの司会のもとインドで初めて公式の講演会を催した。演題は「ヒンドゥー教との関係における仏教(Buddhism in Its Relation to Hinduism)」。講演を主催したセンは神智学協会員で、インドの近代的ルネッサンスには仏教の復興が欠かせないとの論の持ち主だった。ダルマパーラはブッダガヤ返還闘争に取り組むなかで当時インドの政治的・文化的首都であったベンガル州カルカッタに集うインド・ナショナリスト(その多くは神智学協会に属していた)との交流を深めてゆく。生涯のうち四十一年もの間インドとりわけベンガルの地で過ごしたダルマパーラは、植民地支配下のインドが次第に「独立闘争の最終段階」に突入してゆくうねりを身をもって体験した。「……ダルマパーラが青年であるかのようにみなしたベンガル人はこの変化の原動力であり、彼らが反英的気運を導いていったのである。ダルマパーラは『若きベンガル人』の勃興、分裂、そして歴史的な闘争を経てその地方が統一されるのを目撃し、最後の段階で民族的抵抗の中心がベンガル人の組織から全インド民族会議に移っていったのを見た。……近代のセイロン人指導者のなかでも珍しいこの経験が、すでに神智学協会や彼自身の心理的傾向によって萌芽的に形成されていた彼の政治的抵抗の特徴と本質を決定づけた」*1のである。
単なる仏教活動家の枠に納まりきらない、ダルマパーラの戦闘的な言行の背景に、彼が生涯にわたってインド亜大陸の革命の声に揺り動かされ続けた事実を見逃すことはできない。カルカッタに拠ったダルマパーラは獅子の爪を鋭く伸ばし始めたのである。
『大菩提雑誌(The Maha Bodhi Journal)』の創刊
ダルマパーラはカルカッタでベンガル人神智学者ニール・コマール・ムッカージーの邸宅に寄宿した。ニールをはじめとするムッカージー一族は孤高の仏教者ダルマパーラと親しく交わり、彼を生涯にわたって外護し続けた。チベット旅行者として河口慧海とのコネクションでも知られるサラト・チャンドラ・ダス(Sarat Chandra Das 一八四九〜一九一七)と会見したのもこの頃である。
一八九二年の初め、ダルマパーラは大菩提会の事務所をカルカッタに移した。同年五月にはアジア諸国に散らばる仏教徒のネットワークを確固たるものとすべく、機関紙『大菩提雑誌(The Maha Bodhi Journal)』を刊行し始める。当初は四折判八ページの小冊子に過ぎなかった『大菩提雑誌』は、現在まで百年以上にわたってほぼ休みなく刊行され続ける世界随一の仏教雑誌として存続している。同誌の巻頭には、釈迦牟尼が最初に修行を完成した弟子たちに向かって説いたといわれる訓戒、
が掲げられていた。ほどなくアジアのみならずヨーロッパ・アメリカにまで読者を得た『大菩提雑誌(The Maha Bodhi Journal)』だったが、ダルマパーラは雑誌を郵送するための切手代を得るか、その日の夕食を得るか、しばしば悩まねばならぬほどに窮乏していた。「苦しむ『自己』など存在しないのだから、また苦しみも存在しないのだ」あまりにもカッコよすぎるが、若きアナガーリカ(宿無し修行者)は嬉々としてその苦難をやり過ごした。
大菩提会のための雑務を忙しくこなしつつ、彼はビルマ(ミャンマー)仏教徒の支援を仰ぐ旅行、チベット仏教徒との関係を確立するためのダージリン訪問、アディヤールの神智学協会年次総会への旅行と、駆けずりまわった。その間にも、ブッダガヤに詰めていたセイロン比丘がマハンタの手下のテロに遭い負傷するなど、ブッダガヤをめぐる情勢は一進一退を続けるばかりだったのだが……。
シカゴ万国宗教大会
