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[読書ノート]21回目 2月15日の講義~2月29日の講義

講義集成13 1983-84年度 89頁~206頁

今回のポイント

  • やっぱりソクラテスは近代につづく哲学の創設者

  • 西欧合理性(の偏り)は根深い

  • 倫理を考えるにしても2つの道がある

はじめに

講義の流れの概観

 前回は、政治の領野におけるパレーシアを話題のベースにして西欧哲学の特徴について――一方(20回目)では、預言、知識、技術の態度から区別される、パレーシア的態度で特徴づけられ、他方(20.5回目)では、科学、政治、道徳の言説から区別される、常にそれらを互いに検討するものという特徴が述べられました。今回は、倫理の領野におけるパレーシアを話題のベースにして、西欧哲学が発達する際の二つの道筋について述べられます。

記事についての弁明

 この大きな枠組み、構造を理解、あるいは整理するのに時間を要したことをお詫びします。理由としては、フーコーが、取り上げるテクスト(前半は、ソクラテスの死をめぐる『弁明』『クリトン』『パイドン』。後半は『ラケス』と『アルキビアデス』)の読解のレベルが(いわゆる文献学的に)高水準になっていること、関連して細部や関連事項への言及が混ざることで、私自身が読書ノートを作りながら話の本筋を見失ったためです。そして、本筋という観点からポイントを抜き出すとその分量は極めて少ないことが分かりました。

例外とすることについて

 したがって、今回はこれまでの読書ノートの形式から大きく外れた例外にすることに(多くの下書きの破棄を伴いながら)します。具体的には、平の文章には、私の言葉と引用部分が混在することになります(したがって部分的に、ラフな言葉遣いも入ります)。文意を損なわないように注意はしていますが、他の回よりも私の主観や誤解が入っている可能性が高い、と想定してください。また、煩雑になるので、まるまる引用している部分もいちいち示しません(これは今までと同じことです)。また、明らかに講義の中にない私による補足は【 】を用います。例外とこれまでのルールが併存しますが、察してください。講義はそれ以上に複雑だったのです。

失われているトピックス

 興味深く、意義があることを分かった上で割愛した部分について少なくともトピックスだけでも挙げておきます。
 ① なぜ、ソクラテスは政治的パレーシアからは命の危険があるという理由で身を引いたのに、哲学的パレーシアについては(同じ命の危険があり実際、最終的には死刑となるにもかかわらず)自身の任務として精力的に取り組んだのか。
 ② なぜ、(非常に容易に)脱獄できる=死を回避できる=任務を継続できる可能性があったのにそうしなかったのか。これについて、一般的に「悪法もまた法なり」と言って毒を呷る……つまり法という規範をやぶることがソクラテスが自分に課したルールに抵触するから、といった辞典に載っているような表面的な理由じゃないことが、分析されます。
 ③ なぜ、ソクラテスの最後の言葉が、アスクレピオス(治癒の神)への借りを返すために雄鶏を捧げることのクリトンへの念押しだったのか。これは、2000年間、哲学史において謎であり、月並みな解釈であり続け――ニーチェも間違い、フーコーですら自己解決できなかったものの、デュメジルがその謎を解き、フーコーが丁寧に傍証します。
 簡単にそれぞれ結論だけでも書いてくれ、と思われるかもしれませんが、できません。これらこそ、極めて高水準の文献学的な検証を経ないと――というより、その過程のなかに結論があるからです。
 ただ、私事ですが(それゆえある程度の確証を持って)次のことは言えます。(素晴らしい水準である)日本語訳でいくら丁寧にプラトンのテクストを読んでも、あるいは、通り一遍の解説本を読んでも、ほぼ確実にフーコーの読解(つまり、①②③の結論)には辿り着けません。唯一、デュメジルの『灰色の僧』を読めば③について書いてあるんでしょうが、日本語訳されているんでしょうか?

 前置きは以上です。

倫理の領野におけるパレーシアの創設

 ソクラテスは、彼こそが人間たちのなかで最高の知者であると言明した(デルポイの)神託が確かに真であるかどうかを謙虚に検証しに赴いて、他の人々が持つと推定される知を前に自分自身の無知を示し、それを強調しようとした。しかし彼は結局、少なくとも自分自身が無知であることを知っているという点において、確かに他の人々よりも物をよく知る者として現れる。こうして、ソクラテスの魂は、他の人々の魂の試金石となる。
 (このソクラテスの物語の三つの契機を整理すると)探求ゼーテーシス吟味エクセタシス配慮エピメレイア。これが、ソクラテスのパレーシア、ソクラテスの勇気ある真理陳述を定義するものの一式である。
 試金石となって様々な人々と問答することの目標は、人々が自分たち自身に専心するようにすることから出発して、理性的な行いが魂の存在そのものに応じて定義されうるようになる原理として、エートスを創設すること。

