あの百合作品もすごい! 2024下半期
原則として2024年下半期に発売された作品を対象とする。
サムネイルは『リルヤとナツカの純白な嘘』〈Frontwing〉よりお借りしました。
上半期はこっち。
スケジュール管理のミスにより短評欄は充実できていない。後日選外のマンガ/アニメ/ゲームと一言コメントを更新予定。
現時点で9万8千文字(?)あります。
【小説・随筆】
『少女マクベス』
『少女マクベス』〈降田天〉は女子演劇学校を舞台にした本格ミステリ小説。
「天才」「特別」「神」。一年生から定期公演に抜擢され、周りの人間をみずからの世界に引きずりこむ脚本/演出家・設楽了。彼女が事故死してからもう半年になる。不可解な点はありつつも事件性はない――誰もがそう納得することでくすぶる感情を覆い隠そうとした。万年二位に甘んじてきた結城さやかにとって、設楽了が生きていようがいまいが彼女の影響を振りきることはできない。
設楽了の舞台にほんのちょっとの改変を加えた新入生歓迎公演。その改変部分が気に入らないという新入生・藤代貴水。そして貴水は宣言する。「わたしは、設楽了の死の真相を調べにきた」。容疑を吹っかけられたさやかは貴水の捜査を手伝い、設楽了をとりまく同級生たちの闇を知ることとなる。
女子演劇学校の群像劇を取りあつかった作品はいくつかあり、アニメ化された『かげきしょうじょ!!』〈斉木久美子〉やこれからアニメ化される『淡島百景』〈志村貴子〉など、女性間の感情を豊かに描かれたものは百合人気も高い。
なかでも本作『少女マクベス』と類似するのはメディアミックス作品『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』〈ブシロード&ネルケプランニング〉だろう。俳優科と制作科にわかれる女子演劇学校、才能あふれる少女たちの確執、友人との約束を胸に飛び入り参加する部外者、毎年おなじ題材をアレンジして上演される定期公演、前年の衝撃からいまだ完成していない脚本、物語の転換点になる『マクベス』、オーディションの名のもとに演じながら檄を飛ばしあう対決シーンなど、共通点は枚挙にいとまがない。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』では徹頭徹尾「表現者であること」をテーマとして関係性が作られていた。ライバル、幼なじみなど、お互いがお互いを舞台少女たらしめる存在であり、今ここで何のために舞台に立つのかが問われる。舞台へ向かう姿勢や想いの強さが力となり、刃となって己を問いただすこともある。場面の物理的なつながりを度外視し、少女たちの想いをダイレクトに演出した前衛表現。密接なライバル関係、憎愛を描いた『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、非恋愛(※諸説)ながらに百合好きの心を掴んだ。
『少女マクベス』と『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の違いは「表現手法」にあると言ってもよい。後者は非日常的なファンタジーを通し、少女たちが思いの丈をぶつけ合うに相応しい舞台をこしらえた。『少女マクベス』はミステリという体裁、崇敬を集めていた同級生の死、聞きこみ捜査、そして追求を通じて、少女たちの内に秘められていた思いの丈を掘り起こしていく。それらの心情を表現するにあたって「ジャンル」が分岐しているにすぎない。
もうひとつ、この2作品には表面的には違えど共通する理念がある。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は最初から最後まで表現者であることを賛美し、宿命づける作品だった。劇場版アニメでは、TVアニメ後の日常にゆるむ少女たちを文字通り血祭りにあげ、舞台と舞台の中間地点であっても舞台人であれと叱責した。「普通の喜び、女の子の楽しみ」そのすべてを原動力とし、舞台のために生きる。ライバル意識は激しさを増し、切磋琢磨された刃によって切腹を迫られ、死傷沙汰になるシーンまで存在する。そうした舞台少女たちのきらめきは、劇場公開後に転職者が急増するほど(※俗説)まばゆく、肯定的に演出されている。
設楽了の演技指導も苛烈だった。叱責し、物にあたり、演者に台本を投げつける。それでいて周囲に諌める人間はいない。抜擢された同級生が衰弱し退学しようとも、アイドルとして花開いた事実が了の審美眼を裏付ける。了には脚本演出の才覚だけでなく、役者の素質を見ぬき最大限活かす力があった。だから盗聴器を仕掛けていようとも、ちょっとした押し問答だけで済まされる。たとえ空っぽな人間でも、たとえ後ろめたさを抱えていても、了の支配下でなら舞台人で居られる。了はそうして崇敬をあつめていく。
一見おなじ舞台に生きているようにみえて、そうではない。盲信、依存、神格化、自己犠牲。そうした感情を剔出し、斬り結んで相互理解を深めるのが『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』だった。悩みやわだかまり、あるいは執着などといった感情は誰しもが持ちうる。むしろ後ろめたい、隠したい感情が人をライバルたらしめるのであれば、それを吐き出し共有してこそおなじ舞台に立てるのだろう。自分自身の心を押し隠し、相手の悩みすらわからず挑む舞台は、たとえ肩を触れあわせても遠い隔たりにいる。
『少女マクベス』の少女たちは誰しもが悩みを抱えている。それは共有されることなく、たとえ了の盗聴を同時に告発したものでも互いを知らない。誰もが彼女たちの才覚を羨望して、裏にある人間性を見ようとはしない。ほかならぬ主人公・結城さやかがそうだった。被疑者たちの身の潔白をあばくたび、外面とかけ離れた心のうちに呆然とする。さやかもまた何も知らない箱入り娘のようでありながら、周囲には了に次ぐ実力者として一線を引かれている。
表出した才覚だけがすべてで、相手を非人間化しても誹りを受けない世界。誰も了の人間性に興味を払わず、了自身の悩みもまた知られることはなかった。了を殺したのはわたしたち全員だと、あるひとは言う。
『少女マクベス』はフェアな本格ミステリだ。ヒントは序盤から配置され、まるで読者への挑戦状と言わんばかりに「チェーホフの銃」へと言及される。しかし本作はその犯人探しよりも、少女たちの功罪、その人間関係の歪みに重きを置く青春群像劇だと言ってもよい。少し趣味の入った評を下すのであれば、今まで舞台にしか興味がなかったツンデレっけのある努力の人と、飄々としつつ誰よりも人間関係を希求する探偵というコンビが物珍しく、味のする関係性をしていた。わたしもおすすめします。
散々引きあいに出した『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もあわせて摂取すると倍美味しい。おすすめはTVアニメから。
『サンショウウオの四十九日』
『サンショウウオの四十九日』〈朝比奈秋〉は、現役医師・朝比奈秋による双子姉妹小説。
2024年7月に行われた第171回芥川賞選考会。候補作5作品のうち実に3作品が女性どうしの関係性に注目した著作とあり、百合文芸に興味をもつ層からも期待の目が寄せられていた。
時を隔てて死んだはずの親友が返ってくる詩人初小説『いなくなくならなくならないで』〈向坂くじら〉、ウガンダからきた女性との関わりを通じて自他を見つめなおす『海岸通り』〈坂崎かおる〉。切り口に独自性を持ちつつも、特殊な他者を介して自分自身を問うという点で奇妙な類似が見いだせる。そんななかで、幼少期の混沌とした記憶や熱病に浮かされた感覚など、誰にでも共感しえる体験を通じて、双子姉妹の輪郭の曖昧さをとらえた『サンショウウオの四十九日』に軍配が上がったのは不思議でもない。
「芥川賞」の選考委員は小説家で固められている。そのなかには過去に芥川賞を受賞した作家も多く、第171回では9人の選考委員のうち7人が受賞者、残りの2人が候補者だった。長年の生物濃縮(?)によって、エンタメ性よりもテーマや技法の斬新さのほうが重要視されやすい傾向にある。
『サンショウウオの四十九日』は特殊な姉妹の絆、仲間意識、愛しさ、鬱陶しさ、姦しさ、別れがたさを共感覚的に綴った小説なため、キャッチーな書き出しの『いなくなくならなくならないで』や百合作家手ずからの『海岸通り』に比べると、百合を感じたという愛好家が少ないようにうかがえた。もとより文芸作品の姉妹愛は百合と見なされづらく(母娘の愛が度外視されやすいように)、『サンショウウオの四十九日』の提示する姉妹の交錯が、多くの人間にとって未知の領域にあったのも原因のひとつだろう。しかしその未知性こそが、いまだ書かれえない姉妹百合を識るにあたって大いに意義があった(「未知性」とは言うものの、身体的特殊性のことを直接指しているわけではない)。
『サンショウウオの四十九日』は過去を回想するかたちで時系列が入り乱れ、まどろんだ語りとともに混乱がもたらされる小説である。ともかく、双子姉妹が生きる”現在”においてふたりは29歳で、実家からすこし離れた屋根の下で寝床を同じくし、パン工場でともに勤務している。そういえば父は伯父のおなかに入って(胎児内胎児というかたちで)産まれてきたのよなあと振り返りつつ、姉妹はならび立って風呂場へと入っていく。29歳でもまだふたりでお風呂に入っているんだ、と読み手が感涙するうちに、姉の手が妹の手を洗い、妹は自分の足のあとに姉の足を洗ってやり、ふたりで湯船に入る。このとき、風呂場の鏡は女性ひとりしか映していない。風呂場のお湯は人間ひとり分かすこし多いくらいしか揺蕩っていない。なぜなら姉妹はひとつの身体を共有しているからだ。ひとつの身体の左半分が姉の杏で、右半分が妹の瞬である。ちょうど中心に日付変更線のような境界があり、左右で肌の色がちがう。髪の毛の柔らかさがちがう。だからといって頭がふたつあるわけではない。頭から爪先まで、ひとり分の身体をふたりで分けている。左脳と右脳の間にちょっとした膨らみがあるが、脳だってふたり分あるわけではない。ふたりの思考は混ざっていて、それでいて杏と瞬の性格はバラバラだ。だから杏が考えこむと、瞬の思考にまで専門用語があふれてくる。瞬が思い出に耽ると、杏の視界に過去がべったり張りついたりする。
『サンショウウオの四十九日』は一人称小説である。一人称小説において、地の文は焦点人物の独壇場、思考のあそび場、聖域といえる。合間にカギかっこ付きでセリフが書かれるかもしれないが、その明瞭さやノイズのなさからすると焦点人物の認識ですらないかもしれない。ともかく、地の文にほかの人物が踏み入れることはない。ところが『サンショウウオの四十九日』ではあり得てしまう。
上記の引用の太字部分は瞬のもので、それ以外は杏のものだ。と、言いきれるだろうか? 黙って頷いたのは杏であり瞬のものでもある頭で、カップ焼きそばにお湯を注いだのは瞬ではなく杏かもしれない。お湯が沸いていることに気づいたのは瞬でも杏でもなく反射的な無意識……ふつうの人間にとって無意識とは自分と地続きな部分だが、杏と瞬にとって自分でもなく相手でもなく、それでいて両方でもある部分……かもしれない。
ふたつの身体がつながって産まれた双子のことを「結合双生児」という。結合双生児はメディアに取りあげられることも多く、写真を介して彼/彼女たちを見たことがあるというひとも多いだろう。つながり方は二十人十色で、腰だけがつながっていたり、お尻を基点に背中あわせでつながってたりする。なかには上半身だけふたつに分かれていたり、頭だけふたつあったりするが、『サンショウウオの四十九日』のように半分ずつくっついているというのは例がない。
作者の対談によると、まず「体と脳を共有した二人」という題材があり、結合双生児という概念はあとからついてきたように伺える。そのため『サンショウウオの四十九日』を「結合双生児」という観点に絞って語ろうとすると真意を掴みあぐねてしまう。
『サンショウウオの四十九日』で瞬が産声をあげたのは、杏が5歳になったころだった。しかしふたりは同じ日同じ時間にうまれている。杏ではない自我として、瞬が認識されたのが5歳のころだったのだ。
わたしたちは普段、自分の意思で自分の身体を動かしている。でももっと子どものころ、自我が形成され、意思と四肢が接続されるまではそうじゃない。あなたの指はひらがなを写しとることすら容易にできなかったかもしれないし、上半身と下半身がバラバラに動いて自転車に乗ることすらできなかったかもしれない。よそ見して歩かないと言い聞かされているのに、瞳はほかの子がもつ風船を見つめていたかもしれない。あなたという自我はまだ輪郭を保てずにいて、四肢をはじめとする各部位はそれぞれの意思で運動し、なんとかバランスを取ろうとしている。成長するにつれ、各部位からするするとツタが伸びてきて、あなたという中心につながっていく。
杏の瞳の向こうには中心がふたつあった。はじめはどちらの中心も各部位につながっていなかったから、どちらの中心もないのと同じだった。次第に片方の中心だけがツタのつながりを得て、杏という中心が肉付けされていく。もう片方の中心はつながりを得られないことで逆説的に自我を実感する。自分の身体を自分の意思で動かしていない状態が持続している。
あなたは風邪を引き、39度を超える熱に悩まされている。身体が鉛のように重く、思考がかじかんで、世界に溶け出していくような感覚がする。寝具の冷たさで身体の輪郭がはっきりしていたのに、あなたの体温はまたたく間に布地をとろかしていく。次第にあなたはまんまるになって、寝具の外で浮かされているのに気づくかもしれない。この輪郭、身体感覚の消失を「不思議の国のアリス症候群」のひとつに数える。自分の身体が自分という中心につながっていない。ふたりはしばしば”熱”をとおして身体感覚をうしなう体験をする。杏が主導権を手放した5歳のときも、瞬が輪郭をうしなおうとする29歳の今も。
ふたりはずっと分かたれないのだと信じていた。人体図に付箋を貼り、腸は杏で、膀胱は瞬のものだと押しつけあう。子を産めない子宮ならばと、ふたりの間にできた子どもを夢想する。分かたれづらさが妄想を安全圏へと追いやり、不安を現実のものと感じさせない。付箋で所有権を主張するように、杏が瞬の手にネイルチップを貼ってやり、瞬が杏の手にネイルチップを貼ってやる。自分のものでも相手のものでも構わない。たとえ死であってもどちらかだけに降りかかることはなく、ふたりのものでありつづける。
痛感したのは伯父の骨をひろったときだった。父を抱えてうまれてきた伯父。まるで父から病を押し付けられたように病弱だった伯父。透明な線で繋がれていても、死ぬときは別々なのだと。
扁桃腺が熱を発し、知らず知らずのうちに瞬は自分たちの身体を見下ろしていることに気がつく。杏は読書に没頭していて、自分だけがその身体を離れていく。感覚と、感情と、思考。つながりが徐々に薄れていき、意識だけで輪郭が保たれる。
出生後の死亡率が高く、分離手術の失敗率も無視できない結合双生児は、フィクションにおいて”死”と同居するように描かれる。結合双生児姉妹作品も例にもれず、萩尾望都の短編マンガ「半神」、サラ・クロッサンの小説『わたしの全てのわたしたち』、バンジョン・ピサンタナクーンのホラー映画『フェート/双生児』のいずれも分離手術によって片割れをうしなっている。
『サンショウウオの四十九日』もまたいずれかが死を迎え、悲劇によって幕が閉じるのだと思われた。しかしそうはならない。驚くほどあっけなく、穏やかな日差しのように崇高に、ふたりはまた結びつきを強固にしていく。きっかけとなったのは、5歳のときのあの日の思い出。幼稚園を抜け出して、藻の張った池の奥に、ザリガニを見つけたあの日の思い出。杏が瞬を見つけたあの日の思い出。
お互いの手をかさねて結びあうすがたを、わたしたちはきっと「祈り」と呼ぶのだろう。
『精霊を統べる者』(上半期の補遺)
『精霊を統べる者』〈著者:P・ジェリ・クラーク/翻訳:鍛治靖子〉は6月末に翻訳出版されたエジプト・魔法・スチームパンク・百合・SF・ミステリ小説。
ネビュラ賞、ローカス賞、イグナイト賞、コンプトン・クルック賞と数々のSFファンタジー小説賞を受賞している。
舞台は19世紀末から20世紀初頭にかけてのエジプト・カイロ。19世紀末にアル=ジャーヒズと呼ばれる大魔術師が魔術を復活させ、異次元から「ジン」という精霊を呼び寄せた。ジンは強大で気難しくも人類と共存し、その力をもって正史では敗北に終わったウラービー革命(1882年)を成功させる。『精霊を統べる者』においてエジプトは欧州の支配下になく、それらに比肩しうる魔術国家として国際的な注目をあつめている。
アル=ジャーヒズが行方をくらまして数十年後の1912年。彼を信奉する英国貴族らの秘密結社が襲撃され、エジプト=イギリス間の平和を担う駐エジプト大使が焼死する。24体にもおよぶ焼死体のほとんどは、小綺麗な服を着たまま肉体だけが焼けおちており、巷ではアル=ジャーヒズをみたとの報告があがるようになっていく。
こうしたあらすじから重量級のファンタジーを予測させる『精霊を統べる者』だが、それよりも魅力的なのが主人公とその恋人のデザインだ。
主人公、ファトマ・エル=シャラウィー。エジプト南部の生まれであり、黒い肌をしている。身につけるのはヒジャブではなく山高帽と補色の効いたスリーピーススーツだ。少年のような顔つきで、単独行動を好むクールな性格。愛用のステッキは獅子の柄がついた仕込み刀で、拳銃よりも短刀を用いた戦闘を好んでいる。錬金術・魔術・超自然的存在省のエージェントとして世界を揺るがす難事件を解決しており、上位存在である機械仕掛けの”天使”にも一目を置かれている。
その恋人のシティは、ファトマよりもさらに南のヌビア出身だ。ヌビアはエジプトの支配下にあり、黒い肌の少数民族に向けられる奇異の目は少なくない。古代エジプトの神々を信奉するシティはどこか秘密めいた性格をしており、ファトマとは肌をかさねるほど親密で、情熱的な文句を交わしあう仲でありつつも、煙のように神出鬼没で捉えどころがない。しなやかで長い肢体は猫や雌獅子に例えられ、秘術めいた身体能力がシティのミステリアスな雰囲気を掻きたてる。
シティにはファトマに打ち明けられていない秘密がある。ネタバレになってしまうが、彼女は人間とジンの間にうまれたハーフジンなのだ。黒い鱗と赤い角と巨大な翼をもつジンのすがたは、ゆうに210cmを超える。人間とおなじく業が深いジンにもハーフ差別があり、シティの秘密めいた性格がこれらのインターセクショナリティに由来していることは想像に容易い。シティとファトマの間に引かれた一線は、物語がすすみ人間とジンの軋轢が増していくにつれ深い溝へと発展していく。
こうした異文化的設定に惹かれる百合好きも、そうでもない百合好きもいることだろう。だが安心してほしい。シティの秘密を知ったファトマの愛が廃れることはなく、戸惑いを越えて愛しさ、信頼へと変貌していく。終いにはなんと𝓚𝓲𝓼𝓼……によって互いのキズを癒せるようになるのだ。作中では何度も𝓚𝓲𝓼𝓼……によって力を分け与えるさまが描かれる。こうした描写は日本の百合作品でもよく目にするものであり、𝓚𝓲𝓼𝓼……を通じて異文化を理解することができるだろう。
物語はハリウッド映画のように加速する。なろう小説のようにコテコテの悪役令嬢や、魔術によって検閲されていた世界の真実―――ビッグベンがスチームパンクロボットであるとか―――が明るみに出ていき、世界の存続をかけたクライマックスが読者を待ち受ける。
巻末の解説によると『精霊を統べる者』は「デッド・ジン・ユニバース」と呼ばれるシリーズのなかの一冊であり、著者P・ジェリ・クラーク初の長編小説でもあるらしい。ファトマとシティの出会いなど複数の短編があるものの、本邦では翻訳されていない。もちろん『精霊を統べる者』単独でも支障なく読むことができたが、ふたりの過去に興味をもつのは百合好きとして自然なことだろう。今後ふたりの出逢いが日本語で読めることに期待したい。
『人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話』
『人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話』〈著者:入間人間 / イラスト:猫屋敷ぷしお〉は、往年の名作『安達としまむら』〈入間人間〉など数々の百合ライトノベルを手掛けてきた入間人間の、新規百合ライトノベル・シリーズ。現行1巻だが、本記事の大遅刻により現行2巻ですが……好評につき3巻まで刊行が予定されている。
タイトルそのまんまな作品なので詳細は後回しにして小話をします。
近年、東アジアで悪書が出回っている。
『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』〈NEXON Games〉という悪書である。
『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』は、2021年初頭に日本先行でサービス開始されたスマートフォン向けゲームで、天使の輪っかをもった少女たちが銃をたずさえ学校生活を送る、透明感あふれた青春物語が魅力の作品だ。
プレイヤーは「先生」として学園都市の事実上の政府「シャーレ」に就任し、少女たちの活躍を見守り、ときには助け、その絆を育んでいく。
リリース初期はメンテナンスに次ぐメンテナンスで、業績は大目に見てもよいとは言えなかった。しかし最先端を行くキャラクターデザイン、右肩上がりのシナリオ、ユーザーフレンドリーな制作陣などが口コミを呼び、2024年冬のコミックマーケット(C105)では歴代最多のサークル数を記録するまでに至った。名実ともに今を代表するコンテンツである。
『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』の物語や二次創作の傾向をひとことで説明するにあたって、業界人(?)からよくささやかれるワードが「エロゲ」だ。90年代から00年代に流行した、成人向けビジュアルノベル・ゲーム群を指向した単語で、宗教や哲学を引用した世界規模のボーイ・ミーツ・ガールをベースとしつつ、ときに破壊衝動やルサンチマンを包括する。「エロ」の名のとおり、男性主人公とヒロインの少女たちが恋に落ち、絆の発露として性的な接触がなされることが多い。
『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』の「先生」はあくまでも性別不明で、アプリの対象年齢も”国内では”7歳以上である。しかし「先生」はスピンオフやメディアミックスでは基本男性として描かれ、グローバル版アプリは16歳以上対象(Google Play曰く”セクシャル”)とされているように、作中でも二次創作でも「先生」とヒロインの生徒たちが恋人のように接近する描写がよくなされている。たとえば2024年年末に公開されたショート動画に顕著だが、ヒロインの生徒ひとりが「先生」の仕事場に詰めかけたうえで甘いひとときを送るシチュエーションは支持が強い。
「先生」はあくまでも「大人」であり、そうした生徒たちの接近を諌めることもあれば、むしろみずから進んで接近することもある。やや依存がちな生徒の求愛を躱しつつ、それでいて緊急時には「わたしのお姫様」だと喝破したこともあった(実際は逆の順序だが)。
特定の生徒への過度な干渉を避けつつも、その生徒の生命や社会的な立ち位置が危ぶまれるようであれば、身を粉にすることも厭わない。そう称すると、昨今のラブコメ作品で支持をあつめる典型的な主人公像のようでもある。所属組織「シャーレ」のキャラクターたちがキリストやユダをモチーフにしていたり、キリスト教を中心に作中でなんども宗教がオマージュされることから「先生」を「聖人」と呼ぶファンも見受けられる。そうして「先生」は模範的な「大人」のように努めながら、ときに一晩中生徒に寄り添い、ときに生徒の匂いを嗅ぎ、ときに生徒の足を舐め、ときに生徒に首輪をつけて動物のマネをさせている。
現実世界において、教職者が生徒と恋愛関係になればとうぜん処罰は免れない。大人と児童には金銭的自由や社会的経験の断絶があるにもかかわらず、教職者は児童とのつながりを獲得したうえで、恣意的な選別や迫害を可能とする構造をもち、その気になれば一対一の場に呼びだすこともできる。本来学業のための仕組みを悪用したとなれば、社会からの職場あるいは教職者全体の信用失墜のみならず、ルールの厳格化により本業の指導自体が難しくなる可能性がある。
また昨今では「大人と児童の”同意のある/危害のない”恋愛も存在する」といって恋愛可能性をさぐる意見も散見される。議論自体の必要性はともかく、そうした風潮が浸透してしまう事態には厳しい目を向けざるをえない。当事者たる大人がみずからを客観視して自制できるか疑わしく、むしろ悪意ある大人のほうが風潮を悪用する可能性が高い。なによりも児童当人が危険性を把握したうえで、みずからの関係性に正常な判断を下せるかどうか怪しい。もし児童世代に「大人と児童の真実の愛がある」という考えが浸透してしまった場合、きたる性的搾取および性暴力への警戒が脆弱になりうる懸念が拭えない。たとえ詭弁であったとしても「大人と児童の恋愛はありえない」と線引きをしてしまったほうが、正常な関係性が締め出されてしまう不利益より利益が上回ると考えられる。