一八九三(明治二十六)年、コロンブスのアメリカ大陸[発見]から四百年を期し、シカゴでコロンブス記念万国博覧会(The Columbian Exposition)が開催された。この能天気なお祭り騒ぎに合わせ、J・H・バローズを中心としたアメリカ自由神学者・知識人を発起人として、シカゴ万国宗教大会(The World's Parliament of Religions)が企画される。会期は同年九月十一日より二十七日まで。世界中の異なった宗教的指導者が、史上初めて、平等の立場で一堂に会し討議を行うという、前代未聞のイベントであった。
宗教会議の趣旨を列記した項目のなかには「世界の偉大な歴史的宗教の指導的な代表者たちを、史上はじめて一堂に会合せしめること。」「おのおのの宗教が、世界の他の諸宗教に対して、いかなる照明を与えうるかを探求すること。」という穏当な表現と並んで、「有神論の確乎たる根拠と人類の不死の信仰のゆえん、および宇宙の唯物論哲学に反対する力を一致させ、強化させる必要を示すこと。」といったキリスト教的な宗教観がにじみ出た個所も見受けられる。ただ、結果としてこの万国宗教大会は植民地支配下で貶められていた東洋の精神文明を、西欧社会に宣揚する一大イベントと化してしまったのだ*3。
テーラワーダ仏教の代表として
ダルマパーラは、シカゴ万国宗教大会に、南方テーラワーダ(上座部)仏教徒のただ一人の代表として出席することとなった。『大菩提雑誌(The Maha Bodhi Journal)』を読んだバローズが、彼を招待したのだが、当時ダルマパーラはまだ二十代の青年である。オルコットの日本行きの際と同じく、セイロン仏教界の要人があれこれと理由を付けて出席を拒否したためのシカゴ行きではあった。
ダルマパーラの師であるオルコット大佐は、「インドにおいてなすべきことが山積しているのに、このような旅行に出かけるのは時間の浪費だ」とあちこちで吹聴してまわったが、最後にはロンドンにいるベサント夫人への紹介状を渡してダルマパーラを送り出した。オルコットにしてみれば、ダルマパーラがアメリカへの往路に立ち寄るロンドンで、神智学協会の内紛に巻き込まれるのはいろいろな意味で困るという不安もあったのだろう。
七月の初め、ダルマパーラは『大菩提雑誌』を前述のサラット・チャンドラ・ダースに託してカルカッタを発った。船が立ち寄ったコロンボでセイロン神智学協会から財布を託され、スマンガラ長老は彼の旅路に諸天善神の祝福をと祈り、セイロン仏教徒を代表してダルマパーラにバローズ博士への委任状を与えた。厳父ムダリヤルは気前よく、新調の服と旅費を送った。七月二十日、両親や親族、友人たち、仏教徒や神智学徒に見送られ、ブリタニカ号は抜錨して港を離れた。一八八九年の日本行きに引き続いて、ダルマパーラの運命にとってはそれよりもさらに深い意味を持つ、大旅行が始まった。
アメリカにもたらされるため託された仏舎利と、ブッダガヤ出土の古い仏像と、二万枚の五戒の文だけを携えて、彼はインド洋をただよっていた。一八八九年のオルコットがそうであったように、ダルマパーラにはアメリカで、人々に仏教の在家の戒律を授ける権限も委任されていたのである。
初めて訪うたロンドンで、ダルマパーラは「英国人の師グル」と呼び尊敬していたエドウィン・アーノルド卿、パーリ語学者リス・デヴィス博士、神智学協会のベサント夫人、リードビーター(そして彼がかどわかして連れてきたシンハラ人のジナラジャダーサ少年……)らに歓待された。特に神智学連の歓迎ぶりは異様なほどで、ベサントは「私は『マスター(マハトマ)』のためにも、貴方を世話してあげなければ。ブラヴァツキー夫人も生前同じことを述べていました」と語り、リードビーターは「ダルマパーラのために費やすべき金をマスターから受け取った」とまで語った。まだあまり疑うことを知らない彼は、日記に「ベサント夫人は私にとって母のようだ」と記している。ロンドンからシティ・オブ・パリス号に乗り込んだダルマパーラはベサント夫人らシカゴの宗教大会に出席する数人の神智学徒とともに、旅を続けた。九月二日にニューヨーク、六日にはシカゴに到着した。
