記憶の引き出し
十日ほど前に帰省した。
実家に帰ると、物の多さにストレスが溜まる。
と言いはしたが、一人暮らししていた頃の私の部屋は
実家よりも酷かったかもしれない。
本、マンガ、CDなど、PPボックスに入れ、4段くらいに積んでいた。
押し入れのない1ルーム。ベッド、タンス、冷蔵庫を置けば、
歩けるスペースは少なかった。
実家の足場の少なさに、足の弱っている母が転倒し、左腕を骨折した。
ますます弱っていき、父に介護してもらうことを「報酬」とする母。
こんな老々介護の状況をネットにさらす、介護逃れの息子。
戦後、食べるのに困った世代は、物を捨てない、と言うが。
足の踏み場は少ないし、着るものも積まれ隠され、
例えば、パジャマなんかが何着もある。値札の付いたまま。
その事が分かったのは、物置と化した居住空間の片づけを少ししたから。
捨てるものの仮置きしようとした、物置がすでにいっぱいの状態。
私は簡単に挫折した。
途方にくれる庭は、芝の上に盆栽の群れが並んでいる。
その日の夜だったか、父は言う。
「忘れないように、物を捨てない」のだと。
捨てたくないものの言い訳だ。
しかし、私自身、端から記憶が失われていく。
記憶力の強い妻に、
「興味のないことは全く覚えていない」と指摘される。その通りだ。
父は記憶力の良い方だと思うが、
それでも記憶が失われていくことを惜しんでいるだろう。
少しでも記憶が失われることに歯止めをかけるため、
「物」を記憶の引き出しとしている。
そう考えると、私らが渡した「物」を捨てれば、
父子の関係性の記憶も薄れていくのかもしれない。
ただでさえ、遠く離れ、疎遠な父子関係となっているのに。
でも、「物」という情報が多ければ、玉石混交だ。
関西に帰ってきて、しばらくして、
なんとなく建築家 内藤廣さんの『建築的思考のゆくえ』という本を読む。
今の私は、「物」や「習慣」を断捨離している際中だが、
プレ終活というより、来るべき未来に対し、余白を準備しているのだろう。