『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』の「先生」は、特定生徒からの求愛、あるいは特定生徒への肩入れについて、やんわりとしか難色を示しておらず、作品全体の指向性およびファン層の受容態度は「先生」と生徒の恋愛をもてはやす傾向にある。『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』のファン層は10代20代と若年層に寄っており、こうした傾向は在学中であるファンの性的搾取および性暴力への警戒を脆弱化させる可能性が懸念される(ほんまか?)。また、現教職者のファンは生徒が「先生」へ想いを寄せるすがたに、生徒との恋愛可能性を感じてしまうかもしれない。事実『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』の受容を絶っているという現教職者のオタクも嘯かれたりしている。
小話終了。
長々と話し込んでしまったが、それらを念頭に置いて『人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話』を見てみよう。教職者と生徒の恋愛関係を書く倫理的悪さを本作はどう克服しているのだろうか。また、主人公たる人妻教師は教職者としての矜持を保てているのだろうか。
………………。
判決を後回しにして、まず仔細から述べる。
主人公で人妻教師・苺原樹。20代後半。美人。身長は160を超えない。夫との仲はよく、友人のようにじゃれ合うようすが散見されるものの、子どもがいる自分は想像できない。ある夜、遅くなった仕事帰りに、担任を受けもつ生徒・戸川凛のすがたを見かける。夜遊びはよくないという感情以前に、彼女が危ない目にあったりするのが、嫌。なぜか生徒指導の一貫で習慣になってしまったキャッチボール中も、なまめかしく彼女の肢体を値踏みしてしまう。特定生徒への肩入れはよくないのに、繋がれた手のままに惹かれていって、二日酔いに眩みながら目を覚ますとそこは彼女のベッドだった。ノーパンで教え子のベッドで夜を明かしてしまって、ダメダメ人間のダメ先生。そんな教師・苺原樹も倫理観だけは立派だ。立派だからこそ苦しんでしまう。
翻って、『人妻教師が教え子の女子高生にドはまりする話』の倫理観はすごい。生徒と連絡先を交換するときも警告が書かれ、生徒のおっぱいを揉めば「犯罪」と4回も警鐘を打つ。教職者は生徒に手を出してはいけない。あたりまえのことを再三十回にわたって書く。教師と生徒の恋とも友情ともつかない逢瀬を書いてグレーゾーンに留まるのではない。全力でアウトゾーン突っ込んでいって警告をもらう。これは間違いなのだと何度も強調する。
ベテラン百合作家・入間人間のバランス感覚はすごい。倫理的問題点を逐一きわだてる一方で、読者がつまづかないよう物語の各所はなめされている。夫婦仲は悪くない。二日酔いで朝帰りしてもおあいこ。戸川凛の母親は育児放棄。夫に先立たれてシングルマザーで女好き。むしろ女が好きな女しか周りにいない。戸川家には誰もいないし帰ってこない。
この作品には不機嫌な夫も威張りがちな上司もヒステリックな親も邪魔する間女も出てこない。主役のふたりは最初からほぼ相思相愛で、駆け引きという名の心理的ストレスは最低限におさめられる。あるとすれば苺原樹の倫理観だが、口だけ人間なのでずるずると関係を深めていく。ブレーキはこの女の脳についていない。
教師と教え子の恋愛百合作品はこの世にたくさんあって、そのほとんどが真面目な教師とミステリアスな教え子に設定されている。たいていは教え子が誘惑して、真面目なせんせーはどんどん道を踏み外していく。それはそれで悪くない。どちらかといえば、読者の倫理観と欲望をありのままに反映した関係性といえる。だから自然と魅力は教え子のほうに集中されていって、教師は飾り立てのない器になってしまう。入間人間はそれを許さない。この作品は「教え子の女子高生が人妻教師を誑かす話」ではない。物語の担い手、重心、パワーバランスは人妻教師にあるのだから、人妻教師がいちばん魅力的でなければならない。パワーあれ。こうしてブレーキは取っ払われた。
わたしははじめて教師の言葉で涙した。
入間人間先生ありがとう。苺原樹先生、最終巻で逮捕されてください。
コラム:ノーベル文学賞受賞「ハン・ガン」
既刊百合小説
韓国文学は最近になって隆盛してきたのだと、わたしはずっと勘違いしていた。
2024年10月、ノーベル文学賞に韓国の女性作家ハン・ガンが選ばれる。わたしが韓国のシスターフッドやクィアSFなどを読むにあたって、すごい作家だと聞きつつも運悪く縁のなかったひとだった。奇妙なめぐりあわせもあるもので、偶然わたしの上半期記事を読んでくれた方が、わたしの百合観を「ハン・ガンの小説を百合だと思って読んだことがあったので理解できた」と評したすぐあとのことだった。
元よりノーベル文学賞が大好きなので……(日本人は川端康成の百合小説を原語で読めるよろこびを噛みしめなければならない)、下半期記事はまずこのコラムの執筆からはじめることにした。ハン・ガンの著作だけでなく、韓国文学評論、韓国文学史、朝鮮半島情勢の書籍にまで手を出し、ハン・ガンを抜いたとしてもたくさんの本を読んだ。11月初頭に大まかなかたちができたので寝かせておいたのだが、今まさに年が明けようとしている(あと5分もない!)年の瀬にコラムの大部分を書き直すことを決めた。草稿の出来にずっと納得がいかず、年末ギリギリに出版された『ユリイカ2025年1月号 特集=ハン・ガン』を読み、うっかり見逃していたハン・ガンの百合っぽそうな小説『別れを告げない』を拝読して圧倒されたからだ。
近現代の韓国文学史を識るにあたって最も参考になったのが明石書房の『韓国文学を旅する60章』で、20世紀なかばを支える作家のほとんどが、検閲か消息不明になっていることに驚きを隠せない。1970年生まれのハン・ガンですら文学史の末尾に付け加えられているだけで、韓国文学が栄えていなかったのではなく、権力によって封をされていただけなのだと、痛いほどよくわかる書籍だった。
「痛み」「傷」。これはハン・ガンの著作の評論を読むと目にするワードだが、近現代の韓国文学史あるいは韓国史それ自体にも投げかけられることが多い。文学者たちが検閲や拉致によって言葉を奪われたように、何の罪もない市民たちも国の虐殺行為によって声を奪われていたからだ。そうした行為のほとんどが検閲によって何十年も闇に葬られ、解禁されはじめたのが1987年だというのだから驚くほかない。
ハン・ガンは光州(クァンジュ)に生まれ、9歳までの月日をすごした。そして一家がソウルに引っ越してから、わずか4ヶ月後の1980年5月に「光州事件」が起こる。前年に長らく軍事独裁を率いていた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺されたことで民主化デモの波が過熱し、危機感を抱いた軍が戒厳令を拡大したうえで市民を弾圧、多数の死傷者を出した事件である。軍事政権下の統制において、軍の愚行は大々的に報じられない。しかし光州の元教師であり作家でもあったハン・ガンの父 韓勝源(ハン・スンウォン)は、水面下で出版された書籍を入手していた。ハン・ガンは父のコレクションを通して見た。みずからの故郷の惨状を。破壊された顔を。負傷者に血を分けるため行列する人間たちを。小学生のこのときをもってハン・ガンなる作家が運命づけられる。
ふつうの書評なら、ここでハン・ガンの代表作を紹介するのだろう。光州事件を題材にした長編『少年が来る』〈著者:ハン・ガン / 翻訳:井出俊作〉が、900人あまりの証言を読みといたうえで書かれた小説であることを。ハン・ガンのこうした著作は、政府を糾弾するのではなく、犠牲になったひとびとをヒロイックに書くのではなく、その傷その痛みを語りつぐことに心血がそそがれているのだと。
毎日9時間、光州を語る証言に向きあう。すでに尽きようとしていた人間性への信頼を崩す経験のすえに、ハン・ガンの思想はひとりの日記をへて転換に至る。
現在が過去を助け、生者が死者を救うのではない。
過去が現在を助け、死者が生者を救う小説を。
ハン・ガンの作品は、現時点から過去を切りとり慈しむのとは違う。積みかさねられた過去が歩様となり、わたしたちの背中を押しあげるかたちで接続されていく。そのうねり、つながりを励起するためだけに言葉が綴られている。
ハン・ガンの著作における女性どうしの関係性を語る前に、氏と姉の出生について抑えておくと理解がスムーズだ。22歳の母親が、たったひとりで産んだ姉。わずか2時間しか生きられなかった稚児。息を引きとるまでずっと呼びかけられていた言葉。「死なないで、お願い」。ハン・ガンもまた母の体調不良によって中絶を計画されていた胎児だった。なぜ私ではなくあのひとが死なねばならなかったのか。そんな問いかけが通奏低音となり、氏が書きとめる女性関係はいずれも似通うテーマを携えている。
自己評価の低さを思わせる女性と、その尊敬や畏敬を向けられる女性(実の姉だったり、あるいは韓国の女性たちが年上の女性を慕って呼ぶ「オンニ」のような存在)。前者の目をとおして、後者の死、それにともなう喪失感や後悔が拾いあげられ、こぼれていく。
「詩的で実験的な文体」。小説はそれが何の物語なのかを手さぐるように語られる。「白いもの」の羅列、鳥やその死骸の描写、身にこびりついた宿痾が端緒を開き、時間軸が幾度となく前後するなかで「彼女」との記憶が追憶される。わたしたちがゆっくりと傷跡へ目を向けるように、「彼女」の不在が確かめられる。
わたしが聞きかじったところによると、ハン・ガンの女性どうしの関係性に焦点をあてた小説は以下の5作品が該当する(より詳しい方の補足があればうれしい)。
短編小説が3作品。
「京都、ファサード」〈著者:ハン・ガン / 翻訳:斎藤真理子〉
(アンソロジー『小説版 韓国・フェミニズム・日本』あるいは文庫版『あなたのことが知りたくて : 小説集 韓国・フェミニズム・日本』収録)「明るくなる前に」〈著者:ハン・ガン / 翻訳:斎藤真理子〉
(短編集『回復する人間』〈著者:ハン・ガン / 翻訳:斎藤真理子〉収録)「回復する人間」〈著者:ハン・ガン / 翻訳:斎藤真理子〉
(短編集『回復する人間』収録)
長編小説が2作品。
最後に未邦訳の長編小説が1作品ある。読めないので百合どうかは不明だが、友人の女性画家の死が脚色して伝えられるのを阻止するミステリ風の作品らしい(出版社サイトのあらすじがだいぶ詳しく書かれている)。斎藤真理子の訳によるとタイトルは『風が吹いている、行け』。
作家ひとりの作品を一覧するなら、まず長編小説から紹介して、次に短編集、末尾でアンソロジーなどへの収録にふれるのが、いちばん形式的で見慣れているはずだ。ここでは、作品のわかりやすさ、取っつきやすさ、あるいは「百合度」と呼ばれる謎の尺度からみて、この順番にならべるのが良さそうだと判断した。つまり「京都、ファサード」がもっともダイレクトに女性どうしの関係性を書いていて、『別れを告げない』がもっとも文学的に女性どうしの関係性を綴っている。未邦訳の『바람이 분다, 가라』だけは例外枠として、上に行くほどわかりやすく、下に行くほど懐が深い。
「京都、ファサード」は河出書房新社の文芸誌『文藝 2019年秋季号』の特集「韓国・フェミニズム・日本」に翻訳掲載されていた掌編小説だ。この特集は反響を呼び、雑誌は17年ぶりの重版をかさね、2冊にわかれて単行本化されている。
もとの雑誌はもちろんのこと、そこから派生した小説アンソロジー『小説版 韓国・フェミニズム・日本』にも「京都、ファサード」が収録されている。こちらは文庫版にもなっており、タイトルは『あなたのことが知りたくて : 小説集 韓国・フェミニズム・日本』となる。
「京都、ファサード」は今回紹介する著作のなかでもっとも短く、一貫した叙述や口語体がとっつきやすい掌編になっている。それでもハン・ガンのうつろう時間感覚や詩的な編纂は芳しく、過去と現在、韓国と京都を行き来するかたちで「あの人」の思い出が語られていく。後悔、懺悔、あるいは羞恥心。ファサード、それは心の門のようなものであり、一度も「あの人」を立ち入らせることなく死に別れてしまった愚かしさを嘆いている。自責の念はハン・ガンの女性間小説を代表する感情であり、以降の小説でも憂いが絶えることはない。
「明るくなる前に」「回復する人間」は短編集『回復する人間』巻頭で、隣あって収録されている。いずれも掌編より短編といった長さの小説であり、日常描写を暗示的に吊りあわせ、女性ふたりのパワーバランスを仄めかす語りが際立つ。ほとんどの人間が小説と聞いてイメージされる肌ざわりをしており、こちらでハン・ガンの文体に慣れるのも良いだろう。
「明るくなる前に」は過去に職場の同僚だった「ウニ姉さん」を想う女性の話だ。”今”というのが物語体験の序盤を意味するなら、職を離れた今でも交流がつづいている。ストイックで飾り立てない勤務態度が魅力だったウニ姉さんは、今では世界中を旅する自由な人間になった。抗がん剤治療に苦しむ自分と違って、ウニ姉さんは病とは無縁にみえる。それが今までの「私」の考えだった。
「回復する人間」では実姉妹の確執に焦点があてられる。美人で、賢くて、裕福な結婚生活を送る姉。一方妹の「あなた」は家族から期待もされず、伴侶となる人を探せるほどの魅力もない。姉はそんな「あなた」に嫉妬にしているのだという。物語は”今”から過去の「あなた」を見つめるようなかたちで語られ、「あなた」が無視し、蔑ろにしていた足首が爛れ、膨れ、白み、なぜ穴が空くまで放置したのだと医者に詰められるさまを並置する。姉はついこの間死んだ。ただ一言「傷」と呼べばいいだけなのに、「あなた」は自身が傷ついたことを受け止められずにいる。
作者みずから語るところによれば、「傷を回復されないよう祈ることは”亡き姉と共にいようとする、自分の過ちと痛みと悲しみから永遠に背かないでいようとする”行為」なのだという(孫引き。「「歴史的トラウマ」と文学 韓国でハン・ガンはどう読まれてきたか」〈金ヨンロン〉/『ユリイカ2025年1月号 特集=ハン・ガン』より。一次文献は「사랑이 아닌 다른 말로는 설명할 수 없는 - 한강과의 대화」〈キム・ヨンス〉/『창작과비평 2014년 가을호』)。傷とともにあろうとする意志は、ハン・ガンの著作の随所にみられるものであり、後述の『別れを告げない』にもつながっていく。
長編小説と短編小説が並置されると、多くの人は長編小説に注目してしまうかもしれない。しかしこれらのなかで『すべての、白いものたちの』がもっとも漠然とした作品だ。長編ではなくと中編と、小説ではなく詩篇と読んだほうがいいかもしれない。
生後2時間で息を引きとった実姉のことを想い、自分ではなく姉が生きていたらと想像する。いま目の前にある冬のワルシャワをみて姉は何を思うのか。あらすじだけ取りだすと簡素な物語だが、「白いもの」をはじめとするさまざまな質感が詩として降りしきる。まるで姉の目と手をとおして感じているかのように。
三章構成のうち、エッセイとして書かれた一章からも察せられるように、これはハン・ガンが実の姉――2時間しか生きられなかった姉――を悼んで書いた作品である。ハン・ガンのまなざし、ハン・ガンの生を譲られた姉のまなざしだけでなく、息子のまなざし、母や父の悲しみまでもが書き記される。合間にハン・ガン自身の写真も添えられた『すべての、白いものたちの』は、一種の家族アルバムのようでもある。華やかな思い出を慈しむのではなく、白黒の、喪に服すための家族アルバム。
『別れを告げない』は紹介したなかでもっとも長く、もっとも文学的な小説だ。2024年4月に翻訳出版されたため、上半期の補遺とも言える。
故郷の「光州事件」を題材にした『少年が来る』が刊行された2014年春。その後6月にある啓示的な夢を書き記した。そのときはまだどんな小説になるかわからず、何度も書いては消してを繰りかえしたそうだ。次第に題材を「光州事件」よりも古く、共産党弾圧という名目ゆえ未だ解明されていない虐殺「済州島四・三事件」(1948年4月~1949年5月)へと定め、かつてのように生存者の証言を読みはじめた。本作はその手探りの作業を辿るように、不明瞭な語りが集束する展開をみせる。
ハン・ガン自身の投影を受ける小説家の主人公・キョンハ。なにかを暗示するような夢と言葉。なんとか物語らしい話に差しかかると、芸術家の友人・インソンから急を要するメールが送られてくる。キョンハのみた夢からはじまって、とうの昔に中断を訴えたあのプロジェクト。インソンは諦めず作業に没頭するうちに、電動ノコギリで指を切り落としてしまったらしい。癒合したのち、三分に一回患部に針を刺さなければならない、それを三週間。痛みで気をうしないながら、何かに取り憑かれたように訴える。済州島のペットを見に行ってほしい、今から。キョンハが済州空港に降りたつと、亜熱帯の気候からは想像もできないほどの猛吹雪が吹き荒れていた。
雪。嵐。かつてインソンとともに済州島を訪れたあの日の思い出。インソンが忌み嫌っていた母の手。姉妹のように食卓に並んだあのとき。チガウ、チガウと鳴くペットの鳥。なんとかインソンの家へ向かおうとする、今のキョンハとは別のどこかで、なにかを訴えかけようとする、死と凍えだけは伝わる語り。暗闇と吹雪のなかで転がり落ち、キョンハすら生と死の境を行き来しはじめる。満身創痍でインソンの工房へとたどり着き、鳥かごへと手を伸ばしたとしても、羽毛に暖かさはなかった。
ただ寒く、取りとめもつかない物語。死んだはず鳥が羽ばたき、病院で施術を受けているはずのインソンがあらわれ、事態はより混乱を極めていく。まるで事故などなかったかのようにキョンハをもてなすインソン。次第にその口からあの虐殺が語られていく。たくさんの証言、たくさんの資料。たくさんの死者。やがてインソンの母へと話が移る。家族という関係がいとも容易く引き裂かれたあの時代。ちょっとした行き違いで銃弾を浴び、母の指を吸いながら絶命した8歳の叔母。拘束後、たらい回しにされ、三千の死体とともに坑道に埋められたかもしれない伯父。わずかな情報をかき集め、老体に鞭を打って伯父を探しつづけた母。あれだけ小さく弱くみえた母が収集した資料に空く、34年という空白。過去がふたりの背中へと手を伸ばし、ろうそくの火と呼応するように熱を帯びていく。
連れだって雪道を歩き、母の思いを受けとってからの日々を語るインソン。認知症の母は事あるごとにあの時代へと遡り、インソンを妹とも姉とも見て抱きしめ離さない。苦痛のなかで死を考えていたあの日、あなたのことをずっと考えていたのだと。あなたが本当にやってきて、あの夢を語ってくれたのだと。物語のすべてが一つながりになるなかで、インソンの灯火だけが消えようとする。
「別れを告げない」。それは「愛も哀悼も最後まで抱きしめていく決意」なのだと著者は語る。
ハン・ガンの女性間小説がいずれも同様のテーマを取りあげていることから、どれか一作品だけ読んでみようと思うひとが多数かもしれない。短編集『回復する人間』も捨てがたく、長編に自信があるなら『別れを告げない』もおすすめだ。
もしこの流れでアンソロジーを紹介するのが許されるのであれば、韓国の作家複数人が参加しているという点で「京都、ファサード」が収録されていた『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(『あなたのことが知りたくて : 小説集 韓国・フェミニズム・日本』)も推薦したい。
なぜなら冒頭のチョ・ナムジュの短編「離婚の妖精」〈著者:チョ・ナムジュ / 翻訳:小山内園子&すんみ〉自体がレズビアン小説だからだ。ひとりの娘を持つ妻どうしに恋愛的な感情が芽生え、夫に離婚を切りだして女4人の生活をスタートさせる。困惑する夫にレズビアン的な欲望は理解できないと突っぱねる、アンソロジー内でもシスターフッド色の強い作品だ。
チョ・ナムジュのフェミニズム小説『82年生まれ、キム・ジヨン』の衝撃は忘れがたい。ごく普通の韓国人女性がごく普通に受ける性差別を書いた本作は、韓国で100万部売れただけでなく日本でも共感を呼び、韓国文学への注目を集める鏑矢となった。そのため、わたしたちは韓国のシスターフッド小説を読む機会に恵まれており、類似のアンソロジー(たとえば『ヒョンナムオッパへ:韓国フェミニズム小説集』)などでもチョ・ナムジュが看板に据えられている。
さらに「追憶虫」〈著者:デュナ / 翻訳:斎藤真理子〉でも女性から女性への恋愛感情が書かれている。記憶を抽出しつぎの宿主に伝える寄生虫が発見された世界を描いたSF小説で、主人公はその「追憶虫」によってある隣人女性への愛が植え付けられたのを自覚する。冷静に状況を分析し、その愛情を嫌がらず受容する、落ちついた愛の物語だ。
著者のデュナは年齢性別人数不詳の仮面作家らしく、2024年現在ではこの『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(あるいは雑誌か文庫版)か『最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集』でしか翻訳されていない。
もし興味があるようであれば、好きな本を手にとってみてほしい。
本項目を執筆するにあたってハン・ガンのノーベル文学賞受賞スピーチを大いに参考にした。
いくつかの資料にも目をとおした。なかでも影響を受けた2冊を書きとめておく。
『日月潭の朱い花』
『日月潭の朱い花』〈青波杏〉は、女性史研究者・青波杏の長編小説2作目。
舞台は2013年の台湾。日本人で25歳、長澤サチコは日本語学校で教師として働いている。サチコと小学校がおなじだったという在日コリアン・朴ジュリが居候しはじめて一ヶ月が経ち、打ちとけたやりとりを交わしつつもお互いの素性は知らないままでいる。
ふたりの共同生活と交互に綴られていく、誰のものとも分からない日記。古書店でサチコが興味を示していたトランクを、ジュリは誕生日にプレゼントした。そのなかに秘められていた、1941年のある女学生の日記。サチコはそれよりも昨日の、誕生日の夜の、アルコール混じりのキスはどういう意図だったのだろうと気が気でならないのに、ジュリは日記の内容に思いのほか没頭していく。
女ふたりのルームシェア物語から一転、日常の謎を追いはじめる『日月潭の朱い花』。ジュリが日記にのめりこんで推理を働かせるのとは裏腹に、主人公のサチコはまるで興味を示さない。サチコが考えることといえばもっぱらジュリとの距離感、好きだった過去の女性への後悔などといったものであり、ほとんどは自分に問題がある(あった)と考えている。
自責思考は裏を返せば他人に深入りしない気質を意味する。ジュリがなぜ日記に興味津々なのか、なぜ再会した日に宿なしの荒んだ格好をしていたのか、そして今なお引きこもりなのか。ヘイトスピーチに心を痛めるジュリのまえで手を引いてしまうのはもちろん、ジュリが語学に堪能だったり、ガイドブックに書かれた店の言語対応状況を覚えていることなど、それとなく関わりのありそうな仕草を結びつけることもなく、サチコは詮索することがない。作中でもジュリから自分のことばかりと突っぱねられ、過去の想い人には都合のいい女だと思ってたとフラれている。
サチコの人生の障害は、両手で抱きかかえられる大きさにかぎられていた。なんらかの属性に紐づけられることのない、個人的な瑕疵として抱えることのできる悩み。人種というきわめて広大で、漠然としていて、不安定なレッテルのもとで虐げられてきた在日コリアンのジュリとは異なる、個人で解決可能にみえる悩み。過去の想い人たちから下された批判を反芻して、後悔を繰りかえす。その自己完結的な思考こそが各々から一線を引かれている原因であることに気づかず、今までとおなじようにジュリを失う寸前でようやく危機感をあらわにする。
ジュリが日記に入れ込んでいた理由は物語の最後に明かされるため、一見すると推理に必要なカギを、読者にだけ伏せる意地悪さを感じさせる。しかし『日月潭の朱い花』の主人公がサチコであり、その無関心さゆえの見落としと考えると腑に落ちるところがある。
日本人にとって戦争とは遠い昔話のように感じられるし、その語り手たちも天寿を全うしようとしている。しかし戦前戦中と植民地支配をうけ、戦後も不安定な情勢がつづいた朝鮮や台湾のひとびとにとって、戦争は今なお日常に鳴りをひそめており、戦時下の抑圧もまた記憶にあたらしく身近でありつづける。
在日コリアン問題は、日本人にとって縁が遠く感じられるよう同化をもって不可視化されてきた。在日コリアンの多くは日本名を名乗り、日本語を口にしている。その理由は差別を避けるためだったり、そもそもコリアンとしてのアイデンティティや言語を継承していないからだったりする。朝鮮学校卒業者は2000年代に入るまで大学受験資格を与えられていなかったし、今なお予算が削られつづけている。日本に在日コリアンたちが流入してから年月が経ち、3世、4世とルーツが希薄化することによりコミュニティも霧散していく。
ジュリはおそらく3世だが虐待を受け、日本から韓国へ戻った祖母のもとへと逃げこんでいた。祖母はかの虐殺「済州島四・三事件」によって日本へ流れついたひとであり、ジュリはその傷を伝え聞いている。