万国宗教大会と日本仏教
このシカゴ万国宗教大会には、日本からも釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)、土宜法龍(真言宗高野山派)、芦津実全(天台宗)、八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の四人の僧侶が仏教界を代表して参加した。
マドラスでの「長名話の縁」かどうかは知らぬが野口復堂と、釈宗演や鈴木大拙と縁の深い貿易商の野村洋三も通訳として渡米している。これとは別に、オルコット招聘の立役者、平井金三は思うところあって前年からアメリカに乗り込み、巧みな英語で仏教講演活動を繰り広げていたところだったので、シカゴで日本仏教代表団と合流している。日本のキリスト教会を代表して小崎弘道、神道を代表して柴田礼一(実行教)が出席したことも付記しておく。
日本国内の仏教界の保守派や、仏教ジャーナリズムのなかにもシカゴ宗教会議の性格に不信を抱く向きは多かった。
このような反対論*4が強固に主張されたもので、バローズ委員長より招待のあった島地黙雷、南条文雄の両氏はことに託して出席を辞退したほどだった。一方で日本仏教の海外布教への期待も大きく、多くの仏教信徒の浄財を集めて日本仏教の教義を解説した複数の英文パンフレットが作成され、代表団によってアメリカにもたらされた。宗教会議期間中に配布された数万部に及ぶ英文「日本仏教解説書」のなかには、若き清沢満之(一八六三〜一九〇三)が執筆し野口復堂が英訳した『宗教哲学骸骨(The skelton of a philosophy religion)』*5も含まれていた。また釈宗演の演説草稿を英訳したのは鈴木貞太郎、のちの大拙である。
アメリカ「初転法輪」の誓い
八月四日に横浜より出航した日本仏教代表団は、十六日バンクーバー島ビクトリアに上陸し、二十一日にはシカゴに到達した。翌日、野口復堂が宗教会議委員長J・H・バローズに一行の到来を報じ、持参した縮刷蔵経全巻を贈呈。その後一行はシカゴ万国博覧会を見学したりシカゴ市街を散策するなどして宗教大会の開会までの時を過ごす。ちなみに宗教会議への反対論が根強かったのは日本のみならずアメリカ本土でも同様で、会議をめぐって骨肉の内紛をしていたキリスト教会が、日本から大挙して訪れた仏教代表団を見て急遽、開催の方向でまとまったという逸話も残っている。頭を剃り、(西洋人から見れば)異様ないでたちでシカゴの地を闊歩する日本仏教代表団の姿は、当時のシカゴ市民にも強いインパクトを与えたようだ。
釈宗演によれば一行が遅れてシカゴ入りしたダルマパーラと対面したのは九月五日(ダルマパーラの伝記には彼のシカゴ入りは六日となっているが……)。ダルマパーラ寄宿先のバートネット邸で巡り合った南北仏教徒の俊英たち。その時の記録を釈宗演の手記(「渡米紀程二」)から引用すると……。
異国の地に集い、アメリカにおける仏教「初転法輪」を誓い合った仏教徒一行。十一日の開会当日、シカゴ万国宗教大会の会場となったレークフロント・アートパレスには各国の代表二百数十名、聴衆五千七、八百名があふれていた。
オセロとキリスト