自己への配慮エピメレイアは、今回のキーワードであり、様々に言い換えられる。人々を自分たち自身に専心するように仕向けること。自己自身および他の人々への気配り、諸々の魂への気配り等

哲学の反省と実践とが発達する際の大いなる二つの道筋

 まずは、初期対話篇『ラケス』の読解がはじめられる。『ラケス』はまさに勇気がテーマになっている。ところが、その内容は、勇気とはなにか、その定義について、対話の相手どころかソクラテスも「分からなかったね、できなかったね」で終わる。
 『ラケス』において注目すべきなのは(内容としての結論ではなく)、一人の主体に対し、真理に接近すること、真理を語ることを可能にする道徳的諸条件に関する問題の問われ方

真理をめぐる倫理というテーマ

 (フーコーは一度『ラケス』を離れる)上記の問題を問う際に、通常見いだされるもの、そして西欧的反省の最も大きな表面を占めてきたもの、それは、主体の純粋さ、ないし主体の純化の問題というかたちでの、真理をめぐる倫理の問題。つまり、ピュタゴラス主義以来、近代西欧哲学に至るまで見られる浄化というアプローチ
 A 真理に接近するためには、主体が、感性界、過ちの世界、利害と快楽の世界に対し、つまり、真理の純粋さとその永遠性に対して不純なものの場を構築する世界全体に対し、ある種の断絶を保ちつつ自らを構築しなければならない、という考え。そこで、真理を見たり真理を語ったりすることができる主体として構成することができるようになるための道徳的経路を構成するのは、不純なものから純粋なものへ、曇ったものから澄んだものへ、かりそめのものや儚いものから永遠なるものへの移行である。デカルトの手続きも浄化の手続きといえる。つまり、いかなる条件のもとで、主体は自らを純粋な視線として構成し、あらゆる個別の利害と関係を絶って、浄化された真理の把握のなかで普遍性を得ることができるのかというもの(別の場所でフーコーはフッサールの名前も挙げている)。
 しかし、浄化は真理をめぐる倫理の一つの側面でしかない。B 真理に到達するために、いかなるタイプの決意、いかなるタイプの意志、いかなるタイプの犠牲さらには闘いに身を投じることができるかという、真理の勇気という側面もある。真理のためのこの闘いは、真理に到達することを可能にするものとしての純化とは別物。

『アルキビアデス』における専心の対象

 『アルキビアデス』では何に専心すべきなのか、についてかなり素早くA' プシュケーであると導かれる。自己について説明しなければならないという原則から出発しつつ、身体と存在論的に区別される現実(魂)としての自己自身が発見され、創設される。そうした自己の創設によって、魂をそれ自身の存在様式およびそれ自身の世界へと連れ戻すことをその役割、その目的とするような、(後に形而上学の言説の場となる)真理陳述の一つの様式がもたらされるということ。
 そうした場において形而上学的言説は、人間に対し、その存在について事情はどうであるか、人間の存在のその存在論的基礎[から]倫理および行動の諸規則にかかわるものとして何が生じるのかということを語らねばならなくなる。

再び『ラケス』について

 『ラケス』において、ソクラテスの言説とパレーシアが行使される領野を構成するもの(=専心するべき対象)は、人が生きるやり方である。
 まず、対話を進めていく手段(目標)として自己への配慮エピメレイアという方法が対話者全員の合意のもとに採用されるが、それは、ソクラテス的パレーシアがまさしく、「汝自身に専心すべし」という原則に連接されてそれに従う言説だから。つまり、人々【ラケスという物語において直接的には対話者の子どもたち】への配慮に対して応じることができるのは、ソクラテス的な配慮、専念、熱意のみである。
 そのうえで、ソクラテス的パレーシアが何について語るのか――それは、B'ビオスの様式。生存という領域、生のトポス【場所】、生のスタイル、生に与えられる形式そのもの。
 ここには、パレーシア、エピメレイア、ビオスの次元における善と悪との倫理的分割が、根本的なやり方で連鎖させられているのが見られる。

魂の認識の哲学と生の試練としての哲学

 一方で、A' 魂の認識としての哲学――人々を自分自身に専心するように仕向けながら、その人々を魂という形而上学的現実にまで導くものとしての哲学。その魂の認識から自己の存在論をつくり上げる哲学。西洋形而上学、そしてヨーロッパ合理性は「エピメレイアを魂への配慮としてのみ考察すること」に根深く結びついている。
 他方で、B' 生の試練としての哲学――生の試練、生存の試練、生のある種の形式と方式の練り上げとしての哲学。倫理的素材としての生、自己自身に関する一つの技法の対象としての生を、試練にかける哲学。配慮の対象としてのビオスのテーマは、キュニコス主義を代表例とする哲学の実践全体、活動全体につながるものであると私(フーコー)には思われる。
 この二つは決して相容れないものではないし、プラトンにおいても根本的に結びついているにもかかわらず、これらはいわば、西欧における哲学的活動、哲学的実践の二つの横顔の出発点である。

