それでもからだの可能性を信じるのです
Oct 31, 2005(楽天blogより)
「いのちの電話」のボランティア団体から講座の依頼がありました。
何も無い、何もしたくない、どこにも行きたくない、まして華やいだことなどある筈も無く、
ただぼんやりと一日を過ごすことがあります。
気持ちはどんどん沈みこんで、
自分だけが世界から取り残されたような
孤独な時間だけが過ぎて行きます。
この感覚が残っているうちはまだ良いのかも知れません。
何も無い、このからだの存在さえも鬱陶しいものになった時、
人はどうするのでしょうか・・・。
それでもからだを信じろと言うのかと問いました。
「いのちの電話」のボランティア団体の講座を引き受けるに当たっての自問自答です。
それでもからだの可能性を信じるのです。
何故信じられるのか・・・
「自分とは自然の一部」だからです。、
『自分』とは『自然』の『分身』」だからです。
「自分とは 自然の 一部であり、
自分とは 自然の分身である」
野口 三千三
わたしたちは「からだの動きの実感を手がかりに」
そのことを確認し納得しようとしているのです。
「いのちの電話」だけではありません。
これはクラスに新しいひとたちを迎えて
何を一番大切にして伝えていくかと考えた時の
自問自答でもあります。
長い間、からだを意識の配下に置いて
意識の道具としてきた人たちにとって、
体操はからだという道具に磨きを掛ける為、
優れた道具として鍛え上げる為の方法になっています。
からだの基本的なイメージ
「わたしのからだは生きた水袋」感覚を掴むことと同じく、
野口体操にとって野口体操たらしめる重要なことであったと
今新しく思ったのでした。