だからこそ、日記の女学生……桐島秋子と親友の朝鮮人の関係性にジュリは惹かれ、秋子が日記を最後に水没して行方不明になっているのを発見できた。秋子の日記が暗号文になっているのを発見したのは、ジュリと自殺コミュニティで生きのこり友達になった台湾人のリンだ。そうした世界の見え方の違いが、サチコと、ジュリやリンの間に薄い隔たりのような膜を形成している。
日記に書かれていた人間たちが今なお存命であることを知り、イタリアにまで詰めかけるうちに、秋子の真相も、サチコとジュリのすれ違いも事の重大さを増していく。ミステリとロマンスが大詰めを迎えるなかで、世界観から逸脱するかのような非日常がサチコたちを襲う。
サチコとジュリがわかりあうためには、ふたりを分かつ薄い膜が破られる必要があった。サチコが日常に潜む暴力に気づき、ジュリとおなじ位置に傷がつけられてはじめて、ふたりは世界を共有する人間だとお互いを認識することができる。
『日月潭の朱い花』に登場するキャラクターは少なくない。しかし物語結末にはそのほとんどが然るべきゴールを迎える。日記の女学生・桐島秋子と親友の朝鮮人も、シスターフッド的なきらめきを発してエピローグを飾る。難しいテーマをうまく織りこんだうえで、女性どうしの絆に昇華された小説だ。
青波杏は大学でジェンダー/フェミニズムを学び、卒論から博士論文まで取りくんだ遊郭研究も書籍化されている(『遊廓のストライキ: 女性たちの二十世紀・序説』)。小説すばる新人賞を受賞した小説一作目『楊花の歌』もおなじく女性同性愛、そして複雑なルーツをもつ東アジアとその女性たちを主軸に据えている。
言論系のYoutubeチャンネル「ポリタスTV」で、『日月潭の朱い花』の刊行に期して、青波杏とその30年来の友人であるエッセイスト・藤井セイラの対談が配信されている。研究者・日本語教師としての青葉杏、そして幼少期の人生体験など、サチコのキャラクター造形が作者自身の人生を大きく反映していることがわかる対談であり、『日月潭の朱い花』が青波杏の集大成ともいえるような作品だと理解できるだろう。
『花と夢』
(上半期の補遺)
『花と夢』〈著者:ツェリン・ヤンキー / 翻訳:星泉〉は、2024年4月18日に翻訳出版された、チベット自治区のナイトクラブで働く女性たちの連帯を描く、チベット自治区発のシスターフッド小説。原著タイトルは『མེ་ཏོག་དང་རྨི་ལམ།』で、2016年に出版された。2021年に英国PEN翻訳賞を受賞している。
本作は春秋社の新・海外文学シリーズ「アジア文芸ライブラリー」の第一作目となる。「アジア文芸ライブラリー」では、チベット自治区をはじめとして、台湾、インドネシア、マレーシアなど、今なお目を向けられずにいるアジア各国の文学が続けさまに翻訳されている。
翻訳者・星泉による解説によると、『花と夢』はチベット語で書かれたチベット自治区女性初の長編小説らしい。人気に火がついたのはコロナによるロックダウンが行われた2022年だそうで、インターネットにアップされた本作の朗読が多数の聴者をあつめたそうだ。日本語版刊行に向けたメッセージで著者は「チベット語を読めない人たちも『花と夢』の物語を全て聴くことができたのです」と語る。本作はチベット自治区の女性たちの貧困、性的被害、教育不足による搾取などを取りあつかっていることから、受容者たちが法律や権利に関心をもち、特に女性受容者らがみずからの身体を大切に思うようになったのだという。チベット自治区の非識字率は30%以上と中国のなかでも頭ひとつぬけて高く、女性の割合は男性の倍近くにのぼる。そうした背景を念頭に置くと、著者の語りうる想いがわずかでもうかがえてくる。
『花と夢』は章立ての小説で、娼館で働く4人の女性たちの源氏名をはじめとして、本名やその家族の名前なども見出しとして名付けられている。これは日本語翻訳時に原作者と交渉してつけられたものらしい。また原文では一文が長く会話も分けられていないそうだが、これも日本風に改訂された。
ともかく女性たちの源氏名が花の名前なことから、まるで吉屋信子の『花物語』のような印象を受ける。しかし『花と夢』という幻想的な作品名からは想像もできないほど、貧困層の女性たちに降りかかる暴力、搾取、差別があられもなく綴られている。
そうした行為に加担するのは直接性的暴行を加える男性だけではない。他ならぬ被害者であった女性たちもまた、生き延びてきたあの日を勲章のように思い、搾取の再生産に加担する。被害者でない女性たちは逆に、被害者たちの痛みや置かれている状況を理解できず、自己責任論によって虐げる。美人にうまれてよかったじゃないかと、女性を”可愛がる”の価値観を内包して、被害者たちを軽んじる。
被害者たちもまた自身の置かれた状況を理解できない。うまれた場所の貧しさゆえに、年端の行かない身で無給奉公させられても、良い場所に置いてもらえていると錯覚する。うまい話があると騙され、性暴力を受けるか、不平等な契約書にサインさせられる(あるいはその両方)。すぐに治療を受ければ大事にはならない病なのに、この世の終わりだと閉じこもり、高額な治療費や悪化する症状によって窮地に陥る。
登場人物たちがよく口にする観念が、仏教の輪廻転生と業報思想だ。今生で善行を積めば、恩が返ってくるだけでなく、来世でよい生を賜ることができる。逆に言えば、今自分の身に降りかかる不幸はすべて前世の行いか、あるいは今生の業からなる報いだ。こうした信仰は徳を積む行動をうながす一方で、みずからの不幸、立場を自己責任として当然視する枷にもなりかねない。それは本人の内面だけでなく、社会全体のまなざしに反映されている。
『花と夢』の女性間感情の中心となるのが、ナイトクラブ「ばら」のキャストとして働き、一坪しかない住まいをともにする4人の女性たちだ。そのなかでも同郷の友人であり、首都ラサで再会したドルカル(菜の花)とヤンゾム(ツツジ)の関係が、本作でもっとも濃い感情になる。ヤンゾムは裕福な家庭の奉公人として長く雇われていたが、機能不全家庭(中国の改革が前提にあるそうだ)の喧嘩に耐えられず、身の回りの品と貨幣数枚だけを手にして飛び出してきた。数日前に偶然再会したドルカルを頼り、その住まいに身を置かせてもらうようになる。
ドルカルも他のふたりもヤンゾムが働かず住まうことを邪険にあつかわない。それどころか労い励ましすらするが、奉仕精神の強いヤンゾムにとってタダ飯食らいは恥だった。内気な自分にナイトクラブのような仕事はできないからと職を探すが、姉代わりのドルカルは薄給できつい職場にまでやってきてヤンゾムを連れ帰っていく。ドルカルはたとえ職がなくともヤンゾムとなら草を食んで暮らしてもよいと心に決めており、ヤンゾムが苦しい思いをするのだけは嫌だと言って憚らない。せめてもの気分転換にとナイトクラブに連れ出すが、目を離した隙にヤンゾムは純潔を散らしてしまう。すべては福徳が足りなかったせいだとヤンゾムは結論づけ、正式なキャストとして、男性から金をむしり取る術を学んでいく。
ドルカルがある病を患ったことで、4人の生活は徐々に終わりを告げる。重い身体と心を引きずって病院に行き、予測された病名は梅毒だった。大きい病院で診察をうけてと女医に念押しされるが、すでに重度の梅毒が運命づけられたようにドルカルは打ちひしがれる。せめて弟の大学代だけは稼がねばと急くが、そうは言っても身体は動かない。悲観が無力感をうみ、病名が現実となる恐怖から家に引きこもるようになってしまう。きっと高額な医療費を請求されてしまうのだ。だから弟の学費だけは残してやらないと。でもブツブツに爛れた身体ではまともに働けなくて、病院に行ったらきっとお金がなくなって、弟の学費すら送れなくなって、でも黒ずんだ身体では働けなくて、病院に行ったらもう二度と……。
後がなくなったドルカルをみて、残りの3人もきっぱりとナイトクラブを辞める。ヤンゾムだけがドルカルの隣に残り、懸命に未来を見据えるよう声をかける。しかし医療制度は彼女たちを特別哀れんだりしない。ろくでもない仕事をした報い。危険な状態になるまで放置したのが悪い。医療費が足りないから薬を断った。かつての同居人から受けとった貴金属を売ろうとすると、商人から足元を見られ、セクハラを受ける。ヤンゾムがあちこち駆けずり途方に暮れるなか、ドルカルは命の終わりを悟る。
チベットについてわたしが知りうる知識はわずかしかない。たとえばチベット自治区は中国が武力によって併合した場所だとか、チベットの指導者ダライ・ラマはインドに亡命しているだとか、ダライ・ラマと相互に相手を任命するパンチェン・ラマの正統後継者が失踪して中国共産党が勝手に決めてるだとかそういう前提知識しかない。だから男性にくらべて女子の識字率が低い社会が、どれほど男尊女卑に寄っているのかも知らない。日本でもよく書かれている搾取の物語が、向こうではどれだけ貴重な情報なのかもわからない。これが語られ、多数のひとが聞き、人権や身体の大切さに気づく声が寄せられている。それだけが確かである。
訳者の解説によると『チベット女性詩集 現代チベットを代表する7人・27選』〈編著:海老原志穂〉には女性たちの状況をめぐるコラムが掲載されているそうなので、あわせて読んでおきたい。
『おばあちゃんのガールフレンド』
『おばあちゃんのガールフレンド』〈著者:台湾同志ホットライン協会 / 翻訳:小島あつ子〉は、2024年11月にサウザンブックスから翻訳出版された、台湾の中高年レズビアンたちのインタビュー・エッセイ集。原題は『阿媽的女朋友』で、台湾では2020年10月に出版されていた。
55歳から83歳まで(当時)のレズビアン17名、それぞれのライフヒストリーのみならず、「台湾同志ホットライン協会」内の「中高年LGBTワーキンググループ」の試み、そして1950年代から2000年代までの台湾におけるレズビアンのコミュニティ、スタイル、恋愛/結婚観の変遷、そして政治経済の流動と関連など、さまざまな観点から彼女たちを知れる書籍である。
年齢層が限定されているため、語り手たちの人生は似通ったところがいくつか認められる。たとえばほとんどのひとは、子どもの頃から男の子っぽい性格をしてズボンを穿き、成熟すると「T(”Tomboy”の略。男装のレズビアン)」と呼ばれるスタイルに扮する。
当時のレズビアンコミュニティは「T」と「P(婆子。ポーズ。女房役。女性らしいレズビアン)」に分かれることが多く、「T」たちが集う「Tバー」は交流の場として重要な役割を果たしていたようだ。90年代にこれらの「T/P」文化が異性愛規範だと批判され、「不分(ブーフェン)」という中性的なスタイルがうまれたらしい。これはあとに取りあげる『バトラー入門』でも確認される事象であり、ともに読むのも一興だろう。
『おばあちゃんのガールフレンド』でインタビューが掲載された語り手たちは「T」が大多数を占め、「P」と「不分」は数名しか該当しない。唯一の「P」がバイセクシャルであることや、多数の「T」がガールフレンドを結婚に送り出していること、Tバーに「P」が少なかったことを考えると、その偏りの背景がなんとなく察せられる。また「不分」の語り手のなかには異性と結婚したものどうしで関係を結ぶ女性もおり、相手がまだカミングアウトしていないことを含め、慎重に事を見極めていたさまが語られている。
ほかにも、学生時代は女の子と”仲良く”なることがあったが、「同性愛」なる概念が周知されていないため感情を判別することができなかった。異性間結婚の圧力のなかで、致し方なさ、生理的な違和感、あるいは社会的な安定など、様々な感情があった。インターネット技術やLGBT思想が浸透したときには既に、LGBTコミュニティに中高年の居場所がなかったなど、共通する体験は多い。
特に最後の中高年レズビアン当事者の居場所問題は『おばあちゃんのガールフレンド』(『阿媽的女朋友』)の企画、そして「中高年LGBTワーキンググループ」の試みに直結する悩みであり、複数の語り手に共通することから喫緊の課題だったことがうかがえる。
それでもなお語り手たちの人生経験は多様性に富んでおり、まさに「事実は小説より奇なり」を地で行くヒストリーがわたしたちを魅了する。
事故を装って女性をナンパするなど、生涯18人のガールフレンドと付き合った最高齢女性は冒頭から目を引き、さらにその娘が本企画の発起人だというのだから驚きだ。台湾で歌手として有名になり、当時レズビアンのロールモデルとして道を示した女性は、ヤクザの妻に手を出して火傷した。信頼する女性に金回りを預けたため持ち逃げされた話は複数人から打ち明けられ、養子として受け入れるはずだった姉の息子に、パートナーが手を出しすべてがご破産になった女性もいる。
学生時代の恋はどれもがいじらしく語られる。気になる子が話したがるあまりバスを何台も見送ったという女性。何度も気になる子たちの家にお泊りしてそのまま学校へ行ったという女性。40代になってから奇跡的に高校時代の恋人と再会し、関係が続いていると話す女性もいる。
その一方で、機会がないまま男性と結婚し、結婚生活に不満を抱きはじめてからアイデンティティに気づく語り手も少なくない。学生時代の恋は長続きせず、30代40代となんども出逢いと別れを繰りかえしている語り手たちをみると、中高年LGBT当事者たちをつなげる場やヒストリーを記す意義について実感が湧くことだろう。
『おばあちゃんのガールフレンド』物理書籍はAmazonなどでも入手可能だが、サウザンブックス社の公式通販であればpdf版も購入可能である。こうした書籍が企画され、日本語翻訳までされる機会はなかなかない(事実この企画の発端になった中高年ゲイのインタビュー集『虹色バス旅行:高齢者ゲイ12名の青春の思い出』は未邦訳)。ぜひ手にとってみてほしい。
サウザンブックス社はクラウドファンディングで書籍を翻訳出版する企業で、『おばあちゃんのガールフレンド』もクラウドファンディングによって刊行されたものだ。公式ホームページでは現在進行中または準備中のプロジェクトも一覧可能だ。
2022年10月には台湾の百合マンガ『綺譚花物語』〈作画:星期一回収日 / 原作:楊双子 / 翻訳:黒木夏兒〉も翻訳出版されている。こちらもぜひ。
サウザンブックス社ではなく中央公論新社の翻訳出版になるが、『綺譚花物語』原作者の楊双子が手がける百合小説『台湾漫遊鉄道のふたり』〈著者:楊双子 / 翻訳:三浦裕子〉が、2024年11月に「全米図書賞」翻訳部門を受賞した。全米図書賞のみならず米国の文学賞に台湾の小説が選ばれるのははじめてのことらしい。こちらも日本では2023年4月に刊行されている。わたしもおすすめします。
さらに脱線するが、一枚岩ではいかない台湾の同性愛事情を当事者22人のインタビューから考察した『台湾ホモナショナリズム 「誇らしい」同性婚と「よいクィア」をめぐる22人の語り』〈松田英亮〉も今年出版されている。トークイベントのレポートだけでも濃密な情報があり、台湾の状況をより深く知りたいなら目を通しておきたい。
『バトラー入門』
『バトラー入門』〈藤高和輝〉は、軽快な語り口から思想家ジュディス・バトラーの理論とその背景にせまる入門書。今回のこれ百合じゃなくない?枠。
「変態」といった意味合いの侮蔑語から一転、当事者たちが自己肯定的に使うようになった「Queer(クィア)」。同性愛だけでなくサディズム/マゾヒズムやトランスジェンダーなど「普通でないと見なされていた」多くの性的指向や性自認を包括する言葉だ。異性愛を「当たり前だと見なし」構築された社会/思想をとらえ、「男⇔女」「異性愛⇔同性愛」といった二元論を批判する。そういった思想を「クィア理論」と呼ぶ。
クィア理論の根源であり代表的文献とされる書籍は、ジュディス・バトラーが1990年に発表した著作『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』である。ではバトラーが「クィア理論」なる概念を提唱しはじめた人なのか……と合点しそうになるが、そうではない、と『バトラー入門』は制する。むしろバトラーは「クィア理論」なるもの知らず、他人に聞き返したエピソードを1994年のインタビューで話していたそうだ。
『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』出版とおなじく、1990年にテレサ・ド・ラウレティスという研究者が「クィア理論」なる名称を提唱しはじめた。奇しくもラウレティスとバトラーの思想には近いものがあり、以降クィア理論に関心をもつ人間たちがバトラーの著作を「代表的文献」として読むようになる。だからといって、ラウレティスとバトラーの脳内に偶然おなじ天啓が下ったとか、神通力でクィア理論に人があつまってきたとかそんな超常現象があったわけではない。そこには社会的背景という必然性があり、同時代に生きる人間たちの思考を一定方向へ向ける世論/運動があった。それは何で、どういった問題意識がひとびとを突き動かしていたのだろう。さきほどの「バトラー≠クィア理論の提唱者」のように、クィア理論やバトラーにまつわるちょっとした勘違いを正しつつ、その理論/思想が生まれなければならなかった源流をとらえる。これが『バトラー入門』がやろうとしていることだ。バトラーの書籍の読解や思想の噛みくだきではなく、時代の潮流をたどる趣がつよく、ポストモダンなど哲学思想の前提知識を必要としない。文体もまるで友人に話しかけるようなニュアンスであり、かなり取っつきやすい入門書になっている。
『バトラー入門』を本記事に掲載しようと考えたのは、他でもなくわたしの百合観および批評のスタイルが「クィア理論」をベースにしている点が大きい。それだけではなく、『バトラー入門』の触りとして解説されるブッチ/フェム論が非常に興味深かったからだ。
『バトラー入門』はまず「第一章 ブレイブ・ニュートン!」で、バトラーが書籍で言及したエスター・ニュートンとシャーリー・ウォルトンの解説から入る。エスター・ニュートンはブッチ・レズビアン(男性的なジェンダー表現を行うレズビアン)で、シャーリー・ウォルトンは”女性らしい”ヘテロセクシャル女性だそうだ(ちなみに女性的なジェンダー表現を行うレズビアンを”フェム”という)。
友人どうしのふたりは実験と称して性行為を行うが、エスターはシャーリーをうまく感じさせることができず、結果としてお通夜の状態になってしまう。はじめはシャーリーがストレート(身体的性と性自認が一致している異性愛者)だったので性行為が上手くいかなかったと思い込んでいたが、その後の会話でとある事実が判明する。シャーリーはストレートだが、ベッドの上で主導権を握りたいタイプ、すなわちトップ(攻め/タチ)だったのだ。
このエスターが受けた衝撃、つまり「ブッチ=トップ」で「フェム=ボトム(受け/ネコ)」という”常識”が覆される感覚は、エスターの思想に多大な影響をあたえた。『バトラー入門』はここから、エスターが少し前まで籍を置いていたレズビアン・フェミニズム周辺のいざこざに焦点をあてていく。
「家父長制」という性差別問題を原動力にしたラディカル・フェミニズムが、異性愛制度を前提に置いていることから、異性愛制度を疑うレズビアン・フェミニズムが生まれた。しかし「男っぽい女」というレズビアンへの偏見から、ベティ・フリーダンをはじめとする主流フェミニズムと対立する。それに対する反論として「レズビアン」が「女の中の女」と定義づけられることで政治的ワードになり、レズビアン・フェミニズムが唱える「レズビアン」と実際の女性同性愛者に溝がうまれる。「家父長制」を再生産しないためにトップ/ボトム概念やSM文化が批難され、当然ながらブッチ/フェムやバー文化も「消えるべき存在」として退けられる。本来すべての女性たちを姉妹とみなすはずのレズビアン・フェミニズムは、むしろ階級や人種の違いを浮き彫りにし、女性解放を目指すはずの教義が束縛を再生産する事態に陥ってしまう。結果としてレズビアン・フェミニズムは分裂し、エスターは袂を分かつこととなる。
「トップ/ボトム」というワードはもともとSM文化から来たもので、ちょうど80年代にレズビアン・コミュニティでも使用されるようになっていったらしい。エスターはシャーリーとの経験を通して、「ブッチ=トップ」「フェム=ボトム」というつながりに必然性がないことを悟り、ジェンダーや欲望、役割それらを切りはなす語彙を模索する。それはバトラーに受けつがれ、女に生まれることが「女になる」わけではなく、女であれば男性を性的対象にするわけではない、という「不連続性」が『バトラー入門』そしてバトラーの思想の根幹をなしていく。
女性同性愛を大々的に取りあげるのは第一章だけで、以降は「ジェンダー」なる概念、「わたしたち」「女性たち」という代名詞がもつ恣意的な淘汰、「インターセクショナリティ」、クィア理論の背景にあった運動などが解説される。その文面の合間合間で、当時のブッチ/フェム論やレズビアンへの姿勢などが触れられることもあった。
どちらかというとバトラーの解説というよりも社会の流れをおおまかに掴む書籍だが、それゆえにクィア理論の単純な解説とはちがった視点を提供してくれる一冊である。おすすめします。
【マンガ】
『死亡遊戯で飯を食う。』
『死亡遊戯で飯を食う。』〈作画:万歳寿大宴会 / 原作:鵜飼有志 / キャラクター原案:ねこめたる〉は、美少女とデスゲームを題材にしたライトノベルのコミカライズ。マンガはKADOKAWAの月刊誌「コンプエース」で連載されており、単行本は現行2巻まで刊行されている。
原作ライトノベルは「このライトノベルがすごい!」2024年版にて新作部門1位を獲得し、現行7巻まで刊行されている。また、TVアニメ化も決定した。
『死亡遊戯で飯を食う。』は「デスゲーム」と呼ばれるジャンルに該当するものの、ジャンルの定石から外れた設定が魅力となる作品だ。
本来デスゲームものの作品は長期的なゲームひとつをプレイするか、ひとつの閉鎖空間からの脱出、あるいは賞金獲得を目指して課題をクリアしていく形式をとる。しかし『死亡遊戯で飯を食う。』のデスゲームは一日か長くとも一週間程度で終わる規模のゲームが基本で、終了するたび”生きていれば”治療を施されたうえで解放される仕組みとなり、現代社会での生活パートも描写されていく。美少女をあつめてコスプレさせ、デスゲームに興じるすがたを鑑賞したい権力者が存続してきた現代日本を舞台としており、デスゲームで喪った手足を補填する闇技術者や、デスゲームの鬼役として”改良”された人間などに焦点があたることもある。
また、主人公・幽鬼(ゆうき)の動機も異質なものだ。
デスゲームに参加する一般的(?)な理由は金銭か、拉致、家族を人質に取られたなど、のっぴきならない事情からくるものが多い。消極的な参加理由で気乗りしないまま開始し、脱落者をみて気を引きしめるか発狂する。幽鬼はそんなヤワな少女ではない。彼女は金銭目的でも家族を人質に取られたのでもなく、望み望んでデスゲームに身を投じている。ではスリル依存症か快楽殺人鬼なのか。それも……たぶん、違う。幽鬼のような”プレイヤー”と殺人鬼は別のものとして何度も対比させられる(強いていえば小さくて弱そうな美少女をつついていじめる嗜虐趣味はちょっとある)。もっと言えば「飯を食う」ために参加しているのでもない。
幽鬼がデスゲームに参加している理由、それは「現代社会に馴染めない」という漠然とした意識からだった。初参加時は中卒で、生きてるのか死んでいるのかわからない状態だった彼女は、歴戦のプレイヤー・白士(はくし)に無理やり弟子にされ、次第に「デスゲームで99連勝する」という師の目標を引きつぐ意志まで見せるようになる。そんな彼女が生き抜くため通いはじめたのが夜間定時学校だった。人目の多い昼間に馴染むことができず、夜の世界に居場所を見つけるような「はぐれもの賛歌」。校内での活動はあまり際立って描かれないが、『死亡遊戯で飯を食う。』は一種の「夜間定時もの」だと称してもよい。
その表出とも呼べるのが、原作ライトノベル7巻の顛末だろう。原作ライトノベル7巻でデスゲームは端役に置かれ、もっぱら幽鬼が住まう地区の、女性暴走族チームの派閥争いに焦点があてられる。多種多様なルーツをもつ人間を、何も言わずに抱きとめる場所。昼の世界から振り落とされた自分と、似たような意識をもつコミュニティ。
『死亡遊戯で飯を食う。』で描かれる関係性について、ひとつ参照できそうな小説がある。児童文庫レーベル・青い鳥文庫から出版された百合児童小説『9時半までのシンデレラ』〈宮下恵茉〉だ。学校での人間関係や強権的な母親に気を揉む中学生の少女が、夜間に行ってはいけないと言われている広場に行き、小学校から学校に通っていないクラスメイトと出会う。彼女を見初め、導かれるうちに、夜間広場につどう居場所のない若者たちの意識を知っていく。
閉塞的な環境を飛び出して、師とあおげるような手に導かれ、夜の世界で生きる術を学ぶ。『死亡遊戯で飯を食う。』もまたこの師弟関係を重視している。幽鬼は白士を師に持ち、攻略回数が増えるにつれ幽鬼もまた弟子を持つようになる。世界の裏側で色香を放つ先達。知らない世界を識るこのひとならば自分を変えてくれるかもしれない。そんなロールモデルを求める想いが、デスゲームという歪な環境の各所で花開いていく。かつて「エス」と呼ばれた少女小説のように、師が弟子に影響をあたえ、弟子が師に影響をあたえていく。
