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「道徳感情論」の核心 - 同感の理論"道徳感情論1/3"

 アダム・スミスは、18世紀スコットランド啓蒙思想を代表する哲学者・経済学者です。彼は主に『国富論』の著者として知られていますが、その根底には人間の道徳性を探求した『道徳感情論』があり、その中心に「同感」の理論があります。

『道徳感情論』は、人間の道徳性の起源と発展を探求した哲学書であり、スミスはこの書で、道徳的判断の基礎にある心理的メカニズムを「同感」(sympathy)の概念を中心に解明しようとしました。同時に、個人の道徳性が社会秩序の形成にどのように寄与するかという、広範な社会哲学的問題にも取り組んでいます。

この書は18世紀啓蒙思想の中で執筆されましたが、その影響は現代に至るまで続いています。倫理学、心理学、経済学、政治哲学などの多様な分野において、今もなお重要な示唆を与え続けています。

同感の概念とその働き

 アダム・スミスの『道徳感情論』の中核をなす概念が「同感」です。スミスにとって同感とは、単なる感情の共有ではなく、より複雑で洗練された心理メカニズムを指します。彼は同感を次のように定義しています。

「同胞の境遇について、われわれがいかなる方法によってであれ、観念を形成するとき、われわれは彼らの感じていることについて、何らかの類似の感情を経験するのである」

『道徳感情論』第1部第1篇第1章

スミスの考える同感は、他者の状況を想像し、その状況下で自分ならばどのような感情を抱くかを推測する能力を指します。重要なのは、この過程が必ずしも他者の実際の感情と一致する必要がないという点です。むしろ、スミスは観察者が想像上で構築した感情と、当事者の実際の感情との間のずれこそが、道徳判断の基礎になると考えました。

例えば、ある人が不幸な出来事に遭遇した場合、私たちはその人の立場に身を置いて考え、どのような感情を抱くかを想像します。もし私たちの想像した感情が、その人の実際の反応と一致していれば、私たちはその人の反応を適切だと判断します。逆に、大きな齟齬があれば、その人の反応を過剰あるいは不十分だと考えるでしょう。

こうして、同感は単なる感情の共有ではなく、他者の状況を客観的に評価し、適切な感情や行動を判断する基準となるのです。このメカニズムが、個人の道徳性の発達だけでなく、社会全体の道徳規範の形成にも寄与することをスミスは強調しています。

現代の哲学者チャールズ・L・グリスウォルド・ジュニアは、スミスの同感概念について次のように述べています。

「スミスの同感は、単なる感情の伝染や模倣ではなく、想像力を通じて他者の立場に立つという、より複雑な心理プロセスを意味する。それは、他者の感情を理解し評価する能力であり、同時に自己の感情や行動を客観的に見る能力でもある」

このように、スミスの同感理論は、単なる感情共有を超えた、認知的・評価的な側面を持つ複雑な心理プロセスを示しています。

同感と自己意識の形成

 スミスの同感理論のもう一つの重要な側面は、同感が自己意識の形成に果たす役割です。スミスは、他者の目を通して自分自身を見ることで、自己意識が形成されると考えました。

「われわれは、自分自身の行為を正しいと判断できるのは、それを同胞の目で見て、彼らの立場に立って考えたときに、その行為が適切であると感じられる場合に限られる」

『道徳感情論』第3部第1章

このプロセスは、現代の社会心理学でいう「鏡映的自己」(looking-glass self)の概念に通じています。他者の反応を観察し、それを通じて自己の行動や性格を理解し、評価するのです。

この自己意識の形成プロセスは、個人の道徳性の発達にとって極めて重要です。他者の目を通して自分を見直すことで、社会的に受け入れられるかどうかを判断し、自己を調整していくのです。

心理学者マーク・デイビスは、スミスの同感理論と現代の共感研究との関連性について次のように述べています。

「スミスの同感理論は、現代の共感研究が示す多次元的な共感プロセス、特に認知的視点取得と感情的共感の相互作用を先取りしていた」

『共感の社会心理学』

このように、スミスの同感理論は現代の心理学的知見とも驚くほど整合性を持っているのです。

同感と道徳判断

 スミスの同感理論において、道徳判断は同感のプロセスを通じて形成されます。私たちは、ある行為の道徳性を判断する際、行為者と被行為者の両方の立場に立ってそれぞれの感情を想像します。そして、これらの感情が調和しているかどうかを基準に、その行為の適切性を判断するのです。

例えば、ある人が他者を助ける行為を目にしたとき、助ける側の動機と助けられる側の感謝の感情が調和していれば、その行為を道徳的に適切だと判断します。

スミスは、繰り返される社会的相互作用を通じて、この道徳判断の基準が徐々に一般化され、社会全体の道徳規範として確立されていくと考えました。

アマルティア・センは、スミスの道徳理論について次のように評価しています。

「スミスの道徳理論の独自性は、道徳判断を純粋に理性的なプロセスとしてではなく、感情と理性の相互作用として捉えた点にある。これは、現代の道徳心理学が示す道徳判断の複雑性を先取りするものだった」

このように、スミスは感情と理性を統合した道徳判断のモデルを提示しており、これは純粋な理性主義や感情主義とは異なる独自の立場です。


 スミスの同感理論は、他者の立場に立って考える能力の重要性を強調しています。これは、私たちが提供するOpen Dialogの理念と深く結びついています。Open Dialogは「余白を感じる対話」を通じて、参加者が互いの立場を想像し、新たな気づきを得る機会を提供します。このプロセスは、スミスが描いた同感のメカニズムと類似しており、自己理解と他者理解を深める効果的な方法です。

また、私たちが定義する「余白」の概念は、スミスが強調した「他者の目を通して自分を見る」という自己意識形成のプロセスとも共通点があります。他者との対話や内省の時間(余白)を通じて、自分自身をより客観的に見つめ直すことができるのです。

次の第2部では、スミスがこの同感理論をどのように社会秩序や正義の理論に結びつけていったのかを見ていきましょう。


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