「万国博覧会」の関連イベントにふさわしく世界各地の宗教が勢ぞろいしたこのお祭りのなかでも、ひときわ注目を浴びた人物はインドから出席したヒンドゥー教改革指導者のスワミ・ヴィヴェーカーナンダ(一八六三〜一九〇二)であった。大聖ラーマクリシュナの弟子として頭角を現したヴィヴェーカーナンダは、このシカゴ会議の後、世界中にヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)の福音を広めた。インドの民族宗教として扱われていたヒンドゥー教が、「世界宗教」として敬意を持って遇されるようになった最初にして最大の功労者はヴィヴェーカーナンダである。のちに岡倉天心との交流を通じて日本でも知られることになるのだが、奇しくも彼はダルマパーラとは反対の航路を辿って、日本の大阪・京都・東京・横浜にも立ち寄っている。岡倉天心はヴィヴェーカーナンダを日本に招聘せんとしたが、スワミの急死によって果たせなかったので、これが彼の最初で最後の訪日でもあった。
がっしりした体格に煌々とした大きな瞳、見るからにエネルギッシュなヴィヴェーカーナンダと、痩身でストイックな印象を与えるダルマパーラは好対照をなしていた。ヴィヴェーカーナンダはシェークスピア悲劇に登場するムーア人将軍オセロにたとえられたが、黒髪をたたえ白いローブをまとったダルマパーラの姿は仏教使節というより、皮肉なことにむしろイエス・キリストをイメージさせ、クリスチャンが大部分の観衆に人気を博したのだ。宗教会議の議事堂にがん首並べたキリスト教会代表の誰ひとりとして、このような賛辞を捧げられた者はいなかった。彼の伝記に引用された当時の新聞報道に曰く、
彼は宗教会議の席上、ブッダガヤから出土したグプタ朝時代の小さな仏像をインドより持参し、インドの仏教復興運動への助力をアピールした。下世話な推測だが、シカゴ万国宗教大会に上座部仏教を代表してダルマパーラではなく、袈裟をまとって頭を丸めた坊さんが出席していたとしたら、仏教復興の呼びかけが米国でこれほどまでの反響を呼ぶことはなかったであろう。ダルマパーラの講演に感動したC・T・ストラウスは、シカゴ神智学協会の主催で彼から三帰依五戒を授けられた。二人のアメリカ人オカルティストがセイロンで仏教に帰依してから十三年目にして、仏教は本当にアメリカに上陸したのである。
西欧社会におけるブッダ・ダルマの布教に自信を抱いたダルマパーラは、九月二十七日の宗教会議締めくくりを、仏陀その人の言葉を引用して言祝いだ。オークランドやサンフランシスコで引き続いて講演活動を行ったのち、彼はアメリカでの短いミッションを終え、大日本帝国への二度目の訪問に向けて船出した。
宗教面での国威掲揚
一方、日本仏教を代表した僧侶のなかで、英語を自由に操れるのは平井金三(龍華)のみだった。平井が繰り出すキングス・イングリッシュの激烈なキリスト教批判は聴衆にショックを与え、会期中そうとう物議を醸したそうだ。しかし通訳係と漫談に徹した野口復堂の話芸、言葉は通じずとも温厚なあるいは峻烈な人格力をもって仏教の玄妙を説く釈宗演や土宜法龍の講演もまた、アメリカ知識人に強い印象を与えた。
臨済宗の釈宗演は、宗教大会の書記官長を務めたポール・ケーラスと親交を結び、このコネクションを通じて鈴木大拙などの門下生をアメリカに送り込んだ。大拙らの活動が禅仏教の欧米普及に大きく貢献したのは周知のとおりだが、大拙はアメリカでダルマパーラとも会っている。また真言宗の土宜法龍は宗教会議の閉会後、野村洋三を伴ってヨーロッパに渡り、ロンドンで南方熊楠との友情を結ぶことになる……。さて、釈宗演は成功裏に終わった万国宗教大会を総括して、このように述べている。
明治初頭の廃仏毀釈から立ち直った日本仏教は、このシカゴ万博を契機として、ようやく日本の精神文化の一翼を担う存在として「宗教面での国威掲揚」を果たした。それ以上にダルマパーラ、釈宗演、土宜法龍といった個々の仏教者にとって、世紀末シカゴで花咲いた能天気な夢の祭典は、その後の半生の方向づける大きなターニングポイントになったのである。
註釈
