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林光《流れ》(1973)まわりみち解説(3)林光にとって1973年とは何であったか

林光《流れ》(1973)という作品を考えるために、ここまで1973年以前の林光(第1回)と、1973年の音楽状況(第2回)を見ていきました。ようやく今回は林光にとって1973年とはどんな年であったか、という話に到達しました。まわりみちしすぎて、コンサート当日までにゴールにたどり着く気がしないのだけれど(ここを執筆時点で二日後)、仕方のないことです。

林光と1973年、多様式主義と「トランソニック」

 もし「第1回林光検定」が開催されたとして、「林光にとって1973年とはどんな年であったか。簡潔に述べよ」という問いがなされたとしたら、次のような答えがあり得る。

①本人が自身の作曲スタイルに悩んでいたとする最後の年。

②初めて大河ドラマ主題曲を作曲した「国盗り物語」が放送された年。

③新藤兼人の映画『心』の音楽を担当した年。

④前年結成された「トランソニック」同人とともに活動をはじめた年。

 ①は連載第1回に書いた通り。重要なポイントだけれど、ちょっと回答としてはぼんやりしすぎている。「大河ドラマのテーマ曲ファン」であれば②のように書くだろう。林の大河ドラマ主題曲は全部で三つあるが、いずれも傑作。林光という作曲家は、こういう与えられたものに対して100点を出してしまう、そんなところのある作曲家だと思う。林光のファンのなかには一定数新藤兼人や大島渚の映画から入った人もいるはずで、そういう人なら③のように書くかもしれないが、新藤映画のなかで特に有名な作品ではないので(原作の『こころ』はもちろん超有名だが)あまり良い答えではないだろう。

 そして、④は前回書いたことである。1960年代後半以降の政治的状況と、それに伴う音楽潮流の変化は、林光のスタイルに近づいていたといえる。今まで見てきたように、「山羊の会」のころから「大衆のための音楽」ということを考えてきたわけだが、それはこの時代には多くの作曲家にとって切実な問題になっていた。そのような意味でも、林にとって「トランソニック」で前衛の作曲家とされてきたひとたちと共に活動するようになったことは大きな出来事だったと思われる。

こんにゃく座との出会い

 さて、「林光にとって1973年とはどんな年であったか。簡潔に述べよ」という問いに対するもう一つの有力な答えがある。

⑤「こんにゃく座」に出会う前の年。

 「前の年」だなんてはぐらかした答えのように感じられるかもしれないが、私はこれが模範解答かもしれないと思っている。

 「オペラ小劇場こんにゃく座」(のちの「オペラシアターこんにゃく座」)は、1965年に発足した「こんにゃく体操クラブ」をもとに1971年、東京芸術大学音楽学部声楽科の卒業生8名によって結成された。オペラ歌手を目指す若き声楽家たちが新たな団体を立ち上げるに至ったのは、当時の日本のオペラ(界)にいくつかの問題を感じていたためである。まず、当時上演されていた外国オペラはほとんど訳詩上演だったが、その日本語が何を言っているのかよくわからなかったということ。林光もよく言うように、日本語が日本語として聴衆に理解されるためには、日本語のための音楽語法が必要なはずである、にもかかわらず当時はそうではなかった。次に、オペラ歌手は歌唱力はあるにしても、演技者としては十分な能力を備えていなかった。さらに、ポストがない、スキャンダルに巻き込まれる、といった音楽界・オペラ界の問題もあった。

 このようにしてはじまった「オペラ小劇場こんにゃく座」の初期のレパートリーは、高井佳純《おこん》、横山菁児《ばく》、間宮芳生《昔噺人買太郎兵衛》、金光威和雄《ごんと兵十》、石桁眞禮生《河童譚》、そして林光の《あまんじゃくとうりこひめ》であった。

 林光とこんにゃく座の出会いは1974年9月とされることが多い(林自身もこれを「出会い」とみなしているようだ)が、実際にはその5か月前、4月のこんにゃく座旗揚げ公演を観ているという。そこでは、間宮の《昔噺人買太郎兵衛》と横山の《ばく》が上演され、なぜか林の《あまんじゃくとうりこひめ》はなかったという。林はこの日の打ち上げにも参加していたが、「面白くもなさそうな顔つきであった」とか。
 
 1974年9月、本当の意味での出会いは奇妙なことに札幌にて生じた。林光が私を惹きつける一つの個人的な理由は私が札幌出身であるためでもある。自分のふるさとが、一人の作曲家にとっての分岐点であることは特別なことだ。

 さて、このとき林はなぜか札幌までわざわざ出かけて、旅公演をやっていたこんにゃく座を観た。札幌市立羊丘小学校で行われた音楽鑑賞会。今では隣に札幌ドームがあるけれど、当時はまだ北海道農業試験場だったころだ。このときのことについて、林はこのように書いている。

