7パーナドゥラの論戦~世界史を動かしたキリスト教VS仏教の言論対決|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇
パーナドゥラで何が起きたのか?
西暦一八七三年八月二十六、二十八日の両日。コロンボから南に十五マイルほど下った海辺のパーナドゥラ村で、スリランカの歴史に残る公開宗教論争*15が繰り広げられた。対論者はメソジスト派のデイヴィツ・デ・シルヴァ牧師ら二人のキリスト教宣教師、そして仏教僧ミゲットゥワッテ・グナーナンダ長老(Ven. Migettuwatte Gunananda Thera一八二三〜一八九〇)。
グナーナンダ長老はスリランカ南部沿岸の出身で、仏教僧とキリスト教宣教師のもとで初等教育を受け、その後コロンボで英語を学んだのち、最終的に仏門に入った。英語に明るいグナーナンダ長老は欧米におけるキリスト教批判にもアンテナを張っていた。一八六二年に「仏教普及協会」を設立したグナーナンダ長老は、キリスト教攻撃と仏教擁護の文献を積極的に発行し、村々を巡回して説教するなどキリスト教宣教団の手法を取り入れながら、キリスト教化の波にさらされる仏教徒大衆の啓蒙と組織化を図った。また一八七〇年代初頭からキリスト教徒との公開討論会も手がけ、当時のセイロン仏教界を代表する論客として知られていた。彼はキリスト教徒*16が多住するコロンボ近郊のコタヘーナ寺院で住職をしていたこともあり、スリランカ仏教の将来への危機意識も人一倍強かった。当時のグナーナンダは中年の精気にあふれ、爛々と輝く瞳とやけに大きな口が、天性の雄弁家ぶりを表していた。論争に先だってキリスト教・仏教双方の代表者等は以下の内容の協定書に調印した。
一 論争は口述ですること。
二 両方の対論を記録し、対論者がそれぞれ記録文に証明のサインをすること。
三 対論者は、引用する書物と論文の名称を正確に示さなければならない。
四 一人の対論時間は一時間とする。
五 初めの時間は、キリスト教徒側に与える。その時間は、仏教の虚偽性を提示することに使用し、次の時間は仏教側から、仏教の虚偽性に対するキリスト教の対論に対して必ず答弁した後、キリスト教の虚偽性に対する対論を行わなければならない。
六 この対論は、八月二六日と二八日の両日行う。
七 演説時間は、午前八時から一〇時まで及び午後三時から五時までとする。
八 対論中、双方騒動が起らないようにそれぞれが責任をもつ。
九 対論中は対論者以外の全ての人々は、静けさを保つよう忍耐しなければならない。なおこの協定書にサインをする人々には、聴衆を平穏かつ冷静に保つすべての責任を与える。
一〇 パーナドゥラ・パッティヤ町のドムバガハワッタという場所にこの対論を行うため特別に一階建ての建物を造ることを認める。
(『キリスト教か仏教か 歴史の証言』金漢益 訳注、九頁、括弧内省略)
論争の行方
パーナドゥラの言論戦は、諸宗教の融和を大前提に交わされる微温的な「対話」ではなかった。それはあくまで「対論」であり、「論争」であった。世界三大宗教の二雄の間で、勝ち負けを決するための論戦である。会場はすでにキリスト教・仏教それぞれの指導者、そして一万人余りの群衆で埋まっている。八月二十六日朝八時、キリスト教側の一番手、デイヴィツ・デ・シルヴァ牧師によって論争の火蓋が切って落とされた。
今回のパーナドゥラ論戦、そもそもはキリスト教側から半ば挑発として仕掛けられたのである。しかも二対一のハンディキャップ・マッチ。にもかかわらず、実際の言論戦は終始グナーナンダ長老の優位を聴衆に印象づけていた。グナーナンダ長老は仏教の正統性を理路整然と主張するばかりでなく、会場に集まったスリランカ民衆の心性にもずっしりと響く、卑俗な比喩を使いこなしてキリスト教を攻撃した。曰く、
「旧約聖書「士師記」(Judges)第一章一九節をよく聞いて下さい。
『エホバがユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追いだすことができなかった。』
