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子育てはないものねだり

2歳になった次男が、まいにち100回くらい、わたしを呼ぶ。

まま、っていーい?(ママ、あけていい?)
まま、っけて!(ママ、あけて!)
まま、でゅーしゅとーだい!(ママ、ジュースちょうだい!)
まま、あい!(ママ、どうぞ!)
まま、なーに?(ママ、これなあに?)
まま、っけっとった!(ママ、ポケットあった!)
まま、たぼんだまっていーい?(ママ、しゃぼんだましていーい?)

まだ生まれて2年しかたっていないちいさなぼうやの目にうつる素敵なもの、不思議なもの、こわいもの、ほしいもの、だいすきなもの。

それらを見つけるたびに、手にするたびに、または手にできないことがわかるたびに、おどろきやよろこびや悲しみや怒りが彼の身体じゅうを満たす。

でん、でん、でん、でん
でんでん太鼓をうちならすみたいに、それがめくるめく速さでいれかわっていく。

わたしのすぐそばで。

他者の感情がこんなに近くにあるなんて、ふわふわざらざらすべすべ触れるようにむき出しになっているなんて、なんて不思議な体験だろう。

きっと誰もが、おとなになったら忘れてしまうくらいちいさなこのくらいの年齢のときに、いちばん身近な誰かのそばで、こうやって、すべてをむき出しにして、世界をもとめていたのだ。

***

なあんて、次男がぐっすり眠っている真夜中だから悠長に書けるけれど、「まま」と30回目に呼ばれたあたりから、正直なところ、わたしは「もういいよ~」と思っている。

朝は、こどもたちが保育園に行ってくれてはじめてほっと一息つく。

夕方は、こどもたちが寝るまである種のトランス状態に陥っている。
さっきまでにこにこ遊んでいたはずの長男・次男が、いつのまにやら泣いてわめいてケンカする。かと思えばまた遊びだし、またさわぎ、しょっちゅう食事の準備やらなにやらをしているわたしのそばにきては思い思いの要求をして、またさわぐ。

あたまの後ろのあたりから「精神」のかたまりを取り出して、ちょっとはなれたところにことんと置いておくくらいでなければ、やっていられません。

でも夜、こどもたちが眠ってしまうと、明日は朝これを作って出してやろうとか、明日こそもっとゆったり座ったりなんかしてのんびり遊んでやろうとか、そんなことを思う。

そしてまた朝がきて、おなじような一日を繰り返す。

***

朝がきてしばらくすると、またわたしはすこしうんざりする。

いっぽうで、うんざりしているわたしは、いつの日か、自分が何を引き換えにしてでも、いまのこの日々に一日だけでいいから戻りたいと願うだろうということも知っている。


わたしはいま、未来のわたしが切望するかけがえのない毎日を生きている。

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