 七〇年代に入ってしばらくしたころ、どこからか伝わってきたうわさ。なにやらへんてこな名前のグループが、あちらこちらでお前さんの『あまんじゃくとうりこ姫』をやっているらしい。なかなか面白いという評判だ。もう五十回は越したそうだぞ、なんだ知らなかったのか。べつのうわさは言う、相当にひどいものだろうだぞ。
 ちょっとした「ほんまの袴垂れ」の心境で、しかもうわさは賛否ふたつに割れているところがいっそう興味をそそり(まさか先方は、作曲家と出会いたい一心で無断公演をつづけていたわけではあるまいが)、なんどかコンタクトをとりそこなったのち、公演先の札幌郊外の小学校にかけつけて、にせ袴垂れならぬ「こんにゃく座」の舞台とはじめて「出会った」のは、一九七四年八月の末〔ママ〕のことだった。
 はじめて観る、こんにゃく座の『あまんじゃく……』に、ぼくは仰天した。『あまんじゃく……』をこんなに面白くやってみせてもらったのは、はじめてだったし、こんなことが「オペラ界の人びと」にできるとも予想しなかった。まぎれもなくぼくの楽譜にもとづいていて、だがその楽譜を書いたときの作曲者の予想を大きくこえる、というか逸脱するものが、そこにあった。

林光『日本オペラの夢』岩波新書、1990年、134-135頁。

 リアルタイムで書かれた文章からは(これは『季刊トランソニック』に発表された!)、生々しい興奮が伝わってくる。

 講堂兼用の屋内体育館という、日本じゅうどこへ行っても共通の、そして芸能をおこなう場所としての条件を、想像を絶するくらいに欠いた空間、つまり、最悪の「場」で、ほとんど唯一つの、芸能としての「オペラ」が演じられているというのは、かなり感動的なことだった。
 これを見おわってもなお、「もっと、四重唱とかアリアなんかがちゃんとあるオペラを」とか注文する教員がいたら、(事実いたのだそうだが)その人たちには、何を言ったら、それともなにを観せたらいいのか。
(…)
 (…)私はあらためて、ここに、日本の「クラシック」音楽の世界ではほんとうに数すくない、というよりはじめての、したたかな芸人根性を身につけた人びと、まぎれもない芸能の徒が、生まれようとしていることを、痛感しないではいられない、と感じてくるのであった。

林光「芸能へ「こんにゃく座」随行記」『季刊トランソニック』第5号、全音楽譜出版社、1974年。

 こうしてこんにゃく座との奇蹟的な邂逅を果たした林は翌年、こんにゃく座のためにはじめて書いたオペラ《おこんじょうるり》(1975)をきっかけに、こんにゃく座の音楽監督および座付き作曲家に就任することになる。林の問題意識とこんにゃく座のそれとが、見事なまでに一致していたのだと思う。事実、林は『死滅への出発』(1965)の中ですでに、「実践的日本語研究」と題した日本語論を展開していたし、繰り返し述べてきたように「大衆に理解される音楽」を目指してきた。目指すべき場所は同じだったのである。

 私見だが、林の1953年来の自身の作風に対する悩みが1974年に晴れた最も大きな要因は、こんにゃく座との出会いではないだろうか。ここから林光はオペラ作曲家としての―とはいっても伝統的なオペラに一石を投じる形での―道を歩み始めたのである。林光にとって1973年とはどんな年であったか、という問いに対する模範解答が「オペラシアターこんにゃく座に出会う前の年」であると私が考える理由が伝わっていればうれしい。

 《流れ》という作品が作られた1973年とは、まさにそんな年だった。

主要参考文献

・こんにゃく座40周年記念誌編集委員会、大原哲夫編集室(編)『こんにゃく座のオペラ since 1971』オペラシアターこんにゃく座、2012年。
・林光「芸能へ「こんにゃく座」随行記」『季刊トランソニック』第5号、全音楽譜出版社、1974年。
・林光『日本オペラの夢』岩波新書、1990年。

今回登場した作品の音源紹介です

大河ドラマ『国盗り物語』テーマ音楽(林光作曲、1973)・・・林が担当した最初の大河ドラマ。このあと『花神』(1977)、『山河燃ゆ』(1984)も担当しているが、いずれも良作。

映画『心』(新藤兼人監督)・・・新藤と林光は名コンビとして数多くの作品を生み出した。

石桁眞禮生《河童譚》(1954)

林光《あまんじゃくとうりこひめ》(1958)・・・NHKの学校放送部のプロデューサー、後藤田純生に依頼された作曲した。オペラがどういうものかを30分程度で見せるテレビ用のオペラ、というのが依頼の趣旨であった。

林光《おこんじょうるり》(1975)・・・林がこんにゃく座のために書き下ろしたはじめてのオペラ。林の作曲家人生の新たな方向を明るく照らし出している。

(文責:西垣龍一)

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