つまり、ユダと共におられたエホバは、平地に住んでいた民が鉄で造った戦車をもっていたので、彼らを追い出すことができなかったことがわかります。エホバが真の全知全能者であると信じているキリスト者の信仰は、いかに幼稚なものであるかがわかるでしょう。
鉄を恐ろしく考えるというのは、スリランカ人の誰しもが知っているごく一般的なスリランカの習慣であります。もし、暗い夜、誰かの家を訪れる時や、あるいは飲食をもって行く時は、飲食といっしょに鉄で造った何かをもっていくのです。これは昔からスリランカに伝わる習わしです。そして、また漢方薬のように煎じる場合は、煎じる容器の表面に鉄でできたある物を糸で縛っておいて、薬を煎じるのであります。それは悪霊たちの悪行の侵害を防ぐための一手段であるからです。ですから、もしエホバが鉄の物を恐がったというならば、そのようなエホバを、いったいどのような人だと皆さんはお考えになるのでしょうか?」(同書、四十四頁)
まるで文化人類学者のような口ぶりで、全知全能のヤハウェをランカーの悪霊と比較したグナーナンダ長老。彼の言葉に一瞬眉をひそめて合点する聴衆、そして苦虫をかみつぶしたキリスト教関係者の姿が目に浮かぶようではないか。二日間続いた論戦の争点は「霊魂の不滅説と輪廻説の対比」「仏陀とキリストの伝記の検証」「妬む神エホヴァは信仰の対象たりえるのか」「須弥山説に科学性はあるか」など、多岐にわたった。しかし、セイロンきっての学僧グナーナンダ長老が、インド古典や近代聖書研究の知識まで動員して繰り出す鋭い舌鋒に、仏教教理に対する基本的無知をさらしがちの宣教師が対抗できるわけもなかった。こりゃぁ相手が悪すぎた。
グナーナンダの勝利
論戦の舞台となったパーナドゥラ村には、現在は金色に彩色されたグナーナンダ長老の立像が建立されている。よく手入れされた花壇のただなかにそびえるその像は、六色の仏教旗をバックに、百数十年前その地で雄弁を振るったそのままの姿を保存しているようだ。長丁場の論戦の末、自らの勝利を確信したグナーナンダ長老は、左足を聴衆に向かって踏み出し、右手を力強く振り上げ天を指しながらこう語った。
「人間がもしそのことに正しさを見出すならば、それを認め実践するというのが、分別のある人の良識であります。したがいまして、皆さんが真の宗教である仏教を信じ、輪廻の苦しみから脱して、ニルヴァーナという安楽の世界で生を営むように精進して下さる事を心より願って止みません。」(同書、一九三頁、括弧内省略)
彼のひと言が討論を締めくくると、会場に詰めかけた群衆から一斉に「サードゥ、サードゥ、サードゥ(善き哉、善き哉、善き哉)」と賞賛の声が沸き上がった。規約に忠実なグナーナンダと牧師らの紳士的呼びかけにより、会場はすぐに落ち着きを取り戻した。溜飲を下した喜びを隠せぬ仏教徒と対照的だったのは、敗北感に顔を曇らせる宣教師・キリスト教徒の後ろ姿であった。ともかく、キリスト教徒側の意に反し仏教の勝利を人々に印象づけたこの論戦。数百年にわたる西欧の侵略と植民地支配のもとで圧迫されてきた仏教徒の自尊心をいささか回復し、植民地主義と癒着したキリスト教に対する反撃の狼煙となった……。
以上が、『パーナドゥラ論争』と呼ばれた事件のあらまし。ちなみにスリランカにおけるキリスト教と仏教との論争はこれが最初ではなく、両宗教間の言論戦は一八六〇年代から幾度も繰り返されてきた。しかしパーナドゥラ論戦は五大論争と総称される論戦のハイライトとして長く記憶されることとなった。論戦の模様は、セイロンの主要英字新聞セイロン・タイムズ紙(The CeylonTimes)ジョン・カッパー記者の手でリアルタイムに報道され、『パーナドゥラ論争』はローカルな宗教論争のスケールを飛び越え、西欧社会の人士にも広くインパクトを与えるに至ったのである*17。
神智学徒からの手紙
