間に入る
喧嘩の仲裁とか第三者の紹介とか,色んなタイミングで誰かと誰かの間に入ることがある。人と人の間だけでなく,人とモノとの間もある。たとえば,料理の仕方に口出しするとかも,料理人と食材あるいは調理法との間に入っている。
この「間に入る」(仲裁する)というのは難しい。片方に肩入れをすれば,それは「間」ではなく,2対1の構図になってしまう。だからといって,どちらとも距離を取れば,間に「入れない」。また,仲裁人の「主張」を混ぜてしまうと,それは「間に入って」いない。それは間に入る事例を利用した仲裁人による「洗脳」である。
先日,間に入られることがあった。私は私なりの考えで相手と向き合っているのに,仲裁人は「相手は〇〇という特徴を持つからXXした方がいい」と私にアドバイスをした。私は相手がその特徴を持つからこそ,私なりの向き合い方をしたのであり,その特徴とXXという対応とのつながりは誰にとっても自明ではない。Aという特徴からA’という対応が導かれるのは一通りではないのである。たとえば,イチゴは甘い(特徴)からそのまま食べる(対応)というパターンもあれば,甘いからジャムにするというパターンもある。ある物事同士のつながり方は多様であり,そのようなつながり方をするのには理由ないしは動機がある。
絡み合った糸をほぐすには,その糸の観察と,それによる絡み合った経緯への洞察が必要である。間に入るには「他者」の観察と,各「他者」との同距離化が必要である。それを前提にして「他者」同士が互いに可視化されるように振舞うことが間に入る際には求められる。間に入るのは一筋縄ではない。
教育者も勉強と学生との間に入る仕事であるし,もしかしたら政治も国民と社会との間に入ることなのかもしれない。たとえば,以下の記事は政治がうまく間に入った事例を紹介している。
間に入るとは,潜在的なつながりを顕在化するということなのかもしれない。