[読書ノート]7回目 2月9日の講義(第一時限)
講義集成12 1982-83年度 245頁~257頁
今回のまとめ
民主的平等におけるパレーシアは差異によって機能する
帝国の位階制におけるパレーシアは差異を埋め合わす
パレーシアがないと組織は、個人の集合でしかなくなる
パレーシアの新たな局面を標定可能な理論的背景、提起された問題を照らし出してくれるような理論的背景があるプラトンのテクストを取り上げる。
『国家』第八巻、557a-b以下
民主制の生成
寡頭制から民主制への移行、そして民主的な国家と民主的な人間の形成と生成について書かれた部分。
民主制は寡頭制から出発して進行する。寡頭制とは、わずか数人だけが権力と財産を保有し、その(経済的に)優越した人々がデュナステイア(すなわち、国家に対する政治的影響力)を保持している状態のこと。寡頭制にあっては【数人以外の】他者たちが貧しくなるようにしていくことは、必要な法則であり、少なくとも自然な目標である。そういうわけで、寡頭制の国家では非常に豊かな人々と非常に貧しい人々が隣り合うような状態になってしまう。そこで嫉妬がかき立てられ、内戦が起こる。内戦は、一番貧しく、一番数の多い者たちが他の者たちを相手に戦い、外部の同盟国に参加を呼びかけて、寡頭制を転覆させ、権力を掌握することに帰結する。
プラトンによれば、民主制は「貧しい人々が闘いに勝って、相手側の人々のうちのある者は殺し、ある者は追放し、そして残りの人々を平等に統治と支配に参与させるようになったとき〔……〕成立する」。ここに見られるのは、民主的平等の定義。民主的平等は戦争によって得られたものであるだけでなく、それ自体のうちに、戦争と対立の痕跡や徴を持ち続けている。
民主制がもたらす最初の結果:自由の2つの構成要素
ひとつはパレーシア、発言の自由。もうひとつは望むことをするという自由――何でも自分がしたいことをするという自由。このように構成された民主制の構造=自由のゲームについては3つの仕方で理解しないといけない。
①自分にとって自らの同一性
民主制に属するすべての人が、自分自身のうちにいわば自分自身の政治的な単位があるのを見出す。望むことをするという自由がひとつの一般的な意見が形成される条件である、ということとは全く別に、そのように構成された民主制を特徴付けるパレーシアやエレウテリア(自由)の内部で、一人一人は、いわば自分だけの小さな国家となる。このように機能している民主制においては、パレーシアは一般的な意見を構成する要素ではなく、誰でもが自己に対しては自分自身の自律性であり、自分自身の同一性であり、自分自身の政治的独自性であるような保証である。
②誰でもが大衆を望む方向に誘導できる
このような自由のもうひとつの帰結は、誰でもが立ち上がって、大衆への追従を可能とする点。大衆に語りかけ、追従を述べることで望むものを手に入れることができる。
パレーシアの二つの否定的側面(①+②)
良きパレーシアのゲームは、まさしく真なる言説による差異化というものをもたらし、それが支配力を行使することで、国家をしかるべき方向に導くというものだった。しかしここには、逆に、国家を最悪の方向に導くような無差異化の構造が見られる。
③欲望に関するパレーシアの二重構造
しかるべく形成されている魂は、必要な欲望と余分な欲望とを完全に区別することができる(この区別はプラトン独自のものではなく昔ながらのもの)。しかし、民主的な魂は、その二つを区別できない魂であり、余分な欲望が【必要な欲望に】入り込み対立するような魂。そして、多くの場合余分な欲望の方が多いので、必要な欲望を打ち負かしてしまう。
【このプラトンのテクストを理解するために】よく理解しておかねばならないのは、魂において欲望の無秩序を生み出すものと、民主制の国家において政治的無秩序を生み出すものとは、同じひとつの欠如であるということ。
では、何が欠如しているのか。プラトンによればそれは、「真実の言説」である。真なる言説の不在(欠如)が民主的な魂の根本的な性質を形づくること、それは悪しきパレーシアが悪しき民主制に特有な無秩序状態を生み出すことと同じである。
そして、この共通点のその上に、さらに、民主的な魂と民主制国家とのあいだには直接的な錯綜関係がある。民主制国家において、誰でもが発言し影響力を行使することができるようにしてしまうのは「真実の言説」の欠如のせい。そしてそれがまた、民主的な魂【の内部】において、あらゆる欲望がぶつかり合い、対立し合い、互いに闘い、最悪の欲望が勝利を収めてしまう(この二重構造に、前の記事での「パレーシアの二分化」の痕跡が見出される)。