デスゲームというジャンルから打って変わってジュブナイルな感情を湛える『死亡遊戯で飯を食う。』。原作ライトノベルでは人気イラストレーター・ねこめたるの肉感的なイラストが特徴的であり、それでいて熾烈なデスゲーム描写中はコスプレ美少女が見えてこない、文字媒体特有の欠点も抱えていた(実は活字を読んでいるときにみえるのは活字だけらしい)。
コミカライズではそうした欠点を補い、「コスプレ美少女」という強みを強調しつつ、絵柄の面でも系統を大きく変更している。原作ライトノベル担当のねこめたるが俗に「厚塗り」と総称される技法で立体感を全面に押しだし、なだらかに変化する肌色によって柔らかさを表現した絵柄だったのに対し、コミカライズ担当の万歳寿大宴会は肌色の変化を最低限におさえ、肉感や毛束を輪郭線によって印象づける絵柄となる。身体も細く、頭身も低くなり、後光をはじめとする装飾が散りばめられ、衣装には底知れないこだわりがみられる。
ねこめたるがアダルトな文脈の”少女”を描くのに対し、万歳寿大宴会は少女マンガにおける”少女”を描いているといえ、ゴシック・ロリータのイメージも擁するようになった(実際のところ最近の少女マンガは高頭身の作品に人気があり、表紙は透明水彩によるグラデーションを基調とするため、『恋せよまやかし天使ども』〈卯月ココ〉くらいしか類似しない可能性がある。どちらかというとマンガ/アニメ寄りのファッションイラストレーションの系譜が近いかも)。
こうした変化によって『死亡遊戯で飯を食う。』のイメージは、原作ライトノベルとコミカライズで大きく違えることとなる。2,30代男性向け市場のライトノベルから一転、ゴシック・ロリータの少女チックなテイストへ。作品の印象に小さくない影響をあたえるこの違いは、先述したジュブナイルな要素を顧みると、悪くない変更だったと感じる。
もとより『死亡遊戯で飯を食う。』はデスゲームジャンルのバイオレンスな傾向を低減した作品だ。幽鬼が消極的理由でも殺人衝動でもなく「自己実現」のため参加している部分にも表出している。また原作ライトノベルからある設定として、少女たちは開始時に「防腐処理」され、たとえケガで身体に穴が開こうとも血が流れることはない。まるでぬいぐるみのように白い綿が傷口を覆うのである。
(むしろ逆にグロくない?)こうした”毒抜き”は随所にも見られ、過度に露悪的な画面を廃し、あくまでも美少女としての画面映えを優先する傾向が、コミカライズ全体の画作りにあらわれている。もしこれがリアル寄りの絵柄だった場合、過度にグロテスクになるか、エロティックになることを避けられず、ちょうどいいバランスにおさめられているのではないだろうか。
これらは昨今の百合マンガに顕著なニーズ、すなわち画集的な趨勢を顧みる点で高評価といえる。なぜなら造形がよくて細密な毛束の女たちが顔を寄せあってると人間はうれしくなってしまうので……。モブキャラのデザインも異様なこだわりがあり、さらにうれしい(完全に趣味)。
こうした密度高めのデザインは作画コストが高く、TVアニメ化ではまた違うデザイン/絵柄に変更されるものと思われる。もしかすると原作ライトノベル、コミカライズ、TVアニメそれぞれで絵柄が違う作品になるかもしれない。わたしはかなりコミカライズの画面がすきです。よっておすすめします。
『ラブ・バレット』
『ラブ・バレット』〈inee〉は、KADOKAWAの月刊マンガ雑誌「コミックフラッパー」で連載されているキューピッド・百合マンガ。現行1巻まで。
校内の人間関係に精通し、一ヶ月で4組のカップルを成立させている高校生の桜田心陽(さくらだ こはる)。きょうも恋愛相談で詰め寄られ、勝ち気な幼なじみ・珠城秋(たまき あき)の助け舟で解放される。秋が自分を気づかう本当の理由。きっとふたりの時間が減ったからなのだと思ってた。突如として親友から向けられた恋心にくらべると、降りかかる鉄骨は微塵も足を竦ませない。大事な友達を突き飛ばし、薄らいでいく意識のなかでただ祈る。
子どもは恋することなく死ぬとキューピッドになるのだという。
成長が止まり、恋心は封じられ、人間からは認識されない。キューピッドの目的はひとつ。標的を射抜いて恋心を実らせ、カルマを溜めて人間に戻ること。
死後すぐにキューピッドとして目覚めるわけではない。まばたきひとつで迎えた5年の歳月が重くのしかかる。それもそのはず、キューピッド・コハルの最初の標的は、やり手の芸大生として称賛をあつめる21歳の珠城秋だった。
『ラブ・バレット』はとある経緯で注目をあつめ、「X(旧Twitter)」や英語圏のBBS「Reddit」などで話題になったマンガだ。支持のほとんどは英語圏から届いており、他ならぬ作者・ineeもまたアメリカ在住のマンガ家である。
しかし『ラブ・バレット』は現在日本語版しか刊行されておらず、作者SNSも日本語の発信が中心だった。”事”が起こるまえは日本人にしか人気がなかったのかというとそうではない。日本の百合好きにすら知名度が低く、7月に発売された1巻の売上不調から作品は打ちきりの危機に瀕していた(もとよりニッチな百合好きには一話から補足されていたが、Web版掲載サイトのカドコミやニコニコ静画では1巻発売後まで百合タグがつけられていなかったそうだ)。
『ラブ・バレット』が認知される発端となったのは、9月上旬に投稿された作中の見開きページ(上で添付した画像参照のこと)、そしてその打ちきりを危惧する9月中旬の告知マンガである。日本の百合作品に興味をもつ英語圏のYuriフォロワーたちが、”またしても”日本の百合マンガが打ちきられてしまうことを嘆き、日本語版しかない『ラブ・バレット』を買いささえる運動を呼びかけたのである。SNSやBBSでの拡散だけでなく、購入マニュアルまでもが作られ、大手通販や各地の日本マンガを輸入販売している書店では売りきれが続出した。
こうした”うねり”が生じた要因には、上旬に作者お気に入りの見開きページが高いインプレッションを記録していたこともあるだろう。
ただそれだけではなく、打ちきり危惧の告知マンガが投稿される数日前に、おなじく英語圏のYuriフォロワーに人気があった、日本の百合マンガ『スケバンと転校生』〈ふじちか〉が打ちきられたことも関連している。
「ユニークなYuri/GL作品が作られても、編集者や雑誌が宣伝しない。そうして打ちきられ、”Yuri/GLに人気がない”という風潮が強化されてしまう」。そうした危機感が英語圏のYuriフォロワーたちに連帯を生んでいる。
「編集者や雑誌が宣伝しない」という指摘の真偽はともかくとして、日本の百合出版事情にさまざまな問題点があるのは確かだ。
以下、『ラブ・バレット』の内容と関係がない小話が続きます。
近年、国内の大手書店のほとんどにはボーイズラブコーナーが備えつけられ、それなりの規模の書籍があつめられているのを目にする。これはボーイズラブを専門とするレーベル(掲載誌)が多数存在するからこそできる組分けであり、国内書誌情報一元管理データベース「JPRO 出版情報登録センター」がボーイズラブ専用のジャンルコードを用意していることからも、規模の大きさが推測できる(近年はWebマンガレーベルから直接物理単行本化されることも多いので一概には把握できないが、Fujisan.co.jpのBL物理雑誌一覧などを見てみると規模がわかりやすい。現行のボーイズラブ専門誌だけで10シリーズ以上ある。マジ?)。
一方で、よほど大規模か、ニッチな書店でなければ百合コーナーが区分けされているのを目にすることはない。これは国内の百合専門レーベルがごく僅かにしか存続していないからだ。ほぼ寡占状態の「コミック百合姫(一迅社)」を大黒柱とし、それ以外は「ひらり、コミックス(新書館)」や「LiLy Love(大洋図書。電子限定)」など年に数作品出版される規模のレーベルしかない。「BLIC-GL(クロスフォリオ出版)」など個人出版支援や、出資者を募って出版されている同人誌「ガレットワークス(ガレットワークス)」なども視野に入れることで枠組みを充実させることはできるが、これら”コミック”は電子だけに限定されている(「ガレット」をはじめとするガレットワークスの雑誌は物理書籍も頒布)。
つまり書店で百合コーナーを作るためには、百合専門レーベル外の、データベースでジャンル分けされていない出版物のなかから百合作品を選りすぐらなければならない。百合を公言している作品を個別で捕捉し、世間的には百合と呼ばれているが公言はしていない作品も考慮する。逆に百合を公言しているか百合と呼ばれていても賛否がわかれる作品があり、こうした書籍の選出を書店員の百合観に一任するしかない状態に陥っている。
そして百合専門でないレーベルの散逸具合も懸念材料のひとつだ。
Webマンガでは掲載誌という概念がなく、各出版社のWebマンガサイトでレーベルによる区分けがなされていることが多い。その垣根は雑誌の違いほど高くないが、レーベルごとの一覧や、関連作品のおすすめなどでゆるいつながりを形成している。レーベルごとに公式SNSアカウントが分かれていることが多く、広報で目当て以外の作品を目にする機会もあるはずだ。物理雑誌の場合はよりつながりが明確になり、目当てでない作品もとりあえず目を通すか、そうでなくともタイトルだけは目にすることだろう。
単純にレーベルや掲載誌がまとまるほど、ほかに乗じて百合作品を知る機会が増える。また基本的に同じようなテイストでまとめられるはずなので、レーベルや掲載誌を目にするだけでどういった百合なのか想定しやすくなる。逆に散逸すればするほど、何らかの拍子で見かけるか知人におすすめされるなどしなければ知る機会がなく、どういった百合作品なのか(そもそも百合かどうかも)わからず、手に取りづらくなる。
各々の百合観が違うことから、はっきりとした商業百合マンガ市場の全体像を掴むことはできない。わたしが2024年中にちまちま制作していた百合マンガ統計(※頓挫中)では、有志の2023年百合マンガデータベースを参照し混ぜたうえで、その基準に沿うよう私選で抜けを補填していた(そのため一般的に言うところの”広義の百合”傾向が強い)。個人出版系や短編集/アンソロジーを弾いたうえで、長期連載は記録に手間がかかることから、2023年に5巻より下の巻が出たシリーズだけを対象にしていたが、それでも410作品前後の母数になる。そこから無作為に200作品抽出したサンプルで統計を取っていた。
というわけで手元の少し偏ったデータでは、各出版社の分布は以下のようになる。
見ての通り、KADOKAWAが頭ひとつ抜けて多く、商業百合マンガ市場全体の25%前後を占める。次いで「まんがタイムきらら」系列を擁する芳文社が続き、「コミック百合姫」を抱える一迅社、講談社や集英社などが団子状に固まっている。無作為抽出ゆえ揺らぎはあるが、少なくとも「KADOKAWA>芳文社>それ以外」という並びは変わりそうにない。
注目したいのがKADOKAWAから出版されている作品のレーベル分布だ。
マンガ雑誌「月刊コミックキューン」が9作品と非常に多いが、月刊コミックキューンから2023年に単行本が発売された百合マンガのほとんどがサンプルに含まれており、上方向に偏った状態だといえる。また月刊コミックキューンは作品の入れ替わりが激しく、「年内に5巻以下が出た」という条件に該当しやすい。百合マンガの早期終了もめずらしくなく、2025年1月現在では男女ものの連載作品が増えており、現在では突出した数字が得られない可能性がある。一方でサンプルには無いものの急速に百合マンガを増やしている掲載誌として「電撃マオウ」がある(長期連載百合作品も多い。しかし電撃マオウは雑誌全体で40作品以上掲載されており、必ずしも百合一色というわけではない)。
「単行本のみ」はSNSでバズり連載を介すことなく直接単行本化された作品や、翻訳された海外コミックなどであり、個々に独立しているといえる。「カドコミ」はKADOKAWAが運営しKADOKAWAのマンガ作品を読むことができるマンガサイト/アプリ「カドコミ(旧:コミックウォーカー)」のオリジナル作品であり、これも独立色が強い。
これらは以下の芳文社や一迅社のまとまったレーベルと見比べると一目瞭然だろう。KADOKAWAは百合マンガを多数抱えるものの、レーベルが散逸しており、横のつながりが乏しい。グラフは用意しなかったが、講談社や集英社も同じような問題を抱えている。また、百合専門レーベルである一迅社のマンガ雑誌「コミック百合姫」が市場全体の5%前後にすぎないことも懸念を加速させる(コミック百合姫はアンソロジーもたびたび刊行しているので実際はほんの少しだけ多いはず。逆にまんがタイムきららは5巻以下の作品が多めなので、この括りがなければ少し数を減らすだろう)。
こうした問題に対し、マンガサイト「カドコミ」では「百合」タグを用意することで対策している。しかし『ラブ・バレット』が1巻発売後に「百合」タグを検討したように、その基準は編集者や作者などに委ねられているようだ。必ずしも掲載作品すべてを網羅出来ているわけではなく、一覧表記もほかタグやあらすじを確認できないことから利便性が良いとは言えない。
ふたたびボーイズラブに焦点をあてると、ポータルサイト「ちるちる」の利便性に驚かされる。ボーイズラブに関連するマーケティングやコンサルティング、イベント事業を担う「株式会社サンディアス」が2008年に設立したポータルサイトで、マンガや小説だけでなくドラマCDやゲーム、同人誌なども包括するボーイズラブ作品データベースや、関連ニュース/コラム、レビューや掲示板をはじめとするコミュニティスペースも完備されている。
作品データベースはユーザーの情報登録/修正を奨励しており、掲載されてない作品の掲載依頼からタグ情報の充実、レビューにまでポイント報酬を付与する姿勢を取っている。そのためボーイズラブ専門レーベルやボーイズラブを公言している作品だけでなく、それ以外の作品もある程度登録されているようだ。
そうしたシステムのおかげで作品タグも異様に充実しており、検索では攻め受けの特徴(年齢/容姿/性格)からプレイ内容、細かな設定(同級生、幼馴染み、片思い、敵対関係から共依存、身体障害まで)、トーン(あまあまやシリアスはわかるけど夜明け/黄昏ってなんですか?)まで指定して探すことが可能だ。
こうしたシステムがない2008年以前や海外でも百合/ガールズラブよりボーイズラブのほうが人気が高いことを考えると一意には言えないが、ボーイズラブの参入障壁の低さや検索性に寄与しているのは間違いないといえる(それゆえデータベースの権威性なるものもあったりするのだろう。たとえば攻め受けが前提になっているのでそのへんが不明瞭な作品は載ってないなと感じる。ボーイズラブの定義が”ちるちるに載っているか否か”で定着する懸念もある)。
このポータルサイトの百合版といえるのが「百合ナビ」だ。しかし「百合ナビ」はあくまでも個人が運営するメディアであり、その機能は小規模にとどまる。ちなみに2016年7月に開設された。
まずデータベースの登録は管理人・ふりっぺの基準に一任されており、当初はコミティアの百合同人誌をすべてチェックするなど精力的だったが、今は百合を公言している商業作品が中心となり規模縮小気味である。あくまでも百合マンガ重視で、ライトノベルはともかく文芸やドラマCD、ゲームには手を出していない。検索機能はβ版で更新が停止しており、作品ごとのジャンルわけ/タグづけはもちろん、ユーザーレビューや掲示板などのコミュニティスペースはない。百合マンガ総選挙と呼ばれる投票企画はここ数年停止しており、2024年末にひさしぶりに開催された。ときたまに作家へのインタビューや、商業マンガ作品自体の掲載も取りあつかっており、企業案件はそれなり受け入れている。
個人で運営されていることを考えると、十分すぎるほど充実していると言いたい。欠けた部分を補うように、自分なりのデータベースや検索システムを備えたサイトを運営しはじめる後発もいる。しかし個人の力には限界があり、企業に支えられたボーイズラブ・ポータルサイト「ちるちる」に比肩しうるほどの網羅性を有することはできない。こうした限界ゆえに個人運営の百合データベースは、誰しもが恋愛と分かりうる作品に集中しがちであり、『ラブ・バレット』のような一見恋愛に見えないような(※後述)作品は見落とされたり弾かれたりすることが多く、詳細なタグなどもないことから掲載されても埋もれがちである(「ちるちる」も男性どうしの一般的に恋愛ではない絆を描いたブロマンス作品は網羅されてないが、掲示板などで意見交換が活発なようだ)。
これは『ラブ・バレット』の購買運動後、例外的に執筆された百合ナビ管理人のレビューにもあらわれている。
ここから『ラブ・バレット』の内容の話に戻ろう。かなり冒頭のほうで「ニッチな百合好きには補足されていた」と書いたが、上記百合ナビレビューの引用にもあるように、『ラブ・バレット』の0話(事実上の1話。巻頭に掲載)はガンアクションを重視した構成になっている。わたしも0話から補足だけはしていたが、アクション重視の内容をみて、恋愛百合はあくまでサブ要素なのかと値踏みした記憶があった。
本項目の冒頭で軽くまとめたあらすじでは、生前のコハルの顛末から始めたが、これは0話の次の、1話から巻の終わりまでつづく、コハルと親友・珠城秋の別れの物語にふれたものだ。つまり0話と1話以降(巻の終わりまで)では話のトーンがおおきく変わるのである。わたしのように取りあえず初回だけつまむタイプの人間だと、1話以降の重厚な惜別百合を見逃すこととなる。事実、発売日に単行本を購入したものの、購買運動を目撃する9月中旬まで積読タワーに寝かせたままだった。そのため「へぇ~これみんな応援してるんだ~俺もう読んでるけど(※読んでない)いい作品だよね」みたいな後方彼氏面してたらしい。
0話のガンアクションにさほど百合的な良さを感じられないのは、おそらくまだキャラクターへの興味が涵養されてなかったからだろう。まずキューピッド対象となる女→女←男の幼なじみ三角関係(0話限り登場)があり、それを取りまく4人のキューピッドたちが、どの組みあわせで付きあわせるか悩むようすが描かれる。ここで関係性を深堀りされるのは目標となる生者たちで、キューピッドそれぞれの性格や信念などはまだうっすらとしかわかっていない。にもかかわらずキューピッドたちは銃火器を持ち出し争いはじめ、三角関係そっちのけで高い画力のバトルシーンが描写されていく。もしキューピッドたちの信念が滲むように描写されていれば手に汗握る展開だっただろう。しかし重きを置かれていた関係性は三角関係のほうなので、個々の性格や信念を把握するまでに至っていない。
おそらくこの物語のカギは、いかにキューピッドの感情と対象自身の選択を紐づけるかにかかっている。キューピッドが選択するのではない。対象の想い/迷いにキューピッドをシンクロさせ、キューピッドが対象の感情に感化されたうえで選択させられなければならない。そこのつながりが薄いままでは、ランダムに選択するのと変わりはないだろう(もちろん選択肢をどう選ぶかにキューピッドの性格を反映させる方法もある。たとえば0話はコハルの優柔不断や観察能力が反映されている。0話の発端が前任者のずさんな仕事にあったように、暴れん坊のチヨがデタラメに選ぶこともあるかもしれない)。
1話からはじまる、コハルと幼なじみの秋の惜別は格好の例である。多数の友人に囲まれ、充実したキャンパスライフを送っているようにみえる、大学3年生の珠城秋。周囲からたくさんの片思いを向けられているのは一目瞭然だった。しかし心は今でも自分をかばって死んだ親友に囚われている。もう解放されていいと秋本人が気づいていても、忘れてしまうことに罪悪感を覚えてしまう。
コハルはもはや選択していない。秋は何年もかけて考えつづけ、自分なりの答えを手にしている。それを打ちあけ、受けとめる人間がいた。コハルは秋の恋のためではなく、秋を心配する自分に終止符を撃つため引き金を引いた。
主人公・コハルの大一番に第一巻を捧げた『ラブ・バレット』。連載継続はほぼ確実なものと思われるが、この惜別百合に次ぐネタがあるのかどうか不安なところがある。個人的には、新人のコハルを守ろうとするカンナの想いに興味を惹かれています(生前のコハルのクラスメイトに髪型がそっくりな少女がいるので……)。
『ラブ・バレット』の購買運動は反響をよび、現行1巻にしてアニメ化してほしいマンガランキング2025にノミネートされている。買うか投票するか読め!
『カラフルアンチノミー』
『カラフルアンチノミー』〈シバタヒカリ〉は、祥伝社の月刊マンガ雑誌「FEEL YOUNG」で連載されているマッチングアプリ・シスターフッド・マンガ。現行1巻まで。
主人公・月岡文。30歳独身。老舗文具メーカーの企画部。流行に敏感なシゴデキ女子のグループに属するが、「おしゃれで自立した女性像」を志向するロールモデルに疲弊を隠せない。大人の女性にあこがれる一方で、令嬢ロマンス作品で甘やかされたい願望を満たしており、その趣味に後ろめたさを感じている。
会話の流れでついインストールさせられてしまったマッチングアプリ。「今度聞かせて」の声に負け、一回だけならとLIKEした王子似のイケメン。その正体は――。
イケメン女、BIG LOVE。
近年、2,30代の出会いの2割をマッチングアプリが占めている。アプリのシェアは群雄割拠で、異性/同性問わず恋人を探せるアプリや、友人まで探せるもの、結婚を視野にふくめるもの、あるいは女性かつ友達探し限定のアプリなど業態は多岐にわたる。一迅社の百合専門誌「コミック百合姫」は2021年に全編描き下ろしマンガで『マッチングアプリ百合アンソロジー』を刊行しており、YOASOBIが男と勘違いして女どうしマッチングするアニメーションMVを2024年下半期にリリースするなど、フィクションでもマッチングアプリが女性どうしの出会いの場として浸透しているようすが見てとれる。レズビアン向けのマッチングアプリで生徒と出会ってしまう完結マンガ『どっちにしろ、どつぼ』〈廣島ガウォ〉のほか、「男だと思ったら女だった」は百合ジャンルでも定番のアプローチであり、パパ活アプリで女性と出会ってしまうマンガ『あめとむち』〈あいそえる〉などが連載中である。
フランスの思想家ルネ・ジラールは人間の欲望を模倣と説き、「欲望の三角形」なるモデルを提唱した。欲望は自分自身からうまれるのではなく、欲望を媒介する他者を模倣することによって、対象への欲望が生じる。
月岡文が属するシゴデキ女子グループや、あこがれを持つ「自立した女性像」は、グループ内の他者や、成功者/インフルエンサーの審美眼に沿った欲望を媒介する。欲望の対象にふれ、身につけ、食し、体験したものを見せ、語る。これによって「洗練される」ことにより、自立した女性として眼差されることを目指す。ここでの欲望は他者の評価と非可分であり、けっして独立した、自分自身のものにはならない。
「自分磨き」や「自立」というワードでリコメンドされる物事のほとんどは、少なからず消費社会での社会的成功像にみずからを迎合させる要素を帯びる。みずからの手で稼ぎ、みずからの手で家事を行い、みずからの手でケアをすることが求められようとしている現代。本来余暇にすぎない個人的活動ですら労働のためのケア行為として取りこまれ、生産性アップや自己管理可能な自分を形成するためのツールとして称揚される。たとえば執着を捨て解脱に至ることを目的とするはずの「瞑想」は、みずからのストレスを取りのぞく手段「マインドフルネス」として宗教色を脱色され、資本主義社会に取りこまれたと経営学者ロナルド・パーサーは指摘している。
加速する消費社会に迎合できず疲弊するOLと、それをケアするキャラクターの関係性を描く作品はいくつかあり、アニメ化されたマンガ『デキる猫は今日も憂鬱』〈山田ヒツジ〉では家事に精通した黒猫にケアしてもらうことで、「デキる女性」として同性から思慕をあつめるOLが描かれていた。ほかにも百合ジャンル内外で「限界OL」と呼ばれる類型が数を増やしており、百合マンガ『限界OLさんは悪役令嬢さまに仕えたい』〈ネコ太郎〉は気配りを生産性が低いと評価された派遣社員が、異世界転生して悪役令嬢さまに重宝される関係性を描いている(詳細は拙記事「あの百合作品もすごい!2023年下半期」で取りあげた)。
月岡文は学生時代からつづくつながりと、他部署から「デキる女達」と称される企画部グループでしか交流を持っておらず、エコーチェンバー的な関係性のなかで閉塞感を覚えていた。そんな彼女がマッチングアプリを通して、普段なら交わらないような同性と関わりを持っていく。
いちばん最初に出会う女性・須良潤(すら うる)は風来坊な性格をしており、突然泣き出した月岡文を抱擁し、自立を目指すのではなく誰かに頼ることは逃げじゃないと説くイケメンだ。その一方で、月岡文が悩みを打ちあけられたのは、一時の関係性だからと推察する。須良潤は海外クルーズのコンシェルジュであり、誰とも関係が長続きしない性格だと自虐する彼女とは裏腹に、月岡文はこの関係性を一夜で終わらせたくないと感じた。だからマッチングアプリを通した「あたらしい自分の発見」を彼女に知ってもらおうとする。
(この世で信頼できるのはY字に腕枕組んで寝る女だけ!!!!)
