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証空(西山上人)の「白木念仏」

浄土宗西山義の祖、善恵房証空(1177-1247 善慧房證空, 西山国師, 西山上人)の代表的仮名法語。歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直しました。若し→もし 此→この 其→その 唯→ただ など適当に読みやすく修正しました。 

白木念佛(しらきねんぶつ)

自力の人は念佛を色(いろ)どるなり
或(あるい)は大乗の悟りを以て色どり
或は深き領解(りょうげ)を以て色どり
或は戒を以て色どり
或は身心を調(ととの)うるを以て色どらんと思ふなり
定散(じょうさん)の色どりある念佛をば仕課(しおお)せたり
往生疑いなしと歓び
色どりなき念佛をば往生は得せぬと歎くなり
歎くも歓ぶも自力の迷いなり

大経(だいきょう)の法滅百歳(ほうめつひゃくさい)の念佛
観経(かんぎょう)の下三品(げさんぼん)の念佛は何の色どりもなき白木の念佛なり
本願の文(もん)の中(うち)の至心信楽(ししんしんぎょう)に
称我名号(しようがみょうごう)と釈し玉えるも白木になりかえる心なり

所謂(いわゆる)観経の下品下生(げぼんげしょう)の機(き)は
佛法世俗(ぶっぽうせぞく)の二種の善根(ぜんごん)なき無善の凡夫なる故に何の色どりもなし
況(いわん)や死苦に逼(せめ)られて忙然(ぼうぜん)となる上は三業ともに正体なき機なり
一期(いちご)は悪人なるゆえに平生(へいぜい)の行のさりともと頼むべきもなし
臨終には死苦にせめらるるゆえに止悪修善(しあくしゅぜん)の心も
大小権実(だいしょうごんじつ)の悟りもかつて心におかず
起立塔像(きりゅうとうぞう)の善もこの位(くらい)には叶ふべからず
捨家棄欲(しゃけきよく)の心もこの時(とき)は発(おこ)りがたし
実(まこと)に極重悪人(ごくじゅうあくにん)なりと更(さら)に他の方便あることなし

もし他力の領解もやある名号の不思議をもや念じつべきやと教うれども
苦にせめられて次第に失念する間(あいだ)
転教口称(てんきょうくしょう)して汝(なんじ)もし念ずること能はずば
応に無量寿佛を称すべしと云ふとき
意業(いごう)は忙然となりながら十声(じっしょう)佛(ほとけ)を称すれば
声々に八十億劫(はちじゅうおくこう)生死(しょうじ)の罪を滅して
見金蓮華猶如日輪(けんこんれんげゆにょにちりん)の益(やく)にあづかるなり
この位には機の道心一(いつ)もなく定散の色どり一もなし
ただ智識の教へに髄(したが)ふばかりにて
別のさかしき心もなくて白木に称えて往生するなり
譬(たとえ)ば幼少(いとけなき)ものの手を取て物を書(かか)せんが如し
豈(あ)に小兒(しょうに)の高名(こうみょう)ならんや
下々品(げげほん)の念佛も又(また)斯(かく)の如し
ただ知識と彌陀(みだ)との御心にて僅(わずか)に口に称えて往生を遂(とぐ)るなり

彌陀の本願はわきて五逆深重(ごぎゃくじんじゅう)の人の為に
難行苦行せし願行(がんぎょう)なる故に
失念の位の白木の念佛に佛の五劫兆歳(ごこうちょうさい)の願行つづまりいりて
無窮(むぐう)の生死を一念につづめ僧祇(そうぎ)の苦行を一声(いっしょう)に成ずるなり

又大経の三宝滅盡(さんぼうめつじん)の時の念佛も白木の念佛なり
その故は大小乗の経律論(きょうりつろん)皆(みな)龍宮(りゅうぐう)に蔵(おさま)り
三宝の盡(ことごと)く滅しなん
閻浮提(えんぶだい)にはただ冥々(みょうみょう)たる衆生の悪の外には
善と云う名だにも更にあるべからず
戒行を教えたる律も滅しなば何(いず)れの教へに依りてか止悪修善の心もあるべき
菩提心(ぼだいしん)をとける経もし先だちて滅せば何れの経に依りて菩提心をも発すべき
この理(ことわり)をしれる人も世になければ習いて知るべき道もなし
故(かるがゆえ)に定散の色どりは皆失せ果たる白木の念佛六字(ねんぶつろくじ)の名号ばかり世には住(じゅう)すべきなり
その時(とき)聞(きき)て一念せんもの皆まさに往生すべしと説(とけ)り
この機の一念十念して往生するは佛法の外(ほか)なる人のただ白木に名号の力にて往生すべきなり

然(しかる)に当時は大小の経論のさかりなれば
彼時(かのとき)の衆生には殊の外にまされる機なりと云ふ人もあれども
下根の我等は三宝滅盡の時の人にかはることなく
世は猶(なお)佛法流布(ぶっぽうるふ)の世なれども
身は独り三学無分(さんがくむぶん)の機なり
大小の経論あれども勤め学せんと思う志(こころざし)もなし
斯(かか)る無道心の機は佛法にあへる甲斐のなき身なり
三宝滅盡の世ならば力及ばぬ方もあるべし
佛法流布の世に生れながら戒を持たず定恵(じょうえ)をも修行せざるにこそ
機の拙く道心なき程も顕(あら)われぬれ
斯る愚(おろか)なる身ながら南無阿彌陀佛と唱ふる所に
佛の願力盡く圓満(えんまん)する故に
ここが白木の念佛のかたじけなきにてはあるなり

機に於ては安心(あんじん)も起行(きぎょう)も真(まこと)すくなく
前念(ぜんねん)も後念(ごねん)も皆愚かなり
妄想顚倒(もうぞうてんどう)の迷(まよい)は日を追ふて深く
ねても覚ても悪業煩悩(あくごうぼんのう)にのみほだされ居たる身の中(うち)よりいづる念佛は
いとも煩悩にかはるべしとも覚えぬ上に定散の色どり一もなき称名なれども
前念の名号に諸佛の万徳(まんどく)を摂(せつ)する故に
心水泥濁(しんすいでいじょく)に染まず無上功徳を生ずるなり
なかなかに心を添へず申せば生(うま)ると信じて
ほれぼれと南無阿彌陀佛と唱(となう)るが本願の念佛にてはあるなり
これを白木の念佛とはいふなり

『西山國師御法語』1896,和歌山県・総持寺(国立国会図書館デジタルコレクション)

初出は『法然上人絵伝』(岩波文庫版の下巻に収録)なので、法話の聞き書き。日本における和文宗教文学の白眉たる内容だと思います。これほど美しくやわらかく、仏教における”終末”のビジョンを浮かび上がらせてくれる文章が他にあるでしょうか? あるかもしれませんけど、あったとしても「白木念仏」がその随一であることは揺るがないでしょう。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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