『法律』第三巻694a
このテクストは先ほどとはまったく別のイメージ、別の文脈を提示してくれる。
王国の国制における隷属と自由の「中道」
ギリシャ人にとって、キュロス治下のペルシア王国は、善良で正しい政治体制の模範(政治的神話)だった。その特徴としてプラトンが描くのは……
①キュロスが大勝利を収めて帝国の首長となったとき、キュロスは被征服民の首長、つまり元来の、すでに存在していた首長に協力を求めた。それによって、首長たちはまずキュロスの友となり、次いで征服された人々に対して、キュロスの代理人となった。勝利した者たちが、敗れた側の首長を自分たち自身と同列に扱うような帝国。それは適切に導かれ、統治されている帝国である。
②キュロスの帝国が良い帝国であったのは、その軍隊が、兵士たちが指揮官の友であるような仕方で構成されていたこと。それゆえ、兵士たちは命令に従い自らを危険にさらすことを受け入れた。
③君主を取り巻く人々のうちで、誰か賢く、良い意見を述べることができる者がいれば、王はその時全く嫉妬を感じることなく、その者に完全な発言の自由(パレーシア)を与えていた。そしてしかるべく君主に助言を与えることができることを示した人々に褒美を与え、褒め称えていた。つまり、並外れて賢い助言者たちに望むままに語る自由を与えることによって、君主は、すべての人々の利益となるように、助言者の能力を明らかにする手段を与えていた。
かくして、ペルシアにおいては自由と友愛、そして見解を同じくする共同体のお陰ですべてが繁栄していた、と(プラトンの)テクストは結論づけている。
民主的パレーシアから専制的権力におけるパレーシアの転移
①民主制的なパレーシアでは誰もが語る権利を持っていた。さらに実際に語る者は、並外れて能力のある者でなければならなかった。他方【専制的権力において】、君主の助言者たちのあいだでも、他の人よりも有能な人々がいる。そして、それらの助言者のうちで、誰が最もふさわしく、最も賢く、最も有能かを見分けるのがまさしく君主の仕事であり、その機能だった。
②民主的なパレーシアでは語る者にとって、自分の企てが予想していたように成功を収めないという危険があった。さらに、それより直接的な危険として、民会で怒りを買って追放され、市民権を失う等の危険があった。専制的権力の領域においても【君主の怒りを買うという】同じ危険があるわけだが、君主に向かって発言する者が、彼自身の発言の自由によって危険にさらされることがないようにするのが、ほかならぬ君主のつとめだった。ここに(転移された)パレーシア的協約が見られる。君主が努めるべきことは、自分に助言する者による「真実の語り」が形成されて出現するような空間を開き、またそうした自由を開きながら、その助言者を罰せず、厳しく扱わないようにする義務を自ら負うことである。
③重要な要素。民主的パレーシアの固有な性格――それが実際に作用することができるのは、ある市民たちが他の人々から区別され、民会で支配力を持つことで、民会をしかるべきところへ導くという条件においてだった。つまり、民主的な平等においては、パレーシアは差異化の原理であり、ひとつの区切りだった。キュロスの良き帝国においては、パレーシアは、帝国の(君主とそれ以外の人々、君主を取りまく人々とそれ以外の国民、士官と兵士、勝利した者と敗れた物など)さまざまな位階制的序列の差異があるが、それらの差異はいくつかの関係が構成されることによって、いわば薄められ、また埋め合わされている。その関係は(プラトンの)テクスト全体を通して友愛と表現されているもの。
帝国における自由とは、制度的な、共有された政治的権利というかたちで存在するのはなく、発言の自由(専制政治における自由の具体的形態としてのパレーシア)である。この発言の自由は、友愛をもたらす。その友愛こそが、共同体を確固たるものにするのだ。
『法律』第八巻835以下
国家の道徳的、宗教的、公民的な秩序を保証すべきものについて書かれた箇所。パレーシアについてのくだりは、宗教的祭礼や軍事訓練に関することと、性的規則に関することのあいだにある。それらがなければ、都市国家は本当の組織を構成せず[代わりに]個人の集団でしかなく、その個人たちは互いに混ざり合い、「反逆」というかたちで互いに争う。
統一的で堅固な社会組織に必要なもの:権威