その次にマッチングする36歳子持ち女性・五百木五十鈴(いおき いすず)もまた、月岡文の周囲には居なかった人間のひとりだ。洋画・洋ドラの趣味が一致し、ゆったりとした趣味語りを交わすふたりのメッセージ欄。「ウィズミー映画」なるコンテンツから「ウィズミーランド」なる遊園地へと話題が変遷し、初対面で遊園地へと遊びに行かないかと誘われてしまう。今までなら「断りづらいから」と外的要因から応えてしまいそうな誘いも、あたらしい自分を再構築したい自分自身の思いから前向きに応答する。
当日、想像以上にエネルギッシュな五百木五十鈴のウィズミー愛に圧倒されつつも、ついていこうとする月岡文。しかしそこで禁則事項を持ち出される。
訳ありな雰囲気を漂わせる初対面の他者との遊園地は、当然ながらギクシャクとした楽しみ方しかできない。子ども人気の強いマスコットを指差し固まる五百木五十鈴。パークの片隅でグズる子どもと親。家族に触れそうな話題になった瞬間、不自然に会話がストップする。そんな煩わしさに挫折し、こうなってしまった理由を五百木五十鈴はポツポツと語りはじめる。
『カラフルアンチノミー』は、他者を模倣し不可分になった欲望を見つめなおし、他者に左右されない自分自身の「好き」を構築していく物語だと言える。恋愛関係や結婚を前提にせず、社会的ステータスとしての人付きあいを想定しないマッチングアプリでの友達探しは、みずからの興味関心のままに「好き」を構築する象徴のようでもある。
だからこそ、子どものためにテーマパークを回らざるをえなくなったあの日の五百木五十鈴や、それの口直しとして言及を禁じたまま遊ぶ今のふたりは、「好き」を他者に左右されているに違いない。言及を禁じ、説明しないことで抜けおちた空白が逆に重くのしかかってしまうなら、むしろ積極的に言及し、相対化することで自分自身の「好き」の輪郭を確かめられるかもしれない。ふたりは口に蓋をせず、好き勝手に笑い、愚痴り、楽しさを言葉にすることで、自分自身の「好き」を見つめ、伝え、違うからこそお互いを理解しあっていく。そして最後には、最初に指を差し固まってしまったあのマスコット――五百木五十鈴の息子が執着し、母を苛立たせたマスコット――の服を、自分用と子ども用の違いはあれどお揃いで買い、日常へと戻っていく。
『カラフルアンチノミー』はマッチングアプリによって友情を形成していくマンガだ。しかし1巻の後半ではこれまで出会ったひとびとを集め、女子会のような繋がりを深めていく。これもまた近年のトレンドといえるシスターフッドの類型だろう。今後、流行に敏感な本作がどのような展開を見せるのか注目していきたい。
短評
『無力聖女と無能王女
~魔力ゼロで召喚された聖女の異世界救国記~』
『婚約者は、私の妹に恋をする』
『無力聖女と無能王女~魔力ゼロで召喚された聖女の異世界救国記~』〈玉崎たま〉は、一迅社の月刊誌「コミック百合姫」で連載中の異世界転生・百合マンガ。現行1巻。
高校中退でフリーター、恋人も友人もいない生活をつづける主人公・田村七夕(たむら・なな)。ある日突然、異世界へ聖女として召喚されるも、魔力ゼロと判定され、偽聖女と嘲りを受けてしまう。そんな七夕をかばう第一王女ルリアム・サンタマギアもまた、制御不可能な魔力によって白い目で見られていた。
ときおり魔力を放出してもらわなければ暴発する危険がある……。七夕との茶会途中に暴発の兆候がでたルリアム。意識が朦朧とするなかで七夕の体質に気づき、唇を触れあわせる。すると絶大な力が発現して――。
もしボーイズラブに精通している方であれば察するだろうが、これは「センチネルバース」と若干の類似がある。作品名ではなく、一次/二次創作問わず自由に使用可能なブループリント、世界設定のようなものだ。
百合ジャンルではあまり浸透していないものの、近年ボーイズラブジャンルではこうした「◯◯バース」と呼ばれる設定が隆盛を誇っている。もっとも有名なのは「オメガバース」だが、これは女性たちに課せられていた身体的/社会的な弱さを男性に転化させたニュアンスがあり、百合ジャンルと相性が悪いとは言い切れないものの、相乗効果に乏しい面が見受けられる。そのためオメガバースよりもほかの「◯◯バース」のほうが相性が良いのではないかと兼ねてから噂されていた。今回のセンチネルバースは好相性の筆頭格ともいえる。
センチネルバースでは人ごとに「センチネル/ガイド/ミュート」という組分けがなされている(性別というより単純な素質の差に近い)。
センチネルは五感のいずれか、あるいはすべてが鋭敏になっており、警察や反社会勢力に重宝されている。しかし能力を酷使すると疲労がたまり、ときおりガイドと呼ばれるひとびとにケアしてもらう必要がある(勘違いされがちだが、ガイドは精神的な結びつきがなくてもある程度センチネルをケアできる。そのため、社会的にガイドをあてがう制度が用意されていることが多い)。
センチネルは鋭すぎる感覚ゆえに精神のバランスを崩すと自らの能力を制御しきれなくなり、「ゾーンアウト」と呼ばれる消耗状態に陥ってしまう。訓練されたガイドでなければゾーンアウトをケアできないが、多くのセンチネルバース作品では主役たちの精神的な結びつきによって乗り越える、一種のハードル、シチュエーションとして描かれている。
『無力聖女と無能王女~魔力ゼロで召喚された聖女の異世界救国記~』でもこうしたゾーンアウト描写がある。1巻の後半、魔力が制御可能だと証明するテストで、ルリアムは不安によって魔力を暴走させてしまう。
五感と魔法という違いや、そもそも相方がいないと能力を使えない制限など、「センチネルバース」からアレンジされた点も多く見受けられる(そもそも制作者が「センチネルバース」を認知している前提の語り!?)。元はと言えば、五感や警察/裏社会など関係性の”肝”ではない部分に枝葉がついており、そうした枠組みを取っぱらってみると、能力バトルもので散逸される関係性に名前をつけたようなものなのかもしれない。
この詳察が玉砕するかどうかは今後の展開にかかっているらしいです。
*
『婚約者は、私の妹に恋をする』〈作画:ましろ / 原作:はなぶさ / キャラクター原案:宵マチ〉は、小説家になろうで連載されているタイムループ・令嬢ロマンス小説のコミカライズ。マンガは現行5巻。原作小説単行本は完結済み。
上位貴族の嫡男と婚約関係を結んだ伯爵令嬢・イリア。身分の違い、自身の恋心にあたうよう、ずっと努力を続けてきた。しかし婚約者・ソレイルの心はイリアの妹・シルビアへと注がれ、自身に向ける表情の違いを嫌でも意識してしまう。晴れて夫妻になったとしても歪な三角関係は変わらなかった。
ある日、シルビアが不慮の事故によって亡くなったと知らされ、ソレイルの顔にイリアへの疑い、怒りが弾ける。身に覚えがない証拠によって収監され、衰弱死を迎えたイリアが目覚めると、ソレイルにシルビアを紹介するあの日の茶会へと時が遡っていた。
『婚約者は、私の妹に恋をする』はいわゆる「ループもの」ではあるものの、小説家になろうのメジャー作品のように未来の記憶を活かして攻略する物語ではない。イリアがソレイルとシルビアの仲を邪魔しようとしても、辻褄をあわせるように予期せぬイベントが発生し、ふたりは惹かれあう。せめて愛する妹の死だけは避けようと根回ししたとしても、降って湧いた病がシルビアを蝕んでいく。まるで運命なる強制力が働いて、すべてを既定路線に留めようとするかのように、イリアは幾度となく体験した悲劇から逃れることができない。イリアの錯乱状態に呼応するように、物語の”時間”は支離滅裂になり、現在や過去の記憶が何ループ目のいつなのかわからない状態へと陥っていく。
そんな悲劇のなかでも変わらないものがある。イリアは理由もなく、間違いなく、妹のことを愛している。だからこそ、最愛の妹を恨んだ罪が、自身を終わらない絶望に戒めているのだと諦めさえしている。
実のところ『婚約者は、私の妹に恋をする』は過去に何度も記事に掲載しようとして取りやめた経緯がある。その姉妹の運命に(あるいは抜け殻のように描かれる姉と愛らしい妹のタッチの差に)惹かれつつも、物語のほとんどはイリアを冷遇する周囲と、イリアの自閉的な諦観によって進行されており、姉妹のやりとりは飾り程度のものでしかない。コミカライズ4巻までは、本作を百合目的で楽しむにはあと一押し足りないと考えていた。
しかし、2024年12月末に刊行されたコミカライズ5巻では、物語世界のありとあらゆる女どうしのLOVEが押し寄せ、愛を求める話へと変貌を遂げる。飾りでしかなかった妹が壇上へと押しあげられ、むしろ物語の中核なのだと声高に主張する。
端緒を切ったのはイリアと実母の関係だ。イリアとシルビアは異母姉妹で、シルビアの実母はごく一部の人間にしか知られていない。イリア母はシルビア母の従者であり、身代わりだった。隣国の姫であるシルビア母のために、みずからを伝令として姉妹の父と偽装結婚したのだ。イリアと血がつながっているのに、母子は身分違いの恋を隠し偽るものでしかない。隣国にいる姫の形見であり、姫のために守らなければならないシルビアのほうが愛おしくなるのは当然だった。だからシルビアが健康な身体を持てあまして敵対勢力の目に触れないように、愛のために毒を盛っていた。
毒の存在を知り、実母を問いつめるイリア。そこでイリアは実母に「貴女を愛せなかった」と打ち明けられてしまう。これがループの只中で何度も愛を奪われてきたイリアの牙城を崩壊させる。イリアはずっと無償の愛を、後ろめたさを感じることがない愛を欲していた。それは奪われたのではない。ただ与えられたことがないだけだった。
実母に見捨てられ、実父になじられ、悲観に暮れるイリア。心配になって見にきたシルビアだけが見捨てず、周囲の静止を振りきってまで姉に手を差しのべる。それなのに、さきほど実母にされたように、イリアは今まで感じていたシルビアへの想いを打ち明けてしまう。
しかし妹は。
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どんな姉妹愛で宇宙が侵されようとも大丈夫でいたい。
【アニメ】
『傘少女 ー精霊たちの物語ー』
『傘少女 ー精霊たちの物語ー』〈監督:瀋傑〉は中国で製作され、7月上旬に中国国内で公開された劇場版2Dアニメーション作品。原語タイトルは『伞少女』で、中国の漫画作品『伞少女梦谈』〈原作:左小翎 / 漫画:魏莹〉の前日譚となる。
日本国内では、中国映画の上映・プロモーションなどを手がける「面白映画」のプロジェクト「電影祭2024」により、9月から10月にかけて都市部のミニシアター数件で字幕版が上映されていた。
(下記のリンクは公開前の予告PV。bilibili動画)
もとより公開前のPVで美術に惹かれ(百合の波動を感じ)、なおかつ現地で新作映画を見漁っているマニア数人(百合専門家ではない。百合専門家とは?)が「百合だった」とコメントしていたことから、わたしも劇場へ駆けこんだ次第である。
『傘少女 ー精霊たちの物語ー』は人間とモノ、モノに宿る精霊のつながりを描いたアニメだ。由緒ある工芸品には精霊が宿り、人間に触れず認識されなくとも、主とともにあることを望み、主の願いを叶えようとする。ほとんどの人間は精霊のことを知らずに暮らしているが、本編では精霊を認識し、触れずとも言葉を交わす宝物修復職人が登場する。
ときにふたつに割れた黒翡翠があった。この黒翡翠をひとつずつあしらい、対となる国宝がふた振りつくられる。ひとつは「青唐傘」。平和だとか豊穣だとかをもたらす傘で、亡国の王女のもとで風に靡かれていた。もうひとつは「黒玉剣」といい、抜くだけで世に殺戮が起こるとされ、亡国の大将軍が携えていた。
「青唐傘」には青黛(チンダイ)という心優しい少女の精霊が宿り、どうやって認識されていたかはわからないが、王女と心をともにしていた様子が察せられる。しかし皇帝(大将軍?)が討たれたことで王女もまた行方をくらまし、青黛は託された最後の望み、去っていく彼女のすがただけは忘れまいと涙を堪えている。
持ち主をうしなった宝物は宮殿の蔵・秘宝閣に収められる。王女の望みはひとつ。「黒玉剣」に宿る精霊・忘帰(ワングィ)とともに支えあい、蔵のなかで平穏をすごすこと。姉妹のような出自であっても、ふたりの性格は真逆と言っていい。忘帰は青黛を冷たくあしらい、黒玉剣とともに秘宝閣を飛び出していく。
精霊を認識できる宝物修復職人・墨陽(モーヤン)とともに黒玉剣/忘帰を探す青黛。行く先々で人間と工芸品、そして精霊たちの営みを目撃し、墨陽の手業をとおしてモノが運ぶ想いを感じとっていく。だが、忘帰にもまた使命がある。大将軍のための復讐。他ならぬ青黛の主、亡国の王女もまた大将軍を貶めた派閥のひとりなのだと。離れていく忘帰を引き止められず、青黛は雨中にたたずむしかない。
『傘少女 ー精霊たちの物語ー』の精霊たちは、使命を果たせずにいると少しずつ消滅していくそうだ。青黛は忘帰を連れ帰らなければ消滅し、忘帰もまた大将軍のために復讐を遂げなければ消えていく。
つまり本作はこうした二律背反を抱えた殺伐百合なのだ。が、実際のところ一回見ただけなので、仔細があっているのか自信はない。殺伐百合が好きすぎて勝手に亡国の王女も復讐相手と認識してしまった説がある。
本作の魅力はやはりその映像美だろう。近年、圧倒的資金と人海戦術でクオリティアップが目覚ましい(にもかかわらず日本国内から無視されがちな)中国アニメの例にもれず、キービジュアルのように繊細で緻密な美術が終始途切れることなく続けられる。人物の顔などはやや不安定だが、背景美術に関しては国内でも比肩できる作品は限られるだろう。どちらかといえば「静」の美しさを湛えた作品であり、その糸一本一本のきらめきに注目しながら鑑賞を楽しんだ。中国の伝統的な舞踊を作中に取り入れるなど、伝統工芸品をテーマにした作品だけあって、美術への力の入れようは頷けるものがある。これらすべてがイメージボードではなく実際に動く画なのだと誰が信じられよう。
また『傘少女 ー精霊たちの物語ー』は人間とモノの共生、共同作業なる営みに目を向けた物語なため、それを破壊する行為についても並々ならぬ力が注がれていると感じた。「静」の美に比べるとアクションシーンは目立たないが、それでもなお周囲の工芸品を裂き、壊し、大胆に空間をつかった殺陣には迫力があり、動きのなかでもテーマ性を重視しているさまが見てとれる。
そうしたモノの息遣いを増しているのが音響であり、美術に次いで特筆すべき点となるだろう。人間がモノと語らう行為、旋律や舞すらも無形文化財として取り入れるだけあって、床を踏みしめる音にもこだわりがある。作中で主題として掲げられる黒玉剣がいななき、鈍くふるえる音がただならぬ緊張感を保つ。破壊されていく宝物、鏡のきしめく音が悲鳴のようにも聞こえてくる。金物の響きにこれほどこだわったアニメはなかなか見ず、美術と一貫したテーマ性が統制を取っている。
……などと弁を奮っているところからも察せられるだろうが、百合要素についてはあと一歩足りない惜しさがあったのは確かだ。そもそも抜け出した相方を追う、去っていった主人を想うといった都合上、女性どうしのやりとりは最低限に収まる。百合的に美味しい絵面はいくつかあった(異空間上で向きあいながら落下していくのは女の子の特権です!)が、これ周回したらキスしてるバージョンにあたったりしないかな、とヤキモチさせられた接近も少なくない。とはいえ純中華の百合はなかなか見ないし、美術の良さも相まって、目新しさという点でお釣りはくるレベルである(ちなみに墨陽は見目麗しい青年だが、おおよその百合作品にふさわしい漢を見せてくれる)。
中国でも『傘少女 ー精霊たちの物語ー』の批判点のほとんどは「物語の凡庸さ」に集中しており、舌の肥えた観客からは厳しい評価が下されている。どちらかというと予定調和感が拭えず、児童向け作品の劇場アニメ化(たとえば『らくだい魔女 フウカと闇の魔女』)のような印象があった。
上映後のアンケートでは「もし吹替版を制作するとしたら声優のキャスティングは誰がいいか」などといった項目があり、日本でふたたび見れる日を待ちたい(中国ではかなり早い段階でデジタル配信されている)。
より詳しい内容を知りたいひとは伊藤つくし氏のブログで詳細な感想文が書かれているので参照のこと。
『傘少女 ー精霊たちの物語ー』日本版公式サイト
『アーケイン』
『アーケイン』〈監督:パスカル・シャルー&アルノー・ドゥロル / アニメーション制作:Fortiche〉は、Netflixで独占配信されている3Dアニメーション作品。中国テンセント傘下の人気ゲーム『League of Legends』〈ライアットゲームズ〉の前日譚ではあるものの、元よりゲーム媒体でストーリーが進んでいるわけではないらしく、未プレイでも肩をならべて楽しむことができる。
各話45分ほど、各シーズン全9話構成で、シーズン1が2021年に、シーズン2が2024年11月に順次公開された(完結済み。シーズン通して全18話)。シーズン1の時点でアニー賞を9部門受賞、さらにプライムタイム・エミー賞を配信作品にしてはじめて受賞するなど、各所で名だたる評価を受けている。
『アーケイン』は個性豊かなキャラクターたちが信念のために抗い、派閥が枝分かれして交錯するストーリーを持ち味にしている。「主人公」として突出した人物がおらず、男女別け隔てなく「主役」として闘争に身を置き、かけがえない愛を授かることもある。近年でいうと『機動戦士ガンダム 水星の魔女』に近いプロットをしており、必ずしも女性どうしの関係に焦点があたりつづけるわけではない。物語の端緒は姉妹の仲違いからはじめられ、中核となる女性キャラクターふたりが色香を漂わせた関係になりはするものの、シーズン1はあくまで匂わせ程度に終わり、クィアベイティングではないかと批難を受けていた。
しかしその批難は杞憂に終わる。つづくシーズン2では関係性の行き着く先が描かれ、キスだけでなく性行為シーンすら官能的に表現されたのである。
シーズン2終了後のインタビューで、脚本家/ストーリー構成/プロデューサーのアマンダ・オーバートンは語る。「脚本家チームの最初の週から、ふたりの物語を作ることは決まっていた」「予定通り、ふたりは運命のカップルになった」。端役の色恋ではなく、多くのヒーローとヒロインが経験するような、喪失と決断が積みかさねられた果ての同性愛。11月の配信以降、”caitvi”というカップリング名を目にしなかった日はない。
『アーケイン』のなかで主立って描かれる女性間関係は”caitvi”だけではない。その片棒をかつぐ「ヴァイオレット(ヴァイ)」と、ヴィランとして暗躍するようになる「パウダー(ジンクス)」の関係性もまた濃密に描かれる。ふたりは血のつながった姉妹であり、家族だった。両親を亡くし、心優しい義父のもとで育てられたふたり。いつもヘマをして台無しにすることから「ジンクス」と呼ばれている妹を、姉御肌のヴァイは抱きしめ元気づけていた。
貧しいながらも団結しあう街、ダウンタウンの「ゾウン」。ある日ヴァイとパウダーをふくむ子どもの盗賊団が、上層の「ピルトーヴァー」でヘマをしてしまう。ほんのちょっとの手違いで事を荒立ててしまったパウダー。この小さな一石が大きな波紋になり、上層と下層を隔てていた諍いのダムが崩壊する。徐々に熱されていく争いのなかで不運が不運を呼び、またしても「ジンクス」が災禍を招く。気を動転させ、ほかならぬ実の妹を虐げてしまったヴァイ。あやまちに気づいたときにはもう遅かった。姉妹の仲違いは決定的になり、消息を絶ったまま数年が経過する。
『アーケイン』のストーリーはまさに「不運の連鎖」というほかない。誰しもが”家族”と呼べる大切にしていて、自分の隣だけに居てほしいと願う。だから今そのひとの隣にいる、対立派閥の誰かが許せない。それが愛するひとへの裏切りになり、より断絶を決定づける。汚名をすすごうとすると第三者が乱入し、さらに事が複雑になっていく。
そうして気付いたときにはもう、自分と愛するひとの間にはたくさんの傷と屍が横たわっている。まるでピルトーヴァーとゾウンをつなぐ橋のように、血塗られた歴史だけがお互いを縛りつける。
収監され何年も妹を探すことができなかったヴァイ。噂を手繰りよせて妹のもとへとたどりつくが、妹は裏社会のお尋ね者「ジンクス」に成り果てていた。また昔みたいに戻ろう。そんな呼びかけによって妹は引き裂かれる。おねえちゃんは「ジンクス」を愛してくれない。昔のわたしには戻れない。ヴァイを釈放しここまで手引きした、上層の箱入り娘で執行官のケイトリンにとって、ジンクスは危険人物にしかみえない。それは執行官によってたくさんの家族をうしなったジンクスにとってもおなじだった。あの女を引きわたさなければ一緒にいられない。ヴァイは揺れる。ヴァイはもう誰かを失いたくない。
2シーズンにわたってドロドロの三角関係を展開する『アーケイン』だが、物語の結末は女性たちの手を離れ、事が大きくなりすぎたせいで逆に三角関係だけが端に追いやられてしまった印象がある。発端は女性どうしの感情にあるものの、雪だるま式に話がでっかくなり世界の命運は男どうしの関係性に委ねられる。中年男性どうしでも『魔法少女まどか☆マギカ』になり、異空間で裸に光りながら額を寄せあい消滅してもいいらしいです。絵面が百合すぎます!
もとから世界トップクラスの評価だったが、シーズン2に入ってさらにアクションシーンが洗練された印象を受けた。アニメというよりゲーム風のエフェクトがうまく3Dに融和しており、最先端の表現をみた気持ちになれました。
そういうこともあり、どちらかというと女性と女性が争ってたりするのが好きなかたにおすすめです。レズビアンは複数人登場するし、ケイトリン×ヴァイの”caitvi”以外にもカップルが存在する。あと筋肉ムキムキの女がいっぱい出てくる。
真偽は不明だが中国版では女性どうしのキスシーン、性行為シーン、やたらと距離が近いシーンなどが検閲されており、一部映像に変更があるそうだ。中国共産党お墨付きのレズビアン・アニメを視聴せよ。
【ゲーム】
『茜色』
『茜色』〈忘雪社〉はSteamでリリースされた、百合ビジュアルノベル制作チーム「忘雪社」のデビュー作。現在簡体中国語のみ。12/25記事執筆中に公式日本語訳が実装された。本記事の内容は原文でプレイしたものベースに書いた。
まず『茜色』に驚かされるのはその好評率の高さだ。
近年、中国ではビジュアルノベルが人気を博しており、百合ジャンルに限定したとしても、Steam上には月2,3作品ほどのペースでリリースされている。その多くは新規のインディーズチームであり、キャラクターボイスや主題歌の有無などをはじめとする作りこみ、あるいはクオリティ、作風もバラけ、幅広い層が参加しているようすが見てとれる。
ゲーム管理から販売流通、コミュニティスペースまで手がけるWebサイト「Steam」には簡単なレビューシステムがあり、好評か不評かという二元的な評価とコメントが抱き合わされ、商品ページに直接掲載されている。レビューの件数や好評率などは全ユーザーに公開され、商品ページを開けばあらすじやPVなどとともにすぐ目につく位置に表示される。
国を問わずオリジナル百合ビジュアルノベル(あるいはオリジナル百合ゲーと大きく括ってもよい)のレビューは概ね500件から1000件までを天井とし、作品によっては100件を超えないことも珍しくない。好評率はまちまちで、中国のビジュアルノベル人気にともない舌の肥えたユーザーが多いためか、概ね80~90%の範囲か少し足を伸ばした範疇におさまると言ってもいいだろう。
そして、2024年9月なかばにリリースされた『茜色』のレビュー件数は2025年1月現在198件と中の中程度だが、好評率は99%、不評はたったの2件と驚くべき数字を誇っている。
わたしがレビューを投稿したのは10月末でレビュー総数は100件ほどだったが、それから11月末の165件に達するまで一切不評がつかないまま好評率100%を維持していた。これはボイスも主題歌もオリジナルBGMもなく、(類似作品のレビューと比較して)イラストの評価も高いとは言えない、インタラクティブなアドベンチャーのように凝った仕掛けもないビジュアルノベルとしては異例の数字である(むしろ「物語の面白さ」以外に期待させてしまう要素がないからこその高評価なのかもしれない。「絵”は”よかった」だとか「音楽”は”よかった」だとか邪な比較を人はしてしまう。この段落のように)。
では『茜色』の何がユーザーたちを惹きつけたのだろう。ごくシンプルな造りのビジュアルノベルにできることは多くない。「キャラクターの魅力」そしてそれを物語る「シナリオ」が全てである。
多くの百合作品がそうであるように、『茜色』もまたふたりの女子学生が主役を務める。
まず主観人物となるのが「宁桐雨(ニン・トンユゥ)」だ。黒く長い髪を垂らし、視線もどこか俯きがちで、小学校時代には既にまわりと打ち解けられない気質を悟っている。幸か不幸か彼女には小学校から中学校、高校から大学、修士からその先までをも共にする少女が居て、彼女の軽口に冷めた反応を返しつつも、そうして連れ添ってくれる恋人がいることに安心感と……いつか見捨てられるのではないかという恐れを抱いている。
そしてもうひとりが「余晓鑫(ユゥ・シャオシン)」だ。「米黄色(オフホワイト、ベージュ)」のポニーテールは地毛で、外国人の父が”いた”。文武ともに優秀で、クラスのみならず学年の中心人物として羨望の目をあつめている。人付きあいも率先してできるほうだが、宁桐雨(「小宁」「小鑫」と愛らしく呼びあうことがほとんど)と一緒にいるときだけ肩の力が抜け、恋人をからかって遊ぶ彼女の姿を目にすることができる。クラスメイトからすると我らが同志余晓鑫に一縷の迷いもなさそうに見えるが、進入禁止の屋上で黄昏れていたと風の噂に流れてくることもあっただろう。
こうした関係性を提供する作品群にとって、いかに主役に興味を持ってもらうかは永遠の課題だ。オリジナル作品によくある批判として、しばしば「二次創作と勘違いしている」といった声が投げかけられることがある。これは二次創作に慣れたクリエイターが、作り手も受け手も原作キャラクターへの愛を共有した土壌にこなれたあまりに、受け手にキャラクターへの愛が無い状態からはじまるオリジナル作品であっても、初っ端からキャラクター愛を前提にした寸劇を繰り出してしまうことへの批判である。
『茜色』の前半部は上記の問題に陥っているとも言えるし、そうでないとも言える。煮えきらない理由は『茜色』のシナリオが受け手をどこへ連れて行くのかわからないほど難解で、多層的な入れ子構造をなし、夢と現が見分けられない造りになっているからだ。やや冗長になるが、顛末を仔細に書くことで入り乱れた構造を再現したい。
まず冒頭はふたりの少女が夕暮れのバス車内で肩を寄せあっているシーンから始まる。しかし宁桐雨はうつらうつらとしていて、「彼女」がなんと言ったのか検討もつかないまま眠りに落ちてしまう。そうするうちに海へと投げ出され、星が縦横無尽に動きまわる星空を見上げている。砂浜へ流れつき、奇妙な劇場に入り、いくら歩いても着かず離れずの緞帳のまえで、誰ともわからない劇場支配人に主役を演じろと言われてしまう。
アイキャッチを挟んで、恋人どうしの宁桐雨と余晓鑫が修士課程を終えるころの話になる。高校を卒業するまで余晓鑫は優等生だったが、今となっては怠惰、遊び人もいいところであり、宁桐雨は虫の居所が悪い。しかしその憎まれ口をchu……と啄まれると一気にしおらしくなる。そんなおしどり夫婦の日常が展開されていく。どうやら余晓鑫はふたりの過去を小説にしたいらしく、その一部を宁桐雨へ渡して帰省していった。
小説を介して過去を思い起こす。ふたりはいつも一緒だったが、高校一年生のときだけはクラスが違ったのもあり疎遠だった。宁桐雨が勉学に励んだことで二年目に特進クラスで合流するが、クラスの人気者である余晓鑫に話しかけられないまま、孤立感と無力感に苛まれている。こうしてはじまった高校二年生の下りは前半部のほとんどを占め、係留地としてじっくり展開されることとなる。
とある弾みで余晓鑫とヨリを戻すことに成功し、ふたたび冗談ばかり垂れながすようになった親友に、悩まされつつも幸福を感じる宁桐雨。ここしばらく優等生の余晓鑫しか見ていなかったため、ほんとうに自分が余晓鑫に必要な人間なのかと迷うこともある。サボりに引きまわされるうちに、彼女が自分を唯一の友だと認めた記憶が蘇る。そしてある日、趣味の百合漫画を余晓鑫に見せてしまったことで、そういう妄想をするのかと余晓鑫にからかわれてしまう。宁桐雨は余晓鑫との関係が壊れることを恐れているのに、当の本人は思わせぶりに宁桐雨の気持ちを誘導する。そして卒業旅行の、寄せあったベッドのうえで、ふたりは恋人になった。
長い。中だるみを感じ、プレイ中は本当に好評率100%なのかと訝しんだものだ。しかし小説を読んでいる修士の時代に戻り、ふたりが触れがたくしている高校三年生のあの学習合宿の回顧にさしかかったあたりから、『茜色』の本領が発揮されていく。
夜。抜け出して、天文台を目指すふたり。突然、宁桐雨のとなりから余晓鑫が消える。劇場支配人がふたたび現れることで、プレイヤーは『茜色』があの不可解な冒頭から開始していることを思い出す。ふたたび修士時代に戻り、ふたりの小説をめくると、1ページぶんまるまる消されているのが目に入る。その次のページはすべての黒塗りだ。だが帰省から戻ってきた余晓鑫へと訴えかけようとすると、小説は何の変哲もない状態に戻ってしまう。ここに書かれていたのは何だったのだろう。過去に戻り、続きを思い出そうとすると、強い酩酊感が宁桐雨を襲う。いつものように薬に手を伸ばす。いつからか手探りでできるようになったそれを飲みこむ。いつも? 作中でそんな記述は今までなかった。一体「いつ」から?
