わたしの庭
我が家のキッチンにはちいさな窓がついていて、もっぱらわたしが世話をしているちいさな庭と、そのさきにある農家さんの畑と、さらにそのむこうにある林が見える。
今朝、6時半ごろにキッチンでコーヒーを淹れようとしていたら、うつむいた視界の端に、ぱあっと明るい光が差した。
それは、雲の合間からのぞいた、朝の光だった。
あたたかくて透明な朝の光。
その光を構成する希望にみちたちいさな光の粒たちが、秋の空気中にちらばって、けむったように満ち満ちたその瞬間、農家さんが植えているキャベツやネギや大根や、コンパニオンプランツとして植えられている黄色くてまあるい菊の花が、うれしそうに、かすかにふるえたように見えた。
わたしのからだもふるえた。
無事に朝がきたということ。
良く晴れた、気持ちのいい、素敵な秋の一日になりそうだということ。
ああ、いい朝だなあ、と思った。
***
そんななかで、途中までにこにこしていたもうすぐ2歳の次男が、アンパンマンソーセージをたべたくて、それもまわりのうすいビニールを自分でむいてたべたくて、それに気づかなかったわたしがぜんぶむいて渡してしまったので、かなしくて大泣きした。
彼がもっともっと小さいころは、かなしいことがあったって好物なら泣きながら食べていたものだけど、彼の急成長中の自我の前ではそんなわけにはいかない。
彼はそのまましばらく寝転がって、足をばたばたさせて怒っていた。
マンションじゃなくてよかったなあ。
両隣、ちょっと耳の遠いおじいちゃん・おばあちゃんが暮らしている田舎の一戸建てでほんとうによかったなあ。
こんなふうに感情を爆発させて思い切り泣けるなんて子どもの特権だな。
うらやましいけど、引っ込みがつかなくなって大変そうだなあ。
と、思いながらコーヒーをすすり、どうしたものかなと途方に暮れていたら、年長の長男といっしょにまだ寝てるはずの夫が降りてきて、
「うるさいやつは連行だ!」
と言いながら次男を抱きかかえて連れて行った。
男3人で、そのまま1時間くらいしずかにごろごろしていたようだった。
***
余っていたパンにチーズをのせて焼いて、冷凍していたハッシュドポテトをあたためていたら、すっきりした顔の次男がぽてぽて階段を降りてきた。
「ご機嫌になったねえ、よかったねえ。」
と言って、彼のぽったりしたちいさなほっぺたを掌でつつんであたまのてっぺんにキスをしたら、乾いた、あたたかくてすこし甘いにおいがした。
子どもの、特に乳幼児のあたまのてっぺんからは、エネルギーが発散されていると思う。
希望にみちたちいさな光の粒たち。
よろこびは、いつもこんなに身近にあるのだ。
わたしは、やっぱりいい朝だなあ、と思った。