堅固な社会組織のためには……プラトンによれば、進んで受け入れる人々に対して進んで行使されるような権威、(言い換えると)市民たちが従うことができ、しかも実際に従うことを望みながら従うことができるような権威が必要。したがって、市民たちは自分たちに課せられた法の正当性について個人的に納得し、いわばそれを自分自身の責任において受け取るということだが、まさにその時、パレーシアの必要性が生じる。そのパレーシアとは、市民たちに対して服従する必要性を納得させるために、国家のなかのある人物が保持するべき「真なる言説」である。
理想国家の補足としてのパレーシア
このテクストが変わっているのは、理想国家の成立要件はすべて満たされている、その上の話であること。理想国家や、完璧な秩序や、可能な限りきちんと育てられた官吏たちや、それらの機能が適切に果たされていても【/いるにもかかわらず】、市民たちが国家の秩序内でふさわしく振る舞い、国家が存続するために必要な一貫した組織を彼らが構成するためには、その上の何かが必要。つまり、市民たちに対する補足的な真実の言説が必要であり、誰かが市民たちに完全な率直さをもって語りかけ、理性と真実の言葉を持ち、それによって彼らを説得しなければならない。
ここにおいても、パレーシアが複雑さと二重の連接をともなって現れている。すなわちパレーシアとは、国家が統治されるために必要なものだが、また同時に、国家において、その市民たちが市民として正しくあるために、その魂に働きかけるべきものなのだ。
今回は以上です。フーコーは続けて『ゴルギアス』も検討する予定でしたが、それは時間の関係で後に回されます。「後」といっても、直後ではなく(今年度最終回(結論)の直前に予定しつつも、コピー機がぶっ壊れたために順番が前後し)本当の最後の回に言及されることになります。今後もずーっとプラトンのテクスト分析で、次回は『書簡集』が取り上げられます。
私的コメント
内容的なコメントの前に、一言。今回は今までで一番読解→記事にすることが難しかったです。単純にフーコーの講義内容が複雑だったから(それを次の講義の冒頭でフーコーも聴衆に詫びています)ですが、記事のかたちで読まれる皆さんにとって、どうなっているでしょうか……これまでと同じ程度の読みやすさ(/にくさ)を維持できているといいのですが。
さて、内容のハイライトは間違いなくパレーシアの「卓越的」や「闘争的」といった意識高い系の特徴が「誰に対しても」求められるのは民主制だから要求されるものであって、(非民主的な)王政や専制政治においては、その特徴は「友愛」や「厳しく扱わない義務」といったもの――ほとんど正反対ともいえるほどのものに変わっていくというところでしょう。しがたって、民主制における「説得」というものと、非民主制下での「説得」は、同じ言葉でもその内実が全く異なっています。そして民主制が堕落したのはまさに「卓越性」や「闘争性」によって(あるいはそのリスクを他者が負えなかったから)でした。
これらのことから、二つのことがいえると思います。一つは、私たちがディフォルトとしている民主主義(民主制)こそが、差異(=卓越性)を要求する本体だということです。ディフォルメした言い換えになりますが、もし、私たちの社会に「生きづらさ」があるとするなら、それは民主主義のせいです。福祉の問題や、まして資本主義の問題などではない。それらは、一種の勘違いです。民主主義が原因とはなんとも単純な話ではありますが、灯台下暗しといったところでしょうか。もう一つは、おそらくは特にビジネスの場で重宝されている、自己啓発的な意識高い系として生成された「主体」のあり方は、高スペック人材としての理想像ではなく、民主制堕落(機能不全)のトリガーだということです。ただし、その種の堕落は専制政治の位階序列では起こりません。
あと、前回のコメントで少し言及した「心理的安全性」についは、民主制ではなく専制的権力(ようするに会社という組織)において現代的な意味に近づいていくというのは、興味深くもあれば、他方で当然だろうとも思いました。ちなみに、エイミー・C. エドモンドソンは1999年の論文で「心理的安全性」という概念を発表しています。このフーコーの講義の10年以上後のことです。その後、Googleの「プロジェクトアリストテレス」という、一方で呆れるほどチープな誤解(アリストテレスにとってビジネスマンは奴隷=市民権なしが前提)――あるいは逆に、驚くほど聡明な(道徳性はお金儲けする能力に比例する)プロジェクトの研究結果が発信されたのは2012年です。
記事後半の、権威−自発的服従との関係についても興味深いですが、コメントが長くなるので、またの機会に触れたいと思います。
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