宁桐雨は雨のなか立ちすくんでいる。傍らには叔母がいる。宁桐雨は大学を出て研究所で働いている。一人暮らしをしている。高校時代の同窓会で孤立している。名も知らぬかつての同級生に慰めを受けている。叔母だけが面倒を見てくれる。 何かが抜け落ちている。 一人暮らしをしている。あの劇場支配人とルームシェアをしている。傍らには叔母がいる。傍らには劇場支配人がいる。誰かが「小宁」と呼んでいる。誰が?
この変な味のパンは「彼女」が好きだったものだ。傍らにいる劇場支配人は鼻で笑って、「宁、こんなパンは誰も食べない」と棚に戻した。いつの間にか劇場支配人は「彼女」になって、恋人の好きなパンをなぜ棚に戻したのかと尋ねてくる。宁桐雨に答えることはできない。なぜ? 宁桐雨は小学校から中学校、高校から大学、修士からその先まで、誰とも打ち解けられないまま生きてきた。諦観。希望などなく、叔母だけが優しいまなざしを向けてくれる。でも叔母と生涯をともにすることだけは絶対に考えられない。なぜ? 宁桐雨に答えることはできない。可哀想なひとだと劇場支配人は笑う。
劇場支配人は舞台に釘づけになっている宁桐雨を小突く。「彼女」とすごす自身を振りかえり、夢みたいな話だと宁桐雨は肩をすくめる。劇場支配人はすべてを打ち明けたい気持ちに駆られるが、まだそのときではないと自省する。「これより先は自分の目で確かめさせるべきだ」と、劇場支配人は筆者を諌める。その通りだとわたしは頷く。
キャラクターたちにどうやって関心を持ってもらうか。それは簡単な話で、ふたりの掛けあいが得難く尊いものだと突きつけてやればよい。中だるみ、寸劇だと流し見つつも幸福に満ちあふれていたすべてが奪われ、困惑、強烈な飢餓がプレイヤーを襲う。これは新手の拷問なのではないかと訝しむほど、「彼女」が抜け落ちた宁桐雨は荒んでいる。どちらが本当の世界なのかわからないまま、真実と供給を求め、藁をも掴む気持ちでシナリオに齧りつくしかない。
『茜色』のように日常生活から一転、SFチックな超常現象を取り入れ修飾する作品は珍しくない。たとえば『茜色』制作者が参考にしたと語る『安達としまむら』〈入間人間〉や『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』〈ブシロード&ネルケプランニング〉などがそうだ。いずれも超常現象を日常生活の物理法則にあわせることなく、人智の及ばぬ存在として留め置いている。
しかし『茜色』はそうではない。この超常現象、人智の及ばぬ存在を、実に巧妙な手段で日常へと折りこみ収束させる。何層にもわたって展開された入れ子構造がパタパタと畳まれていき、現実世界の”理”にかなった物語へと収めてみせる。それ自体が、愛のなされた結果だというのだから驚くほかない。この納得感が『茜色』の好評率の一因になっているのは想像に容易い。
入れ子構造のなかで、すべてを悟った宁桐雨は決意を表明する。何があってもあの結末を回避するという決意。あの子を必ず助けるという決意。
物語は完成された人間を主役に据えることはない。主観人物はほかならぬ余晓鑫へとゆずられる。臆病で、卑屈で、不安定な少女。休むことなく勉強しなければ成績を維持できない凡才。母の威厳に怯えながらその弱さを見捨てられずにいる娘。宁桐雨が余晓鑫に見捨てられるのではないかと怯えていたように、余晓鑫もまた宁桐雨や母親に見捨てられる未来に怯えていた。優等生を演じつづけてきた余晓鑫は考える。優等生でない自分に魅力を感じる人間などいないのだろうと。
日本で生まれ育った人間からすると、『茜色』の学習環境はゆるやかな違和感をもって描かれている。机のうえに騒然と並べられた書籍、夜遅くまで教室にとどまり自習を強制される生徒たち、その監督を任され叱責される班長・余晓鑫。学校は都市部から離れた場所に建てられ、夜間送迎する保護者を前提としているようにみえる。こうした高校生の日常は制作者の実体験を反映しているのだという。
ひとり親家庭の余家において、母は母であると同時に父親でもあり、一家の主としてひとり娘の人生を失敗なきものに導いてやらねばならない。余晓鑫はその心情を理解しているからこそ離れられず、母に抗う気持ちを持てない。恋人である宁桐雨に憩いを求める気持ちとは裏腹に、みずからを卑下して一線を引こうとする自分がいる。
そんな状況を打破するのは、宁桐雨のちょっとした心がけだった。劇的な贖いなど必要なく、掛け違われていたボタンが正され、未来が分岐する。入れ子構造が収束し、なんてことない日常へと回帰する。
『茜色』のそのシナリオの完成度だけでなく、ふたりの親密な掛けあいもまた魅力のひとつとなる。キスシーンもたくさんあり、開幕から付きあっている百合作品の強みを感じることができた。ぜひプレイしてみてほしい……と言いたいが、公式日本語訳に難があり、地の文などは高品質に訳されている一方で、肝心の会話部分はぎこちなさを隠しきれない。とはいえわたしもろくに読めない中国語で複数回周回するほど面白かったのでなんとかなる可能性があります。
bilibiliでは開発後記(ネタバレあり)も公開されており、そちらも閲覧するとより理解が深まるとおもう。2025年旧正月にはDLCも公開されるそうだ。
『1000xRESIST』
『1000xRESIST』〈sunset visitor 斜陽過客〉は、アジア系カナダ人が多く在籍するアーティスト集団が制作したSF・3Dアドベンチャー・ゲーム。2024年5月にSteamとNintendo Switch(EN)でリリースされ、同年10月に公式日本語訳およびNintendo Switch(JP)版がリリースされた(その他の配信先はFellow Travellerのサイト参照)。
今からそう遠くない未来に、突如として地球に降り立った巨大生命体「占有者」。彼らに人類を滅ぼそうという害意はなく、それを意識する暇もなかった。ただ降り立つだけで疫病が人類を滅ぼしてしまったのだから。涙が止まらなくなりやがて絶命する病。何の変哲もない10代の少女・アイリスには免疫があった。
彼女が不死になって1000年後の地下シェルター「果樹園」。アイリスは自身のクローンをつくり、彼女と彼女のクローンだけの社会を構築する。クローンは「シスター」と呼ばれ、アイリスを「すべての母」と崇めた。シスターたちの望みはひとつ。列車の向こうで占有者に抗う母のために訓練を積み、お呼ばれによって母と肩をならべて戦うことだ。
シスターに個人名はない。シスターには特別な役職が六つあり、それぞれの役職にひとりずつ割り当てられる。役職が名前となり、その候補は「殻」と呼ばれている。
本作の主人公は特別な役職を与えられたばかりの「ウォッチャー」だ。その役目は他者と記憶を共有する「神経交信」によって、役職持ちのシスターとともに母の過去を追体験することだった。
かつて子どもたちが通った「学校」と呼ばれる機関、「父親」「男」あるいは「国」なるモノ、意味が形骸化した個体名……。生まれ育った「果樹園」とは似ても似つかない1000年前の社会。
ウォッチャーはそこではじめて「すべての母」の人となりを目撃する。香港からカナダなる国へ移民してきたアイリスとその家族。ルーツを同じくしアイリスに近づこうとする友人・ジャオ。アイリスの性格は慈愛を崇められていた「すべての母」とはほど遠い。アイリスはジャオを見捨てた。アイリスは父と母を見捨てた。アイリスは人類最後の砦を見捨てた。アイリスはクローンを罰した。アイリスは孤立していた。アイリスは狂っていた。
神経交信をかさねるたび、ウォッチャーとシスターたちの関係も変化していく。職務をはじめたばかりのころ、何よりも親友であり、お呼ばれしたばかりのフィクサーが神経交信中に侵入し、母への裏切りに同意を求めてきた。まだ母を信じていたウォッチャーは、フィクサーを反逆者として報告する。しかし母への不信感が強まれば強まるほど、親友を裁いてしまった罪悪感がウォッチャーを蝕んでいく。
神経交信は一種の密会だ。ウォッチャーの行為を褒め称えるシスターも、そうでないシスターもいる。「果樹園」はすべての母への信仰で束ねられてはいなかった。
やがてウォッチャーは決断する。ゲーム開始時のみならず、Steamのストアページを開いたときですら再生されるあのシーンへと辿りつく。
ゲームはまだ中盤に差し掛かったばかりだ。まだ結末には至らない。始まりですらないかもしれない。
『1000xRESIST』は「ゲーム」ではあるものの、銃で敵を倒したり、パズルを解いたりする作品ではない。会話中に選択肢が提示されることはあるが、応答するセリフが変わるだけで物語が分岐するようなこともない(マルチエンディングではあるが、過去の選択肢を参照しない)。本作は部分的に「ウォーキング・シミュレーター」と呼ばれるジャンルに分類される。3D空間を歩き、物語を目撃するだけ(もしくは物語すらなく美術を鑑賞するだけ)のゲームをそう呼ぶ。
「歩くだけ」というと素朴な印象を受けるし、余分な動作を必要とするビジュアルノベルのようにも聞こえる。しかし、だからこそ、このジャンルのゲームは「いかに物語るか」に芸術性が宿る。美術、カメラワーク、ライティングといったシネマティックな美しさはもちろんのこと、一人称視点でキャラクターの足跡をたどり、風景の変遷に目を配るだけでも物語は生じうる。ときには風景が一変するかもしれないし、床が抜けて異空間へと放り出されるかもしれない。何気ない風景を歩いてきたあと、振り返ってみると景色が豹変してるかもしれない。そうした意外性、前衛的表現によって高い評価を受けた作品もめずらしくない(たとえば「歩いて風景を鑑賞するうちに何かが起こる」というウォーキング・シミュレーターの要素を応用した『8番出口』〈KOTAKE CREATE〉など)。そのほとんどが言語化しえない、つまりプレイした人間にしか共有しえない「非言語的体験」を醸し出すことに注力されている。
近年ゲームが現代アートの文脈で語られるようになり、現代アート文脈のゲームイベントもよく開かれるようになってきた。特に「ウォーキング・シミュレーター」の、館規模の美術展示に足を踏み入れるような体験は、環境全体で表現を試みる、大規模化された現代アートとの親和性が高い。
ゲームスタジオ「sunset visitor 斜陽過客」を設立したRemy Siuは元より現代アートのクリエイターとして活動を続けてきた人間であり、現代音楽や舞台芸術をベースにゲーム的要素をプラスした作品を手掛けている(このへんがわかりやすい)。言うなれば『1000xRESIST』は現代アートの側からゲームに接近してきたような文脈を持つが、それでも物語は平易(?)で、説明不足というわけではないし、ゲームとしても極端に不親切な部分は(死ぬほど酔う「果樹園」の設計以外は)目立たない。たとえばゲーム中に突然「雨傘」をもつ人物がフラッシュバックしたり、傘それ自体が散乱したりするが、キャラクターの口からきちんと香港のデモ「雨傘運動」であることが明かされたりする。
『1000xRESIST』でもっともアート性を感じる部分。それは本作が物語を通して伝えようとしているメッセージ/テーマが何であるか――すなわち具体的にどのような”答え”を得てほしいのか――が不明瞭な点だ。これは決して物語が難解であることを意味しない。物語はわかりやすい「愛」「抵抗」の話だった。だがわたしたちは『1000xRESIST』から何を持ち帰ればよいのだろう? 持ち帰るべき「何か」を明示されない点が非常に現代アートらしいのだ。
「コンセプチュアルアート」と呼ばれる現代アートは、美しいかどうかよりもその作品に込められた思想/テーマ/観念を重視する。シンプルな事物を通じて、どういった視点で鑑賞するか、どういった問題を提起しているかを、鑑賞者自身に探させるのだ。多くは未だ未解決の問題(環境問題やマイノリティ差別、貧富の格差など)に照らして創造/読解される傾向にあり、問題意識それ自体を鑑賞者に認知してもらうことが目的だったりする(バンクシーの絵が落札された瞬間シュレッダーにかけられたのは記憶にあたらしい)。
『1000xRESIST』は愛の物語である。難しいことばっかり書いているが、恋愛感情ではないものの(1000年後の性差がない環境で”恋愛”なる構築物が存続しているのかわからないが)女性から女性への愛が頻繁に提示される作品である。母から娘へ、あるいは姉妹へ。死なせてしまったあの子へ。作中ではたくさんの愛が語りつくされる。しかし、だからこそ、愛していたからこそ、ちょっとした違いですれ違い、敵同士になってしまう。
『1000xRESIST』は抵抗の物語である。娘から母へ、母から祖母へ。遺伝子を同じくする姉妹へ。おなじ血を分けた家族だからこそ、受け入れられない境界線がある。たとえおなじ国から渡ってきたマイノリティだとしても。想いがダイレクトに伝わるからこそ、意見の相違が決定的になり、敵同士になってしまう。
まるで遺伝子にプログラムされたように、わたしたちは抵抗を止められない。象徴的な出来事が終盤に起こる。姉妹たちの派閥が細分化し、激化した抗争に終止符を打つため、「果樹園」全体で神経交信を行って、姉妹たちの過去をすべて共有するのだ。これによって相互に理解しあい、争いのない社会を実現しようと試みた。だが派閥のいがみあいは解消できず、銃弾が断絶を決定づける。
この「抵抗」の連鎖に『1000xRESIST』は”答え”を出していない。終始香港が引きあいに出されるが、賛同を募るような語りもなされていない。結末はインディーズ・ゲームらしくプレイヤーの手に委ねられるが、いずれも再建された世界を映し出すことはなく、断片だけが手渡されて終わる。
『1000xRESIST』が現代アートのクリエイターによって創られていることを考えると、おそらく持ち帰るべきは「答えの出ない問題」それ自体なのだろう。母と子が、おなじ国の人間が、あるいはただ人間どうしであるにもかかわらず、意見の違いで争いを起こしてしまうわたしたち。それは1000年続いてきた、これからも1000年続くであろう連鎖の渦中にある。その事実を目撃して、あなたはこれから何をするのか。ぜひプレイして「問題」を持ち帰っていってほしい。
(ホラーのような画面がいくつかあるが、ジャンプスケアはない。愛はたくさんあります)
『リルヤとナツカの純白な嘘』
『リルヤとナツカの純白な嘘』〈Frontwing〉は「百合×泣き×ミステリー」を標榜する全年齢向けビジュアルノベル・ゲーム。ダウンロード専用作品として、2024年7月末にSteam/DMM GAMES/DLsiteで配信開始された。
20歳でありながら子どもらしさを残すおてんば少女 空木夏夏(うつぎ なつか)と、15歳でありながら大人びた雰囲気をもつ盲目の車椅子画家 リルヤ・メリが、ふたりで女性たちの悩みを聞き、そのひとのための絵画を描く。安楽椅子×日常の謎×バディミステリとなる。
企画/シナリオを担当した浅生詠は、今までダークな成人向けビジュアルノベルを手がけてきたライターではあるものの、本作のファーストインプレッションは繊細さや透明感、あるいは主役ふたりの親密な掛けあいからくる朗らかさが目立つ。しかし浅生詠は「次回百合ゲーを作る機会があるかはわからない」という理由から「恋愛、家族愛、友情、打算、愛憎、シスターフッドなど、自分が書きたい女性同士の関係」をすべて盛り込んだと話し、美しく愛おしい関係性から憎悪や嫉妬がうずまく関係性まで、実に多種多様なカタチを『リルヤとナツカの純白な嘘』に詰め込んでくれた。もし氏のファンであれば、過去作でみられた浅生詠のダークさを本作でも感じられることだろう。
「だろう」とすっぽけた表現をするのは、わたし自身が浅生詠の手がけた作品をプレイする機会に恵まれなかったためである。聞くところによると、氏は哲学的なテーマに対し精力的に取りくみ、そのシナリオの魅力は過去作品の人気からみても折り紙付きだといえる(たとえば成人向けビジュアルノベル『euphoria』など)。その一方で、テーマを重視するあまり肝心の物語が辻褄合わせや消化不良になってしまう特徴があると小耳に挟んだ。たしかに『リルヤとナツカの純白な嘘』でも駆け足や生煮えな部分は否めない。そうした欠点はわたし自身Steamレビューでも書いており、事実この記事でも本作自体を載せるか、短評で軽く触れるにとどめるか、あるいは載せないかで何度も逡巡を繰り返した。
しかしそうした欠点を補ってあまりあるほど、メッセージ性や関係性の量と質に魅力のある作品なのは間違いない。『リルヤとナツカの純白な嘘』を見逃すのは全百合好きにとって損なのではないでしょうか。そのためこうして本記事で大々的に取り上げ、皆さんに知っていただくため弁舌を尽くす次第でございます……。
皆さんに知っていただくため……とは言うが、『リルヤとナツカの純白な嘘』は快活だが多層的な語りを採用しており、メタファーや言い換えが多くメッセージを捉えることが非常にむずかしい。これを解きほぐすには物語の詳細分析、引用が必須であり、未プレイ者より既プレイ者向けの批評文になってしまう、というかそうなってしまった。でもこの記事をここまで読んでくださっている方々はそういうチグハグなレビューを求めているのだとおもう(ほんまか?)。対戦よろしくおねがいします。
『リルヤとナツカの純白な嘘』は、心に悩みを抱えた依頼人の話を聞き、夏夏が依頼人の足跡をたどり語ることで、リルヤが依頼人の世界を変える絵画を描く。これをルーチンとして繰り返していくミステリ作品である。
まるで探偵のような画業は、リルヤが夏夏と出会うまえから続けられている。リルヤは聡明で、さらに世界を股にかける優秀なリサーチャーが裏方として控えているため、夏夏の助けは必要ないように思える。
なぜリルヤは夏夏の目を借りなければならなかったのか。それは「盲人だから」の一言では収まりきらない哲学として、さまざまなモチーフを通して語られていく。
さきほども述べたように『リルヤとナツカの純白な嘘』は女性同性愛を多分に含む。そのため主役であるリルヤ・メリと空木夏夏が恋仲なのではないかと期待する百合好きもいることだろう。しかしふたりには恋愛感情がないと夏夏から明言されており、いわゆる形式的な恋愛の枠組みに入る関係性ではない。
とはいえふたりの距離はとにかく近い。精神的にも肉体的にも近い。というかキスシーンすらあり、それは近年の百合作品よろしく相手の唇による甘美な窒息を描いている。ただしふだんから相互に肉体的な接触をよくするほうで、そのときは官能的な情がないことを考えると、これは美人の顔が迫ってくるとたじろぐ普遍的な反応であり、あとなんか女性同性愛者らに囲まれながらキスしろとコールを浴びせられていた点を考慮すると致し方ない点がある。女子校のノリ。
わたしが7月に投稿したSteamレビューでは、この関係性を恋と呼ぶのではなく「翼」と称している。これはふたりが心身一体であることを意味しない。むしろそうした同一化を否定する物語であり、ふたりは別々の存在で、別々の世界を旅しながら、お互いを帰る場所だと認識しあっている。互いに持ちあった世界を語り、語りを通じて相手の世界を旅しあう。比翼連理とは常に寄りそい同じ根をもつ番のこと意味するが、リルヤと夏夏は互いに独立した番である。
日常生活において、夏夏はリルヤの身の回りの世話をしている。リルヤの家に住み込み、調理、掃除などの家事からリルヤの入浴まで付き添い、リルヤと生活をともにしている。なるほど、盲目で車椅子生活のリルヤは介助のために夏夏を雇っているのだな……と合点するのはまだ早い。なぜならリルヤは自分ひとりで日常生活を行えるだけでなく、住居にさまざまなセンサーを張りめぐらせ、異常がないか確認するヘルパーも住まわせているからだ。むしろ夏夏を雇う際に、誰かに身の回りの世話をさせるのは非合理的だと言いきった。
では、夏夏が無理をいうか、弱みでも握ってリルヤの世話をさせてもらっているのかというと、それも違う。そもそも夏夏は善性の塊のような少女で、リルヤは弱みを見抜かれるような人間ではない。
この関係性において先に相手を必要としたのは間違いなくリルヤである。リルヤはある目的に合致する人間を探しており、夏夏のWebラジオを通して適性を見抜き、己の眼前に手繰りよせた。
リルヤの目的、約束。あるいは望み、願いと言ってもよい。それは一昨年亡くなった祖母の絵を完成させることである。祖母は少女時代に袂を分かった女性がいて、祖母はとうの昔にそのひとを赦したのに、そのひとは自らを赦すことができないでいる。「”明日”を送ってほしい」。そのひとは祖母に乞う。リルヤとおなじく画家であった祖母は「明日」と思わしきものを描くが、それは送り返され、祖母の手によって黒に塗りつぶされたまま、描き手を喪って久しい。
リルヤは視力を失うまえ、「神の目」で世界を見ていた。それは複雑な世界をそのまま捉え、リルヤはその通りになぞるだけで、人を絶句させる絵を描くことができた。リルヤという自我を通すことなく、世界をそのまま写し取り、他人に伝える。不可能だと周囲の人間たちは言う。
人間たちは必要とする世界しか見ることができない。『リルヤとナツカの純白な嘘』はそう定義づける。十全な世界を前にして、ひとびとは自我――連続した「過去」――をかざし、その形を理解しているのだという。それは世界本来からかけ離れた形をしている。
なぜ必要なものしか見えないのか。これはわたしたちが物理的に光をとらえる仕組みについて思い出すと理解しやすい。
光は重ねると白くなっていく加法混色であり、重ねれば重ねるほど情報量が増え、少なければ少ないほど無に近づいていく。世界におけるもっとも身近で強力な光は太陽光であり、これは非常に情報量が多く、無害から有害なものまでさまざまな光を携えている。世界における物体はこれらの光の一部を吸収し、残りを反射、あるいは透過する。そして人間に必要な光だけを視神経は捉える(赤外線や紫外線から得られる情報は人間に優位をもたらさなかったため、切り捨てられた)。その範疇でみた情報量の差が世界の色や輪郭を形づくる。
逆説的に言えば、人間は情報量を削ぎ落とさなければ世界を認識できない。情報量の多い光に人間の目や脳は――ひいては肉体すら――耐えることができない。人間には生得的に情報量を絞り、整頓し、理解できる状態にとどめようとする指向性、欲求、機能がそなわっている。
世界を受けとり、理解する機能のことを『リルヤとナツカの純白な嘘』では「花瓶」と称している。さまざまな感情、情動、愛は「花」として湛えられ、トラウマは「花瓶」それ自体に「傷」をつける。歪んだ「花瓶」では十分な「花」を携えることはできない。
さきほど「十全な世界を前にして、ひとびとは自我――連続した”過去”――をかざし、その形を読み取っている」と書いたが、これも「花瓶」の機能のひとつだ。「花瓶」は世界を切り取り、受けとった事象をプールする。その事象が世界を切り取る手札のひとつとなり、「花瓶」を成長させる。もし「傷」が「花瓶」の首を締めすぎれば、あたらしい「花」を受けとることはできない。偏った「花瓶」は世界をゆがめて切り取り、曲解された過去がひとびとを戒める。
また上記の引用では、「傷」による視野狭窄は人間の注目を「傷」のある部分に惹きつけて起こる(「傷」を中心として世界の外縁が欠けていく)ように思える。しかし『リルヤとナツカの純白な嘘』では逆に、「傷」の原因そのものが見えなくなってしまった状態のほうが多い。作中キャラたちは記憶喪失や回避行動によって原因を避ける。そのため、物語の進行とともに原因を確かめ、「花瓶」を磨き認識することが必要になっていく。
ではどうすれば「花瓶」を刷新し、今までとは違う世界を認識することができるのか。それはひとえに「花」によって達成されうる。
「花」は感情、情動、愛によって「花瓶」に湛えられる。リルヤの祖母は「花」が世界を塗り替える絵の具になると語り、それによって絵を描いていた。祖母が残した黒のカンヴァスは「無」をあらわしているのではない。光は加法混色で、重ねることで白くなり情報量を増すが、色はその逆だ。その黒は幾重にも感情が折り重ねられている。
「花」は絵の具に変わり、世界を塗り替えるだけでなく、感情、情動、愛を伝え、相手の「花瓶」に「花」を手向けることができる。これこそがリルヤの持たないもの、リルヤが必要としているものだ。
リルヤは今まで「神の目」で世界を見通すことができた。「花瓶」を必要とすることなく世界を切り取り、世界そのものを描くことができた。そのため「花瓶」が磨かれず、空のまま光が途絶え、光のない――すなわち色だけが頼りの――空間に閉ざされた。色において、白とは虚無である。
本項の冒頭で、リルヤには優秀なリサーチャーがいると書いた。リサーチャーは情報を集め、リルヤに伝えることができる。しかしこれは感情、情動、愛を伴わないものだ。これだけでは相手の「花瓶」――世界の捉え方――を変えることはできない。
もっともわかりやすいのは、リルヤが夏夏を雇うときの面接試験だ。まるでかぐや姫のように、リルヤは夏夏に難題を出し、とあるモノを持ってこさせようとした。それがどういうお題だったのかは本編に譲るとして、夏夏の語り方に注目してほしい。
これは感情、情動、愛を伴わない伝え方(実際のところ視覚障がい者向けに説明するのは一朝一夕でできることではない)。
そして続くセリフが「花瓶」によって世界を捉えた伝え方だ。
これが夏夏の「花瓶」の力だ。雪の降るビーチという特異な世界を前にして、よりミクロな生態を想像し語ってみせる。これによって「花」が相手に手渡され、相手の世界の捉え方を変化させる。
それだけではない。この面接においてリルヤは盲目であることを事前に夏夏へ伝えていなかった。にもかかわらず、夏夏はリルヤが視覚障がい者だと見抜き、過不足なく情報を切り取った説明と叙情的な語りをわけて聞かせてみせた。夏夏の卓越した観察力、情報処理能力、そして豊かな想像力と、それを伝えるコミュニケーション能力の高さがうかがえる一幕である。
「花瓶」が世界を捉え、切り取り、それを「花」として加工する。「花」とは世界を塗り替える絵の具であり、芸術、「語り」あるいは「物語」だと言ってもよい。「話す」という刹那的な行為だけでなく、「書く/描く」などの行為によって記録され、作り手を離れて存続する。夏夏の「花」はWebラジオという媒体で伝達され、それがリルヤの耳に届いてふたりを引き合わせた。こうして記された「花」が受け手の感情を動かし、「花瓶」に加わることで世界の捉え方を変質させる。
リルヤが真実よりも「花」を重要視する理由。それはそもそもリルヤに絵を依頼する人間たちが、各々の「花瓶」を通して過去を歪曲しているからだ。過去にあんなことが起きたのは自分のせいで、きっと相手はこう思っているに違いない。だから自分はずっと喪に服さなければならない。ゆがんだ「花瓶」が「物語」をでっちあげ、過去へ縛りつけるとともに、「明日」の自分を戒めている。
わたしたちは考えの凝り固まった人間――特に対立意見を持った人間――に出会うと、つい観察/エビデンスに基づいた真実を投げかけて、その考えを是正しようとしてしまう。しかし真実ではひとの考えを変えることはできない。
近年、SNSがコミュニケーションツールとして発展し、さまざまな立場、属性から発せられた言葉が、開かれた空間を行き来しあうようになった。ひとびとがSNSに熱中すればするほど、サービスを提供する企業にとっては望ましい。派閥に与する過激発言はユーザーへと”おすすめ”され、誰かが”見た”と話す対立派閥の愚行はまたたく間に拡散される。当然、対立派閥の意見も目にする機会が増えるのだが、それが真実らしくあったとしてもひとびとの意見を変えることはない。むしろ逆に、対立意見に対し反論を固めることでより自らの思想を強めていくのだという(手法に疑問が呈されているがこのへんの論文とか。「バックファイア効果」や「認知的不協和」で検索してみてもよい)。
これらに対して有効な手段が「物語」だ。非物語的メッセージより物語化されたメッセージのほうが受け手の意見を変えさせる効果が高い。これは多数の研究から裏付けが取られている。ただし「物語」の力は善悪を問わない。ひとびとの意見を善い方向へ傾けることも、特定集団へのヘイトや陰謀論へ走らせることもできる。
『リルヤとナツカの純白な嘘』でも「物語」は両極の力を発揮する。傷だらけの「花瓶」は世界をゆがめる。あんなことをした自分は罰を受けるのも当然の存在だ、あんなことがあったのだから復讐は正当だ、などと偏った「物語」が自他を苛む。「花瓶」を通すことでしか世界を認識できないなら、たとえ真実をぶつけようとも認識が変わることはない。むしろ無理やり真実に直面させてしまえば、トラウマを刺激し殻に籠もらせてしまうかもしれない(リルヤは真実をあぶり出す白の光を「絶望」と喩え、目を眩ませてしまうと懸念を示している)。
だからこそリルヤは「花」を絵の具にすることでひとびとの「花瓶」を刷新し、過去から解き放とうとする。誰かに言い聞かせられるのではなく、みずからの解釈能力自体を刷新することで、世界の捉え方を好転させる。その「花」は夏夏が依頼人たちの話しを聞き、おなじ風景を辿って語ってみせた「語り」から得られたものだ。
これが『リルヤとナツカの純白な嘘』で行われようとしている行為である。「物語」によって戒められている心を、「物語」によって浄化する。この二面性の拮抗、「語り」の両極性は、作品のほかの部分でも徹底されている。
