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自分の役割があるしあわせ

先日、年長の長男の運動会があった。

不特定多数の他者から見られているとか、行動の結果が勝ち負けや成功・失敗という尺度で測れてしまうとかいう場面がすこぶる苦手な彼。

すらーっとわいわいと体操して、かけっこして、ダンスして、、そんなわけないとは頭ではわかっていたが、潜在意識のなかでは「もしかして楽しそうな姿を見ることができるかも」と思っていたエゴ・おちぼである。

わたしもまだまだ修行が足りない。


だって、なんと今回彼は、保育園に通って以来はじめて、


いっさいのプログラムに参加しなかったのであーる!


わたしは、息子が参加できるかできないか、オーディエンスがたくさんいるなかで走れるか踊れるかなんてことはもはや途中からどうでもよくて、今日のこの日が彼のなかでかなしいさみしい記憶にならないようにとだけひたすら祈っていた。

息子の横には、入園当時からよくめんどうをみてくださっていたベテランの先生がついてくれていて、息子は、
「今日は絶対にやりたくない。」
と言い張ったらしい。騒ぐでもなく泣くでもなく主張して、先生たちはそれをわかってくれて、途中から、そのベテランの先生が自分のスマホを貸してくれて、それで年長さんのプログラムの記録写真を撮らせてくれた。

息子は、走ったり踊ったりするクラスメイトを、先生と一緒に、真剣な表情で、いろいろな角度から撮っていた。

その写真を、すべてのプログラムが終わってから、見せてもらった。

臨場感のある、生な手触りのとてもいい写真がたくさんたくさん撮れていた。カメラを覗き込んでいる人間(息子)と、被写体(年長さんのみんな)が友だちなのだということが、なんとなく伝わってくるような。
(とはいえわたしは写真のことはまーったくわからないので、単なる親のひいき目である)。

***

大人になって、息子と暮らして、こころから思うのだけど、世の中にはたくさんのひとがいて、ほんっとうにみんなそれぞれ違う。

長男と次男が、顔はほとんど同じなのに性格がまったく違うので、同じ親から生まれてきてもここまで違うんだなあと、不思議でたまらない。

そして、自然にたのしく「みんなで一緒に」ができるひとたちと、できないひとたちがいる。

大人になれば、自分で自分の身の置きどころを選んだり創り出したりする自由を獲得できたり、苦手な環境におちいらないように状況をコントロールしたり、じっとその時間をやりすごしたりできるスキルが身につくだけ。

自然にたのしく「みんなで一緒に」ができないとしても、もちろんそれがダメなわけじゃない。
ひとりひとりが、自分にとっての自然な姿でお互いを尊重しあって、認め合って譲り合ってときには妥協しあって、居心地のいい場所で生きていけたらいいと思う。簡単な、当たり前の話ではある。


でも、居心地のいい場所って、どんな場所だろうか。

近頃とくに、それもひとそれぞれだよな、と思う。
当たり前のことなんだけど、案外当たり前のことがいちばんわからない。


例えば、わたしが今一緒に仕事をしているひとたち、仮にAさんとBさんとすると、AさんもBさんも、集団のなかで役割を明確化されることは居心地が悪いらしい。

彼らにとっては、自分は自分であって、自分の能力のなかでできることを続けていくこと、それが集団全体のできることを増やしていくこと、その結果自分も他者もたのしく幸福でいられること、それが居心地のいい場所のようだ。
一度、わたしが「アイデンティティを取り戻す」という表現をしたときに、彼らは「アイデンティティは最初から自分にそなわっているものであって、取り戻す対象ではないはず」と言っていた。

わたしは、アイデンティティを取り戻す必要がないひとたちもいるのだ、とすこし驚いた。そして、そのことはとても素敵だと思った。



でも、わたしは違う。
わたしは、「自分の役割がある場所」のほうが居心地がいい。それは、承認欲求やコンプレックスと結びついて、集団のなかで役に立たないといけないとか評価されたいとか、そういう強迫観念とセットになりやすい思考なのかもしれない。

でも、他者と一緒にいる空間そのものがすでに居心地が悪いので、自分の役割を認識できるとほっとするのだ。
「ここにいてもいいんだ」と安心できる。

そして、ずっと他者のまなざしを意識して、自分自身のこころのそこから湧き上がってくる欲求(内発的動機とでもいうのだろうか)の存在に気が付かなかったので、わたしにとってアイデンティティとは、ある時点で「取り戻す必要があるもの」だった。

そういう人間もいるのです。
そして、そういう人間だって、素敵なんじゃない?


息子はどうだろうか。彼はどんな人間なのだろうか。
彼自身にだってまだよくわかっていないはず。
それを、わたしが「母親だから」ってわかったような気になるのは傲慢だ。


でも秋のよく晴れた運動会のある日、「写真係」という役割をもらった息子は、ほっとしていたように見えた。

それが、ほんとうにうれしかった。

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