アメリカ人のJ・M・ピーブルズ博士は、南アジアをめぐる旅行中に偶然このパーナドゥラ論争と出食わした。彼はスピリチュアリストで、オルコット大佐とは旧知の仲だったという。グナーナンダの勝利に強い感銘を受けたピーブルズは、アメリカ帰国後、カッパー記者の原稿をもとにパーナドゥラ論戦のあらましを出版した。ピーブルズの本はオルコットとブラヴァツキーの手にも渡る。太古の叡知を探し求める神智学徒の魂を、グナーナンダ長老の舌鋒が刺激しなかったはずはない。
数年後、グナーナンダのもとへニューヨークからの書簡が届く。手紙の主はもちろん、オルコットとブラヴァツキーだ。二人の神智学徒からの親書には、グナーナンダの勝利への祝福とともに、一八八五年の神智学協会設立を知らせる文面が綴られていた。併せて封筒には、どっしりとボリュームあるブラヴァツキーの新著『ヴェールを脱いだイシス』が同封されていた。
グナーナンダは神智学協会と定期的な通信を交わすようになった。彼らの手紙と『ヴェールを脱いだイシス』の抜粋はグナーナンダによってシンハラ語に翻訳された。やがて「……ただかかる奇体なことあり、かかる妙な行法ある、というまでにて、いわば『古今著聞集』、『今昔物語』等に安倍清明、加茂保憲等のしき神を使いしこと多くのせたるようなことで、面白いばかり、一向核なきことなりし。」(南方熊楠)と謂われるブラヴァツキーの著書(の抄訳)が、西洋から突如名乗りを挙げた仏教徒の援軍の露払いとして、セイロンの島中に行き渡った。
とにかくもこれ以後、オルコット大佐とブラヴァツキー夫人、この奇特な西洋人の名前が、期待と好奇心ないまぜに、セイロン仏教徒の間でささやかれるようになったのだ*18。
註釈
*15 パーナドゥラ論戦については東方学院講師の金漢益(釈悟震)師の邦訳によってその全容を日本語で読むことができる。『キリスト教か仏教か 歴史の証言』金 漢益訳注、中村元監修、山喜房刊、一九九五年
*16 コタヘーナ地区に住むキリスト教徒はポルトガル支配下で改宗したカトリック教徒であった。現在でもスリランカのキリスト教徒の大多数はカトリック教徒が占めている(つまり英国系のミッションはほぼ失敗に終わったということだ)。スリランカで十九世紀末から二十世紀前半にかけて展開された仏教徒による反キリスト教運動は、植民地主義と手を携えた改宗圧力への抵抗という側面で括られがちである。しかし実際には、教育を通じていち早く社会的地位向上を果たした少数派シンハラ人カトリック教徒に対して後塵を拜してきた多数派シンハラ人仏教徒が、自らの地位向上を目指した運動という側面もあることは見逃してはならない。神智学協会の創始者であるブラヴァツキー夫人が繰り返した反キリスト教とりわけ反ローマ・カトリックの言動は多数派シンハラ仏教徒のルサンチマンに響くものでもあった。
*17 論争の詳細はセイロン・タイムズ社の編集者の手でシンハラ語の単行本として発行され、のちに英訳もなされた。(F. Katukolite; Panadura Vadaya, The Panadura Contovers. 1948 Lankaputhra, Colombo)スリランカにおける仏教・キリスト教間の五大論争については、前述の金漢益(釈悟震)師が一九九七年に島内各地の論争地を二カ月にわたり詳細に取材したレポートを発表している(「仏教国スリランカ再考」『中外日報』一九九八年二月十日、十二日、十四日)。
*18 ここまで主に〝the BUDDHIST and the Theosophical Movement 1873-1992〟C.V.Agarwal, Maha Bodhi Society of India, 1993の記述に依った。スリランカ仏教復興運動の歴史において、国内で積み重ねられた五大論争の実績に重きを置くべきか、あるいはパーナドゥラ論争の報道からオルコット来島に至る流れを重視するべきか……。そこにはナショナリズムの誘惑も絡み合った微妙な問題が介在せざるを得ないだろう。我々はとりあえず難しすぎる問題は素通りし、「客人」の眼差しに沿って先に進みたい。
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