生の試練としての哲学の特徴について

 生の様式としての自己自身の創設は、(『アルキビアデス』で言及されている)「汝自身を知れグノーティ・セアウトン」に帰属するが、その自己認識の様式は(魂の熟視ではなく)行動の仕方に関わる試練、吟味、さらには訓練という形式をとる。それが、何らかの形而上学的言説の場所を限定することのない「真なることを語ること」の一つの様式、ビオスにある種の形式を与えることをその役割および目的とする「真なることを語ること」の一つの様式に場を与える。これは、ある程度まで、魂の形而上学の裏面、さらにはその代替物を構成するものである。
 (哲学の歴史の大きな道筋として)生存のスタイル論についての歴史研究がありうるだろう。一つの美学的対象としての生についての歴史研究という主体性の歴史のこちらの側面は、長いあいだ、形而上学の歴史によって覆い隠され、支配されてきた。また他方で、事物、実体、色彩、空間、光、音、語に対して形式を与えるためのものとして考えられた美学的形式に関する研究の特権化によっても覆い隠されてきた。
 もちろん、生存の美学はソクラテスによる発明ではない(もっと前からあった)。ソクラテスによって行われたのは、生存の美しさという目標と、真理のゲームのなかで自己自身について説明する任務との組み合わせである。
 ただし、(フーコーは)魂の存在論というテーマと生存の美学というテーマとのあいだに、非両立性もしくは克服し難い矛盾のようなものがあると主張しているのではない。しかし、生存の美学は、魂の存在論(形而上学)からの何かの投影、その応用、その帰結、その実践と【いう従属関係に】はならない。これら、二つのあいだの実際の関係は(歴史のなかで)柔軟で変化に富んだものである。
 形而上学の方は比較的恒常的であるのに、生存のスタイル論の方は変化に富んでいる例は、キリスト教にみられる。キリスト教は、(それ固有の魂の形而上学を持っているとして)それぞれ互いに大きくことなる諸々の生存のスタイルを同時的、継続的に発達させてきた。
 逆に、互いにはっきりと異なる諸々の魂の形而上学が、比較的変化のないままにとどまる生存のスタイルにとっての支え、準拠、理論的枠組として役立った例として、ストア主義がある。
 したがって、魂の形而上学と生存のスタイル論とのあいだには、常に分析可能であるような一つの関係があり、しかしそれは決して恒常的な関係ではなく、実際には双方において何らかのヴァリエーションを伴いうる関係であるということである。

今回は以上です。例外にお付き合いいただきありがとうございました。次回はやっとキュニコス主義の話になります。(フーコーにとっての)残り時間が少ないのですが、大丈夫なんでしょうか。

私的コメント

 ある意味で、私が「読書ノート」として想定していた当初の形式(話の本筋とポイントの抜き出し)に最も近づいた回とも言えます。まさかそれが、こんなに険しい道とは思いもよりませんでしたが。念の為……本筋である場所については、従来のような抜書と再構成の文章も多くの割合を占めています。
 その他、読解に関しては、これまでもそうでしたが、今回は特に同じような言葉が様々に言い換えられています。配慮ひとつとっても、専心、気配り、熱意といった具合ですね。これらは、古代ギリシャ語が一つの言葉に多くの意味が含まれていたことが直接の原因ですが、逆に言えば、意味が分かれば気にしなくていいということです。つまり、哲学書によくある厳密な使い分け(訳し分け)が行われているのではありません。吟味、試練も同じです。
 さて、注目すべきは、倫理的領域――もっと狭く言えば、「自己への配慮」という根本テーマのなかにいわば2つの哲学の起源があり、一つは本質主義的形而上学、もう一つは生の形式生存のスタイル論であるということです。ここまでは確定でいいと思うのですが、読書ノートでは、図式的に前者をA'としました。それは浄化の水準で特徴づけられたA(純粋に把握された真理の普遍性)の方が広いカテゴリーだろうとの判断です。そして、フーコーが常に注意するのは、オルタナティヴとして、広くはB(勇気、行動、決意)、そしてB'として生存のスタイル論があるということです。こちらがキュニコス主義につながります。……正確には、BとB'の関係が先に目に止まり、論理的にAとA'を紐付けています。これら(AとA'/BとB')を無関係と捉えると、講義が全体として成立しないと思う反面、ぶっちゃけ、その関係性――しかも特にBの方……勇気と生の形式がどのように関係するのかは今のところ明確ではないです。まぁ多分、ディオゲネスならつなげてくれるでしょう。

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松岡鉄久
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