まずひとつは『リルヤとナツカの純白な嘘』のジャンルに関わる「語り」の功罪だ。元来、「ミステリ」なるジャンルはとある問題を抱えている。探偵は証拠をあつめ、犯人のトリック/動機を推測し、公の前で断罪する。このとき探偵の提示した推理が、真実であるかどうか作中で証明できない。なぜならば、とある証拠が見つかったからといって、それが無実の人間を陥れるための真犯人の策略ではないと言い切ることはできないし、その証拠と食いちがう未発見の証拠がないとはかぎらないからだ。探偵が真犯人を見逃したり、偶然証拠が偏ったせいで、真実らしい推理……でっちあげられた「物語」によって、無実の人間が犯人に仕立てあげられてしまった可能性を否定できない。
現実でも似たような問題がある。「虚偽自白」という偽の「物語」が真実をゆがめ、無実の一市民を何十年も拘束していた案件が日本でも複数確認されている。はじめから取調官が被疑者こそ犯人だと食ってかかり、無実の訴えをすべて蔑ろにすることで、すっかり気力をなくした被疑者が取調官の誘導によって真実らしい犯行の内実を創作し、それが有力な証拠となって有罪判決が下される。被疑者を犯人にするのと比べて、無実を証明するのは何倍もむずかしく、何十年も抵抗をつづける必要がある。「虚偽自白」の真実らしさに司法だけでなく、被疑者ですら打ちひしがれ、反駁する意志を奪っていく。
翻って、探偵の行為は「虚偽自白」と類似する。聴衆の只中で真実らしい冤罪を吹っかけられ、ただちに反駁できる被疑者がどれだけいるだろうか。作者のレトリックによって推理は真実らしく粉飾され、反論が突き詰められないまま終結する。
このミステリ(特に本格ミステリ)における問題点は「後期クイーン的問題」と呼ばれる胡乱な概念(ひとによって定義がバラけ、Wikipediaの記述は信用に欠く)のひとつとして数えられ、多数のミステリ作家がその問題点の応用や克服に挑戦してきた。たとえば百合作品だと『文学少女対数学少女』〈著者:陸秋槎 / 翻訳:稲村文吾〉が「後期クイーン的問題」をさまざまな視点で取りあつかっており、中国の評論家による当問題の詳細解説だけでなく、自身の著作が中国での議論の出発点にもなった麻耶雄嵩の解説まで携えられ、まるで評論のような仕上がりになっている。
『リルヤとナツカの純白な嘘』のインタビューで本作のライターは麻耶雄嵩を好きなミステリ作家にあげており、おそらくプロット初期段階から「後期クイーン的問題」に対する意識があったと想像できる。というのも、問題点のうちの代表的な(信用に足るかは置いといて、Wikipediaに書かれている解釈の)2点、「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」が本作で書かれうるメッセージと関連するからだ。
ここまでの話を振り返るとだいたい察するだろうが、『リルヤとナツカの純白な嘘』における推理は真実を突きとめることを目的としていない。そもそもリルヤには優秀なリサーチャーがいる(3回目)ので、捜査を開始する前から真相を把握できているのである。しかし真実では過去にとらわれた心を解きはなつことはできない。だからこそ夏夏に推理をうながし、過去の再解釈を行う。つまりはじめから「真実」がもたらす価値を疑い「虚構」に救いを見出すことで、ミステリの問題点のうちひとつを回避している。これは「日常の謎」系ミステリではよくあるアプローチらしい。
それよりも重要になってくるのが、ふたつめの「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」だ。『リルヤとナツカの純白な嘘』は畢竟、この問題を考えるために話が作られていると言っても過言ではない。なぜならば夏夏の過去、リルヤと夏夏の関係そのもの、そしてふたりの仲を切りさく最後の障壁すべてがそれと共通する問題意識を描いているからである。
相手の意志に関係なく、「相手のため」を理由にして行われる介入、これを「パターナリズム」と呼ぶ。かつて同性愛が犯罪だったイギリスで交わされた「同意のある成人どうしの同性間性行為を罰してもよいのか」という議論から、活発に論じられるようになった概念である(マジです。「ハート・デブリン論争」で検索のこと。同意があったら好きなだけSEXしていいだろうがよ)。今では法律だけでなく、医療/看護、教育などの場でも取り沙汰される問題意識であり、少なからず相手に利益をもたらすことから、けっして一筋縄には批判できない概念といえる。
今すぐ治療しなければ死に至る病を例に出す必要はない。たとえばあなたが酒やタバコ、甘いもの、あるいは同性どうしの官能的な接触だけが書いてあるマンガなどを好んでいて、主治医や近親者があなたのためを思って同意もとらず嗜好品を摂取できない環境に軟禁しはじめるのを想像してみてほしい。あなたはそれをどこまで許容できるだろうか。それを許容する社会を是認できるだろうか。
「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」。探偵が犯人を罪をあばく(あるいは冤罪を吹っかける)行為は私人逮捕問題と関連するところがあり、これは相手の利益ではなく社会の利益のために行うことから「リーガル・モラリズム」という隣接する概念として論じられている。
しかし日常の謎ミステリなどでは必ずしも犯罪行為を追及するわけではなく、事実『リルヤとナツカの純白な嘘』では依頼人の悩みや過去をあばく推理を行っている。元はといえば、リルヤが個人のために相談を行いながら依頼人の世界を変える絵を描くサービスであり、案件が進むうちに自身の過去が掘り起こされ依頼を取りやめようとする依頼人も登場する。それでもリルヤと夏夏は依頼人のためになると言って絵を送りつける。
また、リルヤは夏夏を雇った当初、ある過ちを犯していたことに気づく。それまでの夏夏は親元を離れ、学歴もなく、無一文だった。食事もまともに取れず、風呂にも入れず、隙間風の入る住居で寝袋に入って生活していた。リルヤはそれを知ったうえで夏夏を面接にかける。面接段階から風呂を貸し、食事を用意し、布団まで注文していた。採用後、必要なときだけ補助を要請するだけだと夏夏の自由を保障した。このとき、あってはならない言葉で夏夏を呼んでしまう。
善いパターナリズムと悪いパターナリズムを分ける基準としてしばしば「自立/自律/主体性の尊重」という言葉が持ち出される。たとえ相手の同意がなかったとしても、相手の自律(自己決定)を尊重し自立心を育むことができるなら、介入は正当なものと見なされる。必ずしも賛否がないわけではないが、現状社会で運用されている介入的施策はこの基準を採用していることが多い。
では「自立/自律/主体性」とは何なのか。ちょうど看護学の領域で「何らかの健康問題・課題を抱えた成人および高齢者の主体性の概念分析」なる研究がなされていた。それによると……。
【自分の現実を直視】
【生きたいという切望】
【自分の課題に意味があるという認識】
【他者のための自分の役割を自覚】
【自分は一人ではないという実感】
これらにより【自分でやれるという自己への信頼】が生まれることによって「主体性」が引き起こされるのだという。より主体性を成長させる行為として、他者のなかで自己を主張し個性や意思を伝えることや、他者の承認によってみずからの存在価値を確かめることなども挙げられており、必ずしも「自立/自律/主体性」が他者との断絶や孤立を意味するわけではなく、他者との相互作用を必要としているのがわかる。
リルヤの絵を断ろうとした依頼人は、過去を直視することを避け、みずからの殻に籠もろうとしていた。だからこそリルヤと夏夏は依頼人とのつながりを保ち、絵によって過去に直面させると同時に、解釈を変えうる「花」を託した。これは善い介入だったと判断されうる。
しかしリルヤが夏夏を「道具」と呼び、衣食住と自由を保障したときはどうだったか。「道具」と呼ばれることを承認と言えるだろうか。目的以外で関わりを断ち、必要としない行為は相手の自立心を成長させるだろうか。
リルヤは合理の人間だった。みずからの行動が阻害されないよう住居は設計され、ヘルパーも必要以上に立ち入らせない生活をしていた。他者から干渉されないことがリルヤの幸福だった。その奇特な価値観を共通のものとみなしたことで夏夏の尊厳を傷つけていたことに気づき、茫然自失を経て夏夏へ謝罪する。その反省の意志として、夏夏とともに風呂に入り、夏夏の髪を洗い、食事をともにし、あ~んしてもらう。
リルヤがそこまで反省する理由。それは夏夏の過去、姉との関係を意識していたからに他ならない。なぜなら夏夏は盲目の車椅子生活を送る姉のために監禁され、光の届かない地下室で生活させられていたからである。姉のために語り、姉のために動くことだけを要請された環境。リルヤが色のない白の世界に閉じ込められたように、夏夏もまた小学生のころから光のない黒の世界に閉じ込められていた。夏夏が視覚障がい者に対する介護能力を身につけているのも当然の話であり、リルヤは夏夏をふたたび搾取することのないよう気を配り、ふたたび搾取されることのないよう夏夏の人格を成長させようとする。
イギリスの哲学者ミランダ・フリッカーは「認識的不正義」なる概念を提唱した。相手のアイデンティティに対する偏見ゆえに、相手の言葉の信用性を実態より低く(あるいは高く)見つもるような「認識」それ自体――すなわち世界の捉えかた、「花瓶」――の悪さを問題にした言説である。
認識的不正義には大きくわけてふたつの不正義があり、そのひとつを「解釈的不正義」と呼ぶ。劣位に置かれ、虐げられるひとびとがその体験を理解し語る「解釈資源」がないために、みずからの感情を理解し癒やすことも、周りに訴えかけることもできず、社会から取りこぼされてしまう状態を指摘する言葉である。「解釈資源」とは言葉であり、「語り」であり、「花」である。女性たちが職場で受ける性的被害を語り、「セクシャルハラスメント」と名付けることで共有される。子どもたちが障害をもつ祖父母や兄弟姉妹の世話によって忙殺されるだけでなく、家族のなかで優先順位の低い存在とみなされ人格を毀損される。それを語り、「ヤングケアラー」「きょうだい児」と名付け共有する。共有された「花」を受けとることでみずからの「傷」を認識し、訴え、癒やしを求めることができる。リルヤの祖母は「花瓶」の「傷」にさよならすれば、それもまた「花」になると語る。
夏夏は監禁されていたころ、姉のために物語を読み聞かせていた。その物語を通して、窓から差しこむ光の向こう、無限に広がる世界を想像していた。おとぎ話のように夢と希望であふれた世界。傷やトラウマとは縁の遠い世界。夏夏には「解釈資源」が不足していた。
フリッカーはもうひとつの不正義を「証言的不正義」と呼んだ。相手のアイデンティティに対する偏見などから、相手の言葉の信用性を実態より低く(あるいは高く)見つもること。女性というだけで能力を低くとらえ、会議で発言を真面目に取りあつかわないこと。相手をはじめから犯人として断定したうえで、無罪を訴える発言すべてを否定すること。
小学校から監禁生活を送っていた相手の解決能力を低くみなし、参加させる機会すらあたえず問題への対処を完了させる。もはや発言する機会すら与えないこれをとりわけ「先制的な証言的不正義」と呼ぶ。
認識的不正義は「認識」自体を批難しているので、相手の実態を知りつつ故意に無視する行為は対象としていない。故意に相手の発言を退け、否定し、詰る行為。誤った認識を植えつけ操作するこれを、アメリカの流行語で「ガスライティング」と呼ぶ。『リルヤとナツカの純白な嘘』ではしばしば「花瓶」とおなじように「光」の喩えも使い、「光」によって世界が変わるのだと説いている。煤だらけの「ガス燈」は傷だらけの「花瓶」とおなじく世界を歪め、受け手の心を戒めていく。
いずれの行為も対象の能力を否定することで主体性を毀損し、対象のアイデンティティ形成に大きな影響を与える。みずからの認識、みずからの知性を信頼できないものとしてあつかわれることで、自分自身の自我そのものを信頼できない状態に陥り、人格が希薄になっていく。地下室において夏夏は姉を世話する「道具」であり、「主体」をもつことを許されていなかった。それは親である母によって行われていた。母親にとって姉がすべてであり、妹がもつ主体性は切り落とされて然るべきものだった。他ならぬ夏夏自身が、傷つき歪んだ価値観のなかで、大好きな姉の隣に居られることだけを幸せだと思うようになっていた。しかし姉はそれをよく思わない。
『リルヤとナツカの純白な嘘』におけるもっとも強大な拘束力をもつ善意的介入。それは姉が妹のためを思ってかけた言葉である。
姉のために語り、姉のために動く夏夏にとって、姉の願いは絶対に叶えなければならない。姉の語りかけによって夏夏は不自由を選ぶこともできず、泣くこともできない人間になり、姉を見殺しにした過去に戒められるようになった。
夏夏は今でも姉のために自由にならなければと話し、依頼人からもらい泣きしそうになったときも、笑顔でいなければと律している。未だにあの地下室から自由になれず、姉の部品でありつづける。「解釈資源」、すなわち「花」の不足によって姉の真意やみずからの悲しみを理解できず、額面上の「命令」を実行しているにすぎない。
リルヤが夏夏を手足、目の代わりとして依頼人と話をさせ、さまざまな場所を巡らせているもうひとつの理由がここにある。夏夏がたくさんの「花」「解釈資源」を湛え、姉の想い、みずからの悲しみを理解し、受け止められるひとりの人間になれるように。夏夏自身の力で「花瓶」の傷を拭い、自由へと飛びたたせること。それがリルヤの望み、夏夏への恩返しであり、リルヤが必要以上に介入してはならない核心でもある。だからこそリルヤは辛抱強く待ち、夏夏がひとりでに姉の想いを振りかえり、涙を流しはじめるまで見守っていた。
リルヤが再三にわたって諳んじているセリフがある。
この「鳩」の喩えは作中でも解説されており、『創世記』において大洪水を乗りこえたノアが放った鳩のことを指している。洪水後、ノアは水位を確かめるため鳩を放つ。一回目の鳩は止まるところを見つけられずそのまま帰還する。二回目の鳩は橄欖(オリーブ)の葉をもって帰ってきたため、ノアは水が引いたことを知る。原典では、三回目の鳩、第三の鳩は帰還しないまま行方をくらましている。
二回目の鳩の時点で大地のようすを確認できたにもかかわらず、なぜノアが三回目の鳩を放ったのかは定かになっていない。帰還しない鳩をみてもノアは外に出ず、結局神の知らせを聞くまで箱舟に避難したままだった。
『リルヤとナツカの純白な嘘』のその後の展開を参照すると、おそらく本作は第三の鳩を「ノアが鳩を自由にするため放った」のだと解釈している。第三の鳩はノアに自由になるよう命令され、帰還することを許されなかった。しかしそれは真の自由を意味しない。真に自由であるためには、帰還する自由も与えなければならない。だから本作は三回目の鳩もまた、みずからの意思によって橄欖の葉をもち帰還するのだと言いかえる。
これによってリルヤと夏夏の関係が完成する。違う根をもち、互いに独立しながらも寄り添うことを選んだ比翼。違う世界をもち寄り、共有することを選んだツガイ。この関係性を恋や友のように「翼」と呼ぶ。
以上のように『リルヤとナツカの純白な嘘』は、色や光がかさねられて情報量を増していくように、作中に散りばめられたさまざまな要素が結びつくことでテーマが浮かびあがり、主役ふたりの関係性が彩られる百合作品になっている。わりと一から十まで語ってしまったが、それぞれの依頼人の物語やことの顛末はできるかぎり伏せたつもりだ。これらはリバースエンジニアリング、事実の陳列であり、リルヤや夏夏の語る「物語」には到底及びもつかない。ぜひ自分の目や耳で見て、聞いて感じてみてほしい。
本項目の執筆は死ぬほど難航したが、締切が破壊されつづける年初に「物語」の魔力についてまとまった記事が投稿された。「花瓶」の刷新によって過去を捉えなおしトラウマを軽減させるようすは「ナラティブ・セラピー」のそれと似ているが、言及しなかった。そのへんを詳しく解説しているので興味があれば読んでみるとよい(前中後編になっている。わかりづらいが各記事の末尾のリンクが”続き”である)。
ほかにも参考になった書籍として『ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する』〈著者:ジョナサン・ゴットシャル / 翻訳:月谷真紀〉がある。これも「物語」の魔力について語った本だ。物語を批判しつつ、国全体を調和させ善へと向かわせる「高貴な嘘」だけは善いとしたプラトンをベースに置き、さまざまな資料を引きながら物語の恐ろしさを語る。あなたも百合で世界を滅ぼそう。
『1比1人形食玩』
『1比1人形食玩』〈汉谟拉比炒面&我的屁是香哒〉は、中国のクリエイタータッグが制作した、ラブコメ/スリラー/バイオレンスなビジュアルノベル・ゲーム。Steamで配信され、現在中国語(簡体字)にのみ対応している。タイトルは「1/1スケールの食用人形」的な意味合い(たぶん)。
主人公は女性。選択肢によってキャラクターの親愛度が上下し、個別ルートに分岐する恋愛シミュレーションで、攻略可能キャラクター3人それぞれにエンディングがふたつある。うちひとりが女性キャラクターで、主人公と恋愛関係になる(というか、開始時からほぼ相思相愛)。
実のところ、わたしが本作に惹かれた要素のほとんどは、この攻略可能な女性キャラクターの特殊性にある。魅力ある女性サブキャラクターも含め、恋愛百合作品でこの手のキャラクターが出てくることはあまりなく、それだけで一気に心を掴まれてしまった。
知沙渡(ちさ・わたる)。緑髪。成績優秀。裕福な家庭の生まれ。主人公とは中学校のころから親友で、よく家に遊びにくる。いっしょの高校に進学してからもっと仲良くなった。主人公と主人公の料理が大好き。お母さんも大好き。
その性格は――。
世界よ、これがボーイッシュだ。
♡女子校の王子♡だとか物静かな中性っ子とかそんなチャチなものではない。わんぱくで中二病でエネルギッシュなガキんちょ。共学校で男子の目があろうと関係ない。雨の日にレインコートを脱いでびしょ濡れになるまで遊ぶ。教室のなかで主人公とじゃれあい噛みつきあう。嵐も逃げだすボーイッシュ。
でも意外と女の子っぽいところもある。そもそも知沙渡は男っぽく振るまおうとか意識していない。彼女は好きなものに一途なだけ。だから薄ピンクのベビードールを着て、ぬいぐるみがいっぱいある寝室でお泊り会をする。主人公だけがそこに招かれ、彼女は問う。「わたしの”好き”とあなたの”好き”はおんなじ”好き”?」。
知沙渡は頭がいい。良い大学に行って、母親を楽にさせてあげたいと夢を語る。「親に言えばなんでも買ってもらえるんでしょ」。嘲りを無視して、上級生の宿題を代理でやって小遣いを稼いでいる。彼女の父親の工場は有名で、落ちぶれたのも当然知れわたっている。家の事情は詮索されたくないけど、大好きな主人公だけは誘う。大好きな主人公にだけは知ってほしい。
知沙渡は頭がいい。父親は借金だけ残して行方をくらまし、母親の夜泣きが止まらない。寂れた浴室からは鉄の臭いがして、家のなかで冷凍食品はめっきり見なくなった。母親は誰も家に近づけさせるなという。知沙渡は頭がいい。だから気づいてはいけないことに気づいてしまう。
でも主人公の正体には気づかなかった。
「死体埋め」という概念がある。「死体を埋める百合」とか「死体埋めBL」とかでそんな感じで使うひとがいる。文字通りふたりで死体を埋めた共犯関係のことを指し、死体埋めに相当する秘密を共有する関係を指すこともある。
『1比1人形食玩』はこの「死体を埋める百合」に該当する。主人公と知沙渡もそうなる。男性攻略対象ともそんな感じの関係になったりする。しかし誰よりも早く主人公と死体を埋めた女性がいる。
(わっ! 強そうな女……)
名前は炎蓉(読み不明。主人公が中国語読みなのでこちらも”イェンロン”か)。早くして亡くなった主人公の母代わり。主人公の実母とはともに特殊工作員として活躍した過去を持ち、実母に特別な情を向けている。今はレストランを営んでいるが、これは世を忍ぶ仮のすがたで、本業は人体の解体業。主人公が幼いときから裏稼業に慣れさせ、実母のように一緒に働こうと根強く勧誘している。
そう、主人公・罪礼央(ツイ・リーヤン)も裏社会側の人間だ。将来の夢はシェフだが、けっして表社会では生きていけないタイプの人間。彼女は表情に乏しく、「好。」とか「嗯。」とか短い受けこたえばかりする。世界とのつながりが薄くて、人とわかりあえない気持ちが強い。なぜか感情の昂りが噛み癖になって出てしまう。なぜか人とのコミュニケーションに行き詰まると、相手を”噛む”方向へ行ってしまう。
だから罪礼央の冷蔵庫には人肉がある。
人を食べることで人になれると思っている。
というわけで『1比1人形食玩』は♡Cannibalism♡をテーマにしたビジュアルノベルだ。罪礼央の料理は友人たちに人気があるので、作中冒頭でも入手したばかりの死体を(鹿肉だとか言って)みんなに振るまっている。
じゃあやっぱり知沙渡も食べられちゃうの? と疑問に思うひともいるだろうが、どうやら作者の趣味が偏っているようで、そういう猟奇的な要素は男性攻略対象に集中している。というか男性陣に申し訳なくなるレベルで知沙渡とピュアぴゅあな恋をする。物理的に死体を埋める百合をピュアと呼ぶのかは知りませんが……。
(さよならを教えてくれる男性攻略対象・米霖。わりと好き)
インディーズのビジュアルノベルとしてはけっこう人気があるようで、レビュー件数も1500件となかなかの数が投稿されている。惜しくも圧倒的好評には届かない好評率94%だが、どちらかといえば男性陣とのルートが問題になっているような気がする。百合好きには関係ないな! 希少価値の高いボーイッシュと腕とかに傷がある女たちを堪能せよ。
『先生、新刊三冊くださいッ!』
『先生、新刊三冊くださいッ!』〈LaoO Studio〉はSteamで早期アクセス配信中の同人活動シミュレーション・ゲーム。日本語あり。
自由にカスタマイズできるキャラクターを2体作り、そのカップリングのファンとして小説や痛バッグ、祭壇、グッズ作りに励み、ファンやお金を増やしていくリソース管理型のシミュレーション。
本作はそれだけでなく、創作に没頭する女性主人公やヒロインたちの友情を恋愛シミュレーション形式で楽しむことができる。早期アクセスの時点でメインストーリーは完成しており、以後のアップデートでヒロインとのデート機能やさらなる個別ストーリーが予定されている。
現時点では親愛度で開放される個別ストーリーよりもメインストーリーのほうで深い絆が描かれるが、中国のゲームスタジオであることを考えると恋愛に発展する可能性は薄い。とはいえ「作者とファン」のつながりへ向ける眼差しには熱量があり、作中でもその特別性を大事にしようとする想いが感じられる。というか友情の時点でやたらと湿度が高くねっちょりしている。
同人活動でつながりを広げていく物語だが、その良い面だけを切りとったプロットではない。むしろファンコミュニティで直面する憎しみ、いがみあい、過ち、別れなどで後悔がにじむ場面も多く、それでも同じ作品のファンとして尊重しあい活動を続けていこうとする姿勢が描かれている。制作陣が実際に体験したであろう苦悩がキャラクターたちを形づくり、関係性や物語を魅力的なものに仕立てあげている。
その理念の発露とも言うべきロケーションが「同人女オタク老人ホーム」であり、解釈が一致しないままとうとう老人ホームまで連れそってしまった老女の関係性などが印象深い(なお、この老人ホームではランダムイベントのようなかたちで「モブレ書いてください……」と法外な大金を握らせられることがある。闇取引?)。
同人活動への博愛とも呼べるような思い入れはヒロインたちの立場にもあらわれている。女オタク百合作品では何かと創作者どうしの関係性が取り立てられることが多いが、『先生、新刊三冊くださいッ!』のヒロイン一人目は主人公のファン一号で、投稿の手引きやイベント関係者とのホットラインを繋いでくれる存在であり、二人目のヒロインはイベント運営者である。これらはいずれも非創作者(自らは筆を執らないが、それらをサポートするという意味でコミュニティを支える存在)にして主人公を含む女オタク仲間の一員であり、ともに創作活動を盛り上げる同志として物語に関わってくる。こうした立場のキャラクターがヒロインになる女オタク百合作品はめずらしい。四人目に至っては逆カプ者かつ主人公の粘着アンチであり、愛ゆえに攻撃してしまう彼女とほかヒロインの融和も本作の見どころのひとつと言える。
肝心のゲーム部分だが、主要素となる小説執筆は自動生成であり、これといったプレイヤースキルを要するわけではないので安心してほしい。適宜スチルやグッズなども自動生成される。リソース管理系のシミュレーションではあるものの、難易度は大したことはなく、あくまで用意したカップリングが生成されていくさまを楽しむゲームだといえる。また、死ネタだとかオメガバースだとかを生成しないよう選択できる、やたらと親切なオプションが用意されているので苦手なジャンルがあるひとも安心してほしい。
センスが問われるのはキャラクタークリエイトだが、SteamのMOD管理システム「Steamワークショップ」で他者が制作したキャラクター(MOD文化らしく二次創作が大多数)をダウンロードできるので困ることはない。一方で祭壇や痛バッグ、グッズづくりは自分でパーツを配置する必要があり、この手のゲームが得意なら腕の見せどころになるだろう。
ほかにも同人即売会で買う側にまわり、時間内にグッズを買いあつめる要素があったり、売る側にまわって必ず釣りが出るよう支払ってくる客にキレながら同人誌と釣り銭を渡すシビアなミニゲームもあったりする。ぜひ『先生、新刊三冊くださいッ!』をプレイして貨幣と人類のどちらを滅ぼすか悩もう。
『ムーン・ゴースト』(R18)
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『ムーン・ゴースト』〈Purple software〉は、Windows向けパッケージおよびFANZA GAMESで独占DL配信された、成人向けビジュアルノベル・ゲーム。成人向けゲームのなかでは「泣きゲー」に分類され、性的要素ではなくシリアスな物語を重視している。一般的な物語のジャンル分けでは「SF」「アンドロイド」「幽霊」などに該当するだろう。
西暦2199年。無尽蔵にエネルギーを引き出せるテクノロジーが開発され、人類のあらゆる問題が解決し、全人類が電脳世界で余暇に没頭する時代。
ある日、現実世界で働くアンドロイドの数体が原因不明のエラーを観測する。人類やほかのアンドロイドには認識されず、データにも反映されない、ぼんやりと人のかたちをした何か……。ときおり人格を発露させ、成仏していくそれを「幽霊」と呼び、観測できるアンドロイドたちとともに管理、研究する「セフィラ計画」が進められていた。その「幽霊」があつめられる場所、月面で役目をうしなったリゾート施設が本作の舞台となる。
「幽霊」を観測した初期のアンドロイドのうちの一体、セフィラ・ビナーが『ムーン・ゴースト』のヒロインだ。ビナーはおよそ100年前に製造された旧型セクサロイドだが、今の今まで女性ひとりにしか仕えたことがない(さらに処女。ユリコーンにやさしい)。69年仕えた主人が死んだことで役目をなくし、セフィラとして月面での管理に携わっている。
成人向けビジュアルノベルでは基本的に複数の攻略可能ヒロインが登場するが、『ムーン・ゴースト』ではビナーひとりだけが恋愛対象かつ性行為対象となる。もともと中編を想定して制作されたのもあるが、どちらかというと本作の物語、そして主人公の特殊性によるところが多い。
セフィラ・ダアト。緑髪。本作の主人公であり、ヒロイン。既存のセフィラ全10体のデータを混ぜてできた人工のセフィラだが、製造の最終工程、性格テストで不合格になり、お目溢しをいただいているぽんこつ最新型人工知性。
その性別は”無性”。性別が明記されていないのではなく、はっきりとどちらの性でもないよう創られた人格。一人称はボク。託児用でパフォーマンスの制限された量産女性型ボディと、軍用で戦闘能力に長けた男性型ボディを使いわけ、それらを9体同時に制御し、2体は意志をもった状態で操作できる最先端のAIである。
つまり『ムーン・ゴースト』は両性アンドロイドを主人公、女性アンドロイドをヒロインとするアンドロイドSFであり、”この関係性にだけ目を向けると”百合かどうかは個人の判断がわかれるところになる。制作者が6,7割は女性体と言っているように、作中では女性体での活動がわずかに多い。ビナーとの性行為シーンも男女で半々である。登場人物によって代名詞も変わり、「彼」「彼女」「娘」「妹」「弟」「あの人」など多種多様な呼ばれ方をする。
メイド(執事)アンドロイドふたりが幽霊たちの苦しみを取りのぞき成仏させていく『ムーン・ゴースト』だが、これもまた、筆者が性別不明と女性のカップリングを是百合とか叫んでいる作品なのか……というとそうでもない。なぜならば物語の根幹をつらぬき、世界の命運を左右するぶっといぶっとい百合カプが登場するからである。こちらもアンドロイドどうしの関係性となり、アンドロイド百合好きへの福利厚生が厚い。もはやこっちのほうが主人公らしく、さらに殺伐とした感情を抱え世界に仇なす百合でもある。あと片方は死んでいる。福利厚生が厚すぎて社員旅行で月まで行けそうなノリになってきた!?
