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『むらさきのスカートの女』と一人称視点、あと「純文学」について

改めて新年アケオメネス朝ペルシア(今のところウケの打率が0割の新年ボケ)。

俺は新年は父方の実家にて迎えました。
紅白をみてフットンダ王を途中までみて小説を読んでついでにnoteを書いたりしていた。
ざっくり紅白の感想でも書きますか?やめときます。世間にあふれているので。椎名林檎と星野源と米津玄師と藤井風とB'zが良かったです。
新年の目標は整体に通い、猫背を治すことです。あと芥川賞受賞作をいっぱい読みたいな。


ということで今村夏子の『むらさきのスカートの女』を読みました。

以下まあまあネタバレあり。

ザックリ、「何も起こらないのに不気味な小説」という前情報だけ入れて読みました。結果から言うと、不気味というか終始不思議だなあという感じでした。

「むらさきのスカートの女」についての小説で、三人称視点で描かれているんだけど、語りに実体が伴っていることが明らかになる。

少しづつ語り手があまりにも「むらさきのスカートの女」について知りすぎていることから語り手のヤバさがだんだん明らかになる中で、彼女は無職の「むらさきのスカートの女」と友達になるために、自分の職場で働くよう(かなり強引でありながら運ゲー要素の強い手段で)仕向け、結局成功する。

そして「むらさきのスカートの女」は職場に少しづつ慣れていき(ここら辺で正確に語り手と「むらさきのスカートの女」が同僚となったことが明らかになるのだが)、所長と不倫をし、周りの同僚に嫌われ、結局所長と揉めて過失でありながら傷害事件を起こしてしまう。そしてそれを全部見ている語り手。

ここまでで語り手と「むらさきのスカートの女」の間の会話はナシ。
傷害事件(語り手は所長が死んだと思っている、と思われる)が起こって初めて会話が発生する。

超ザックリ言うとこんな感じ(己の要約能力のなさに絶望した)で、何も起こらないのに不気味というのは語り手の異常なストーキングについてなのかしら。

確かに狂気100%なんだけど、俺はそこに明確な恐怖or気味の悪さは感じなかった。

読んでいて、割とのほほんとした印象が強い時間の流れだった。

だからか?
多分部分的にはそう。

なんだけど、俺は「やべえ人がいてもその人の一人称視点なら多少マシになる説」を提唱したい。


今回のように一人称で話すと、本人はそのヤバさをそこまで自覚していない可能性が高い。その分表現が柔らかくなって、怖さが遠くなるんだと思う。

でもそうじゃない人もいるんだよな、だってこの本を読んで怖いとか不気味だとか言っている人が一定数いるようだから。

そこの違いは何なんだろうな。

小説そのものに対する慣れの可能性もあるし、そもそもの感性や価値観の違いの可能性も大いにあるな。ちょっと俺だけでは判断が難しいところだ。悔しい。



さて、少し話が変わるんだけど、この作品は芥川賞受賞作である。

何が評価されているんだろう。

あ、いや、決してdisっているんではなく。

心情描写が巧みだとか、社会的意義が大きいとか、比喩が綺麗だとか。

純文学的評価点はないような気がする。つまり、この作品の良いところ、評価されているところは芥川賞と個人的にあまり結びつかないような気がしているのである。

この疑問に答えを用意するのは簡単。選考理由を調べればよい。ということでいろいろ選考理由を読んだ。

うん、わからん(笑)!!!!


というのは言い過ぎで、むらさきのスカートの女の不潔だが魅力的という人物像、むらさきのスカートの女が消えてからの描写…などまあ同調できる部分は多かったんだけど、

純文学って何なんですかね?

以前から純文学よりは大衆文学の方が好きだと言っているのだが、文章の美しさだとか社会的意義だとか、なんというか「純文学っぽさ」はこの小説には(俺は)感じない。いい小説だとは思うんだよ。言語化はできないけれど。

そうなると案外「純文学」という言葉のストライクゾーンは広いのかもしれない。あるいは時の流れとともに変わるものなのかもしれない。三島由紀夫がこの作品を読んだら何というのだろう。


こう考えると、純文学をもうすこしdigってみようかしら、と思う。まだ気づいていないところにメチャンコ面白い要素がある可能性が全く否定できない。


今まで以上に話があっち行ったりこっち行ったりして自分で書いていながら情けなくなってくる。

でもまあ、そんな感じなんです。



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