*1 「アナガリカ・ダルマパーラとシンハラ仏教ナショナリズム」J・B・ディサナヤカ著 中山敬訳(『思想』、一九九三年一月号「特集 ナショナリズム」に掲載)
*2 〝Go ye, O Bhikkhus, and wander forth for the gain of many, in compassion for the world, for the good for the gain, for the welfare of gods and men. Proclaim, O Bhikkhus, the doctorine glorious. preach ye a life of holiness, perfect and pure.〟英文はパーリ原文の偈の一部「二人して一つの道を行くなかれ(独行せよ)」が省略されている。前後の経緯については『仏教かく始まりき──パーリ仏典『大品』を読む』宮元啓一(春秋社、二〇〇五年)、『仏教聖典』友松圓諦(講談社文庫、一九八一年、八十二頁)あたりを参照のこと。
*3 『邪教/殉教の明治 廃仏毀釈と近代仏教』ジェームス・E・ケテラー、ぺりかん社、二〇〇六年、第四章での論考によると、英語力が乏しかった日本代表団のアメリカでのスピーチがもたらした融和的で妥協的な印象と、日本に届けられた代表団の勇ましい報告との間にはかなりのギャップがあったらしい。野口復堂の英語力は実際にはイマイチだったのだろうか。でも平井金三はホントにすごかったみたい。アメリカにおいて大いに存在を認められた日本仏教はこの後、反キリスト教的な破邪顕正路線から、対話による諸宗教融和主義に大きく舵を切る。それは大会で激烈なキリスト教批判を行った平井金三がユニテリアン教会や道会(日本教会)の設立に関与したことに象徴される。釈宗演が送り込んだ鈴木大拙にしても、神智学、スウェーデンボリ、エックハルトといった西欧の神秘主義を取り込んだ言説によって「キリスト教的価値観をまっこうから否定する敵対者としてではなく、むしろキリスト教的な要素を認めたうえで、そこに日本的オリエンタリズムの芳香を加えた穏やかな嗜好品」(佐々木閑)として欧米に受け入れられたのだ。破邪顕正の思想戦を戦った明治の日本仏教徒たちは、外に向かっては「宗教間の自由討究による新しい宗教の創出」の模索を続け、内に向かっては国家主義イデオロギーの形成と正統化に仏教の蓄積してきた諸概念を切り売りしつつ関与していった。日本仏教は新時代の新しい霊性のために自己解体する道を選んだなんてカッコよすぎ? 「植民地支配者」の宗教であるキリスト教とあくまで緊張感を持って対峙し続けたスリランカの仏教徒とはずいぶんと立場が違ったのだ。
*4 シカゴ宗教会議への仏教徒の参加に異を唱えたのは、国内の保守派ばかりではなかった。アメリカで仏教雑誌『仏光(Buddhist Ray)』を発行するフィランジ・ダーサ(Philangi Dasa、本名Herman Vetterling 一八四九−一九三一)は、宗教会議の前年にあたる明治二十五年十月頃、文通相手の大原嘉吉に宛てて「数日前小生は南條文雄氏が日本の仏教徒を代表して該会に参列せらるべき旨或新紙に由て承知致候、併し乍ら小生は該会に就ては我仏教の為めには一の利益すらも無しと相考へ候、……該大会の挙たる全く基督教の虚光を輝かす丈に過ぎざる可くと存じ候、さすれば南條君及其他の諸君の該会参列は畢竟すれば該会発起者仲間の慰物たるに過ぎずして、該会を利用して以て彼等迷者を教化するなどのことは思ひもよらぬ事に可有之候」云々として、日本の仏教者は参加すべきでないと強く警告していた。南条文雄らの出席中止は、「国際的な仏教世論」に配慮した決断でもあったのだ。
*5 『現代語訳 宗教哲学骸骨』清沢満之著、藤田正勝訳、法蔵館、二〇〇二年がある。