ただ、公式サイトなどでもこの百合カプの露出がないことから察せられるように、あんまりにも物語の根幹に近すぎてネタバレを回避して語るのが難しい。そのためミスリードやぼかしを混ぜたうえでこのカップリング、というか片棒を担ぐキャラクターについて語っていきたい(まあ一言で言うとライナー・ブラウンなのだが)。
『ムーン・ゴースト』の世界を滅ぼそうとするキャラクターは、まだ生まれて間もないアンドロイドだった。少しずれてて、詩情が豊かで、端的にいって性格テストを通過するには難があるような、そんなぽんこつ最新型モデル。まっさらなこの子にも、やさしく接する女性アンドロイドがいた。愛しい彼女と月面で過ごす日々は、とある偶然によって終わってしまう。悲しみ、孤独、無力感、そんな感情を誰かに打ち明けられることもできず、世界を滅ぼす存在に成り果てる。まともに人格矯正されていないアンドロイドにとって復讐心は毒となり、危険性を知らず接触してくるアンドロイドたちの暖かさに窒息し、かつてうしなった彼女の瓜二つの存在のまえで、「殺したいのに殺せない」というエラーを抱え挙動を制御できなくなっていく。
世の中には頽廃的な近未来像を想像し、楽しむ人間が一定層存在する。ディストピアという荒廃した監視社会、技術が発達しても止まることのない人間どうしの宇宙戦争、人間よりも発達した上位存在による人間性の蹂躙など、あらゆるアプローチで原罪を見つめなおし、やるせなさ、喪失感によって、ある種の”快”を得ようとする趣味。そんな偏食のひとつに「不完全なアンドロイド」というアーキタイプがある。
「心がない」と言いつつ”愛”に目覚める人工知能だとか、動物が人間とおなじ心をもって喜ぶ牧歌的価値観も混じっている可能性は否定できない。より頽廃的な方向へ舵取りすると、薄給で腕を修理できないまま危険な日雇いで稼ぐしかないアンドロイドだとか、児童程度の知能しか与えられず軍用でもないのに戦争で使い捨てにされるアンドロイドだとか、そういう世界観が構築されたりする。
『ムーン・ゴースト』も例にもれず、随所にそうしたフェティッシュが施された作品だといえる。たとえば人類が電脳化したうえで幽霊なる存在の慰安を押し付けられているセクサロイドだとか(実際は貴重なセフィラなので任せるしかないのだが)、不要になって放棄された月面リゾートなどにも色気が漂う。それらの趣味がいちばん凝縮されているのが、世界を滅ぼそうとしている”あの子”なのだろう。感情値が制御できるにもかかわらず、理解できない行動ばかり取ってしまうアンドロイド。矛盾した感情を抱え、みずからの涙に戸惑うことで、むしろより人間に近づいていく。世界を壊す存在、アンドロイドながらに心を携えた彼女が、もっとも人間に近づく瞬間といえばもちろん……。『ムーン・ゴースト』はハートフルな作品なので、世界が滅びる終わり方はしません(そんな……)。
(※リンク代わりの検索用文章)
ムーン・ゴースト Purple software
短評
『プトリカ 1st.cut:The Reason She Must Perish』
『ミラージュフェザーズ / Mirage Feathers』
『风岬-The Everlasting lovestory at the Windcap』
『Shut-In Vampire』
『JKの悪夢を分析するゲーム』
『Yes, And So Our Hollow Hearts Called For Love』
『プトリカ 1st.cut:The Reason She Must Perish』〈トトメトリ〉はSteamでリリースされた全年齢向けビジュアルノベル・ゲーム。
「トトメトリ」は過去に商業の成人向けゲームブランド「ウグイスカグラ」で制作に携わっていた、シナリオライター・ルクルとイラストレーター・桐葉(すしめかぶ)による全年齢向け同人サークル。10年以上前の制作物がBoothで確認できるものの、Steamでのゲーム配信は本作『プトリカ 1st.cut:The Reason She Must Perish』が初となる。また、コミックマーケット105ではパッケージ版も頒布された。
中世ファンタジーの世界。記憶をうしなった少女・ラズリエルは、悪魔を名乗る少年・レミに保護され親交を深めていく。自分が何者かわからないラズリエル。レミに好意を抱きつつも、ときおり燃えるような負の感情に駆り立てられることがある。
混濁した夢の世界でラズリエルは「イルサ」と呼ばれ、似ても似つかぬ町娘として生活していた。夢のなかの地図にない町・ツイライトリッジも、ラズリエルとレミが暮らす家から近い町・エルムストも、どことなく異様な雰囲気に包まれている。町には悪魔に魂を売った「魔女」がいて、住民を拐かし、呪いをかけているのだという。人間たちは隣人が魔女なのではないか、もしくは自分や家族が魔女と疑われてしまうのではないかと恐れ、疑心暗鬼に陥っていた。
夢のなかで「イルサ」は「天使」と呼ばれる存在に恋しており、次第に町から浮いた存在として避けられるようになっていく。
と、まあ、こんな調子だと話にならないので重要な部分だけネタバレすると、イルサとその恋人リュシーが同性愛によって魔女裁判にかけられてしまう話である。同性愛コンテンツの作り手や愛好家が「禁じ手」「陳腐」「食傷」と呼んで久しい「同性愛=禁忌」をベースにした物語であり、今となっては物珍しさが勝つ。
現代の異性愛カップルの活動を通じて、同性愛カップルの物語を振りかえる形式は、往年の名作成人向けビジュアルノベル『カタハネ』を彷彿とさせる(「人形」という要素も重要になってくる)。『カタハネ』は潰えるしかなかった同性愛を語りつぎ、陽の目をあてる物語だったが、『プトリカ 1st.cut:The Reason She Must Perish』はどちらかというと……う~~~~ん、同性愛の重苦しさに対して異性愛の描写が軽かったというか、課題に対して楽観的な感じがあり、実のところあんまり釈然としなかった部分がある(そもそも『カタハネ』に同性愛差別が原因になってなかったというのもあるが)。どうやら有識者によるとシナリオライター・ルクルは前からこういう傾向のあるライターらしい。
とはいえ繊細さと輝かしさ、美少女愛を極めたようなビジュアルや、熱のあるセリフ回しに光るところがあったのは事実で、シナリオ以外はだいたい100点みたいな惜しさが残る作品だった。同性愛はキスしとるけど異性愛はキスしてないですからね。感情の重さという面でも一考の余地があります。
ところで2024年8月だかにX(旧:Twitter)で「宗教的な理由で引き裂かれるTraumatic Yuriのおすすめ教えて!」みたいな英語圏のポストがバズっており(年末に見返そうと思ったら削除済みだった)、我らが『マリア様がみてる』をはじめとして、英語圏でミーム的人気があるらしい小説『ギデオン―第九王家の騎士―』や、ホラー・レズビアン・ケモナー・グラフィックノベル『Pinky & Pepper Forever』、ホラー・ビジュアルノベル『We Know the Devil』、レズビアン・YA小説『Her Name in the Sky』などさまざまな作品がおすすめされていた。
そのなかにぬゆりのボーカロイド楽曲「ロウワー」のアニメーションMVもあり、魔女裁判×同性愛という点や、片方だけが取り残されてしまうところ(考察次第)、単色と流線を活かしたおしゃれなビジュアル、元ネタであるイエスとユダの関係、太宰治の『駆込み訴え』などから(ほんまに関係ある? 適当に言っています)本作ともかなり共通点が多い作品になっている。そんなこんなで、こっちが気に入るならあっちも気に入るだろう。
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『ミラージュフェザーズ / Mirage Feathers』〈oyasumi Workshop〉は、Steamでリリースされた奥スクロールシューティング・ゲーム。中国のクリエイター・Tinzingの個人制作(音楽やローカライズは複数の友人が協力している)であり、日本語に対応しているほか、日本文化の根強い影響を感じられる作品になっている。
自律型の人工生命兵器「フェザー」。ノタリとミロイタは親友でペアだった。軍の要請で「学園」の卒業が早まり、最終試験を受けるふたり。ミロイタは意志を奪われ、ノタリに武器を向ける。これは誰の陰謀なのか――。軍や学園を恨み、世界を敵に回すノタリ。しかし気絶したミロイタを見失ってしまう。三年後、ノタリは今でもミロイタの消息を辿り、形見のAI・ルシオラとともに戦いつづけている。
本作は「奥スクロール固定シューティング」と見慣れないジャンルをしているが、ようするに『アフターバーナー』だとかそのへんの作品オマージュしているらしい。こればかりはロンチトレーラーとか見てもらったほうがいいと思う。
あくまでもゲーム部分が目玉の作品であり、ストーリーは”私達の闘いはこれからだ!”で終わってしまう。ビジュアルノベル以外の百合ゲーあるあるですね。ただテキスト量自体は意外とあるほう。
本編はSteamのポイントショップかもしれません。めちゃくちゃ充実してるので好きなだけSteamアカウントをデコろう。特にアバターフレームがkawaii。
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『风岬-The Everlasting lovestory at the Windcap』〈百歌CentChansons〉は、2024年2月にSteamで配信されていた百合・ビジュアルノベル・ゲーム(つまり上半期の補遺)。中国の新規インディーズ・ゲームスタジオ「百歌游戏CentChansons」のデビュー作で、2024年現在対応している言語は中国語(簡体字)か英語のみ。
育児放棄気味の母親の下で暮らす未就学児の鱼烟(ユゥイェン)。約束したはずのお祭りで待ちぼうけをうけ、人の捌けた会場でひとり暮れなずんでいた。声をかけたのは花火師の于雾(ユゥウゥ)。冷たい母ばかり目にしてきた鱼烟にとって、于雾は美しく、暖かった。無償の愛を知り、彼女の家へ足しげく通う鱼烟。鱼烟の母はまるで不用品を譲りわたすように、于雾へ娘を押しつけ、行方をくらませる。
二度と見捨てられまいと、背伸びしてがんばりすぎてしまう鱼烟。陰気で、人馴れしておらず、ちょっとした外出で体調を崩してしまう于雾。ふたりにとって社会は妨げにしかならず、自然と共依存のような形になりながらも、それでいて本心を打ちあけあうことはできない。
于雾とのつながりのために人生を捧げつづけて10年が経過し、高校の優等生にして大学への進学すら厭う鱼烟。いつしか于雾への気持ちは恋愛感情へと発展していた。一線を引こうとする于雾をとらえ、ついに想いの丈を打ちあける。娘としてではなく、母としてではなく、愛している。
やっと両思いになれたはずなのに、行方をくらます于雾。町外れの森のなかで、鱼烟は彼女の秘密を目撃する。出会ってから10年たつはずなのに、女子高生の鱼烟よりも若々しく、シミすら増えなかった于雾の身体にナイフが突き立てられ……流れでた血が蒸発し、拒絶されるようにナイフが抜け、またたく間に傷口がふさがっていく。彼女は老いることも死ぬこともできない不老不死だったのだ。于雾の望みはただひとつ。このときから鱼烟の人生は愛するひとを殺すために費やされていく。
つまり『风岬-The Everlasting lovestory at the Windcap』は人外おねロリ百合作品、人外おねロリ寿命差疑似家族自殺幇助殺伐百合なのだ。中国のインディーズ・百合・ビジュアルノベルはオーソドックスな学生百合が多めだが、本作は舞台設定にただならぬこだわりが見受けられる。
本来のわたしならこれめっちゃ好きなやつ♪とウキウキ顔でプレイする題材だが、とある事情により手放しで褒められる作品ではない。それが何なのか説明するためあらすじを列挙する。
不老不死の人間と、育児放棄を受ける子ども。つい気がかりで世話をするうちに実の親がやってきて、金を渡すから引き受けてくれと頼みこんでくる。それを聞いてクローゼットに引きこもり、泣きじゃくる子。こうしてふたりは親子になるが、不死者は人間不信で保護者としての役目を果たせず、子も心配させまいと気丈夫にふるまう。授業参観の知らせすら伝えられず、親失格なのではと悩む不死者。しかし子の書いた作文がふたりの絆をつなぎとめる。子が高校生になり、不老不死の秘密が共有され、子にとって愛するひとを殺すことが人生の目的になっていく。また不死者には過去に親しい人間がいたが、かの戦争で喪ってから人間不信に陥っていた。
もしマンガ好きのひとならばピンとくるだろうが、これは2014年にWebで公開され、商業単行本にまでなった男女マンガ『兎が二匹』〈山うた〉のあらすじと完全に一致する。つまり『风岬-The Everlasting lovestory at the Windcap』はオマージュやパロディという一線を越えた盗作なのである。
もとより盗作だとを知ったうえでプレイしていたが、元の作品がどんなストーリーでどこまで一致しているのかは知らず、あとから『兎が二匹』を読んでひっくり返ったらしいです。盗作度合いを知らないまま啜る人外おねロリはそれなりに良かった。まあそこらへん全流用なんですけど……。
ちなみに『兎が二匹』2巻は過去編となり、こちらは友情?百合の話になっている。自刃を迫るようになった”過去”という時点で察してほしい。名作を知れたのでよかったです。
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『Shut-in Vampire』〈ebi-hime〉は、itch.ioにて公開されている吸血鬼・百合・シミュレーションゲーム。無料。英語のみ。Android可。
アイドル志望にもかかわらず、ひょんな事故で吸血鬼になってしまった主人公・Aijou Mayu。教会に監視されて出歩けず、カメラに映らない特質で配信者デビューもできない(ASMR配信で稼げ!)。持ち前の絵心を活かし、ハンドメイドの小物を売って生計を立てている……否、立てられていない。家賃滞納にキレた大家のHimemiya Sumireから、月末に10万用意できなければ追い出すと言われてしまう。奇しくも教会の軟禁監視期間が終わりを迎えようとしてるのに、ここでホームレスになったら命ごと台無し。ストレスや渇きと闘いながら家賃を稼ぎ、ついでに個性豊かなヒロインたちとねんごろになったりする、そんなゲーム。
『Shut-in Vampire』の基本は一日一行動であり、お金を稼ぐか、ストレスを取りのぞくか、あるいはヒロインと仲良くなるかのどれかを選ぶ。それを2週間繰りかえして10万の資金を用意するとクリアとなり、ヒロインとの親密度によって対象キャラクターとの後日談が選択できる。難易度はかなり低め。
攻略対象は5人おり、もちろん全員女性。かなりアクの強い女性もおり、恋愛関係になるものから、友情、あるいは✞隷属✞と、ゴールはさまざまな関係性を象る。
ebi-himeは老舗のインディーズ・LGBTビジュアルノベル制作チームで、過去にはヤンデレ百合ビジュアルノベルの『It gets so lonely here』を取り上げた。そちらの続編『The end of an obsession』もリリースされているようで、プレイしたことがあるかたはチェックしてみるといいだろう(いずれも無料。『It gets so lonely here』は複数言語対応だが、いずれにせよ日本語はない)。
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『JKの悪夢を分析するゲーム』〈三崎〉はノベルゲームコレクションで配信されているビジュアルノベル・ゲーム。無料。スマホ可。
悪夢分析家として女子校生徒たちの悪夢を分析し、選択肢によってエンディングが分岐するホラー・コメディ作品。エンディングは22個あり、メインキャラクター11人に対しそれぞれ2種類のエンディングが用意されている。
本筋は3つのルートに分かれ、最初の「一番怖いと思う悪夢は何か?」という問いで選んだ選択肢により診察する生徒が変わる。「殺人を犯してしまう夢」ルートでは恋愛感情をふくむ三角関係百合が、「起きても起きても夢の中にいる夢」ルートでは友情百合が楽しめる。ちなみにすべてが百合というわけではないので(わたしが勝手に是百合と叫んでいるタイプの作品)注意。
五日目の振りかえりでそれぞれの生徒のエンディングを見ることができ、この場面でセーブを残しておくと楽。ブラウザ版ではセーブ枠が少なく、Windows版だと枠が増えるのでプレイしやすい(バックログ機能などもある)。
あくまでもコメディを基調とする作品なためジャンプスケアなどは無いが、じんわりとホラー要素をのぞかせる場面も少なくはない。「悪夢」も後に夢に出るほどではないものの、少し背筋が寒くなる程度の気味悪さがあり、コメディとホラーの緩急がほどよくわたしたちを刺激してくれる。
百合要素も後ろめたさを匂わせた関係性が目立ち、蝉の効果音が湿気をより一層引き立てている。というかだいたいわたしの好きな要素で構成されていたので湿度が200%くらいあるとおもう。
注目したいのがキャラクターデザインの豊かさで、個人制作特有の芸術性が存分に発揮されている。背の高さ、骨格、瞳孔、制服の着こなしも多種多様で画面に張りがあってよろしい(?)。どちらかというと女性向け作品に出てくる女性キャラクターという感じで、典型的な百合漫画とかだとあんまみないタイプの女性が多く、うれしかった。これって振りこむとこ無いんですか?
ちなみに主人公は男性的な喋り方なものの性別は公表されていない。イメージ図は公開されているので目を通しておくといいかもしれない。
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『Yes, And So Our Hollow Hearts Called For Love』〈Mismatched Wings〉は、2024年6月30日にitch.ioで公開されたメンヘラ・百合・ビジュアルノベル・ゲーム。英語のみ。無料。暴力的なシーンや性行為があるのでR18かも。itch.ioのゲームジャム「menhara vn jam」の参加作品となる。
(先んじて作者の好きな作品リストをチラ見しておくと理解がしやすいらしいです。『エイリアン9』や『Serial experiments lain』あたりで……)
舞台は天国。「死」が存在せず、記憶と姿かたちをリフレッシュする転生だけが存在する死後の世界。ひとびとは片翼を引きずり、膨大な余暇に身をやつしていた。
転生を経て生まれかわったものの、人付きあいが苦手なLebenと、生前の記憶を保ち、天国でであった過去の恋人のことが忘れられないEve。ちぐはぐな人付き合いしかできないふたりは、歪ながらに噛みあい距離を縮めていく。
Lebenを愛しく想いつつも、自分を置いて転生していったLunaのことを考えてしまうEve。自己卑下し、Lebenとお互いを傷つけあううちに、Lunaのことを忘れ去ろうと決意する。
Eveが自身を奮い立たせ、決着をつけようとするその瞬間はフリーゲームらしからぬムービーによって演出される。
???
雑記
大大大大大遅刻で校閲をまともに行う時間がなく、4,5万文字書いても終わりがみえない執筆で発狂し、かなり変なことを書いてしまった恐れがある。ここおかしくない? という点があったらぜひ指摘してほしい。
ハン・ガンのノーベル賞受賞を筆頭にして、2024年は海外のシスターフッド小説の翻訳が増え、実にたくさんの国の歴史や文化を知ることができた。そのなかで時間がなく読むことができなかった作品として『ナイルの聖母』〈著者:スコラスティック・ムカソンガ / 翻訳:大西愛子〉があげられる。ルワンダのカトリック女子校を舞台に少数派虐殺が起きる小説で、作者本人もその虐殺を生きのびた張本人なのだという。本邦未公開だが映画化もされており、そちらのトレーラーで雰囲気を掴むのもいいかもしれない。
あと短評の更新ついでに2000文字の書評が残っているので追加しようかなと思っている小説に『ガチョウの本』〈著者:イーユン・リー / 翻訳:篠森ゆりこ〉がある。『ずっとお城で暮らしてる』のように露悪的で嘲笑じみた語りが魅力的な少女小説で、友情だけでなく恋愛の要素もちょっとある作品だ。かの親友が潰えたとの報からかつての友情を振りかえり、薫陶し、みずからを卑下する死別百合小説である。恐ろしいくらい相方のことしか語ってないのでかなり満足度が高いが、世界への復讐心に満ちた小説でもある。
本記事では散々家族の愛を描いたが、12月にリリースされたビジュアルノベル『たねつみの歌』〈iMel Inc.〉をプレイする時間が取れなかった。どうやら同じ年の母/私/娘が異界を旅する物語らしく、かなり評価が高い。できれば2025年上半期に補遺として拾う予定。次の記事はいい感じに文字数を抑えたい。
2024年上半期はこっち。なんと5万6千文字しかありません。