夏と雨音と迷走の果て
9月6日から7日にかけての日記。
子どもたちがちょっと体調が悪くて保育園に行けなくて、夫とわたしかわりばんこに仕事をキャンセル。
疲れ切ってもうへとへと・・・と思いきや、すっぽん小町のおかげで意外と元気。ありがとうすっぽん小町!
雨音
夜、窓ガラス越しにりりりりりりりりりりりと虫の声が聞こえることに、今日やっと気がついた。窓の外ではしとしと雨が降っている。雨音につつまれて、次男はぐっすりねむっている。
そういえば、我が家の子どもたちは、雨音が聞こえていると深く深くねむる。わたしも雨音のなかでうとうとするのがすきだ。
大昔、雨の日には、たべものを探すのも、狩りに出て獲物を追いかけるのも、薪をひろいに森へ入るのも難しかったのかもしれない。
だから、ねむっていてもいいよ、今日はしかたないからさと、許されているような気持になるのかもしれない。
DNAに刻みこまれている、いのちの記憶。
おかんとおかんの魂のやり取り
9月7日。
我が家でいちばん熱がこもるのにエアコンを設置していない2階のスペースで、ひさしぶりに、夜のんびり作業をしたり本を読んだりしている。
いつの間にか巻き込まれたみたいに、いやおうなく飛び込んでしまった暑い暑い夏が、とうとう終わろうとしているのだと気づく。
夏のはじめ、近所で家庭菜園をしているおじさんが、「畑にいたら飛んできた」といって、クワガタのつがいをくれた。
ちいさなプラスチックの虫取りカゴにはいった2匹のクワガタは、心細そうにちいさなカゴのなかでかちかち足音を立てていた。
その日の夕方、海辺にある100円ショップに行って、おおきなプラスチックの虫取りカゴと、土と、臭い消しのちいさなつぶつぶと、枯れ葉と、朽木と、エサのゼリーを買った。
おじさんがくれたちいさな虫取りカゴも、その並びで売れていた。おじさんはきっと、クワガタのオスかメスどちらかを先に見つけて、つがいにできないかそこらを探して見つけてくれて、それから急いでこの100円ショップに来てカゴを買ってくれたのだ。
夕方、保育園のお迎え前にクワガタのおうちを作って2匹を移すと、よろこんですぐに枯れ葉と土の下にもぐりこんでいった。長男はクワガタのカゴを見て大喜びした。次男は「でゅ?でゅ?」とにこにこしていた。
2匹は、夜が来るたび這い出てきて、ゼリーをなめて、交尾をした。
絶対卵を産んでいると思うのだけど、そのゆりかごになっているであろう朽木を冬のあいだどう保管したらいいのか。それはずっと頭の片隅にはあった。そして、片隅に追いやっているうちに、とうとう夏が終わった。終わってしまった。
たぶん、クワガタのオスはもう枯れ葉の下で死んでしまっていると思う。
ここ数日は、メスだけがすきにゼリーをなめて、カゴのなかをうろうろしている。メスは、心なしか、オスが生きていたときよりものびのびしている。クワガタ界のつがいの事情はよくわからないけれど。
ここからは、おかん同士の魂のやりとりである。
君の卵をどうしよう。君は、いつ死んでしまうんだろう。
ちいさな畑とヤギ構想
くだんのおじさんがやっている畑は、我が家の通りを挟んだ向かい側にある。この土地を持っている地主さんが、近所の喫茶店のマスターに貸して、そのマスターが自分では管理できなくなって常連客だったおじさんに貸して、という複雑な関係らしい。
おじさんは、
「タダみたいな値段なんだよ」
と言っていた。年間2000円というから、月167円くらい。格安。
でも、お中元とお歳暮にお酒を渡しに行っているらしい。誰にお金を渡して、誰にお酒を渡しているのかはよくわからない。
おじさんは自宅のそばの貸農園も借りているので、この広さが手にあまっているという。わたしはそれを聞いてから、この複雑な畑のちいさな一角を借りようか借りまいかずっと迷っている。
家庭内食料自給率をあげたい。自分たちでつくって、自分たちで食べているものを増やしたい。
夏野菜がおわって、おじさんがちいさな耕運機でがたがた耕したり、苗を準備したりする姿が、キッチンの窓から見える。
この先借りるなら、晩夏のうちにお願いしないといけない。土を整えたり、苗を植えてからでは遅いから。
それについても、夏のあいだ決心できずにずっと頭の片隅に追いやっていたけれど、とうとう夏が終わってしまった(再び)。
季節の変わり目に決めないといけないことって結構多い。
わたしの頭の片隅には、「ヤギを飼いたい」という声もあるけれど、それはさすがに次の季節の変わり目まで、おあずけ。
爪を噛む
長男は指の爪を噛む。
彼は、器用に足の爪も噛む。
だから、いま5歳の彼の爪を切ったことは、ほとんどない。
そして、爪を噛む癖を辞めさせようとしたことも、実はほとんどない。
爪を噛むのは、ストレス解消のためなのだという。どんどん伸びてくる爪を噛むだけで解消できるストレスがあるのなら、別にいいんじゃないかな、と思ってしまうのだ。
実は、わたしもいまだに爪を噛んでしまう(さすがに足の爪は噛まない、でも体が柔らかい5歳6歳の頃は噛んでいた)。これで、どんなストレスを解消できているのだろう。ふだんストレスは感じずに生きていると思っているのだけれど。ゆでガエル。
わたしは迷走していたらしい
ちいさな本屋っぽいことをできる物件が見つからなくて、コンセプトも決まらなくて、お金をいただいている仕事も忙しくなってきて、子どもたちは体調を崩すし、積読している本は40冊を超えた。
わたしは最近、すこし焦っている気がする(でも考えてみたら、焦っていなかったときなんてない人生かもしれない)。
先日、本屋っぽいこと構想を相談している仕事仲間に、
「でも、結局、おちぼさんが売りたいのって、本なんですか?」
と言われた。
だよねえ。見る物件見る物件どれもあまりに高いから、稼がねばと迷走していた。
わたしは、本を売りたいというのとは、すこし違う。
来てくれるひとたちに、癒しと、自分が自分であることを楽しむことができる空間をひらきたい。本屋はひとりで行けるし、誰かと訪れても本質的にはひとりになれるところがいい。たくさんの時代と国とからだを生きたひとたちが必至に紡ぎ出した言葉たち、よろこびやかなしみや知恵や苦悩につつまれて、本当にすきなものを手に取る幸福。ひとりでいるのに、社会と世界とつながっていると実感する瞬間。
その媒体が本というだけで、もし歌がすきなら、教会でみんなでゴスペルをうたっていたのかもしれない。
この街にそういう場所があったら、子どもたちがこのさきちょっと生きづらくても、社会の枠組みのなかからはみ出していると不安になったとしても、きっとちょっとだけ安心できると思うから。
過去の自分も、そういう場所がほしかったから。
おなじように感じている誰かが、この街にいるかもしれないから。
苦悩しながら雨音のなか暗闇のなかにいたら、突然、本屋っぽいものの方向性というか、コンセプトのようなものが浮かんできた。
自分がこころから納得できるアイデアは、たくさんのインプットと苦悩の先にあるって、昔なにかで読んだような気がする。