ご時世
このご時世になって、長い。もう、丸2年を超えて、3年目に、とうに突入している。この2年間と数ヶ月で、いろいろなことが変わった。もう、もとに戻らないことも多々あるだろう。
諸行無常とは言うが、ときに、どうしてなんだと、この理不尽に叫びたくなることもある。
今の若者は、このご時世を、どう捉えているのだろうか。そのヒントになるような映画を、3月の最初の日曜日に観た。
この映画を知ったのは、Ma-hi-roさんの記事からだった。のんさんについては、気になる女優ではあったが、そこまで大好きではなかった。だが、Ma-hi-roさんが、のんさんの大のファンで。Ma-hi-roさんのアイコンがのんさんで。毎日眺めている間に、とても好きな女優になってしまった。
この映画、観て泣ける映画ではない。感動に打ち震えることもない。だが、淡々と、このご時世の不条理を受け止めて生きる姿を描いている。そして、余韻に希望の匂いがそこはかとなく充満していて。明日も淡々と笑顔でいこうか、そう思う、いい映画だった。
私は、よく、コメントでも書くのだ。自問の種になりました、と。
私の人生、自問だらけだ。自問だけだと言ってもいい。常に自問ばかりで、出口がないのだが、それが、私という人間なのである。仕方がないと半分諦めている。
この映画は、ずっと、それから後も私の自問の種になり続けている。いろいろな思いを、いまだに脳裏に展開し続けている。そういう意味では、私の思考と映画のトーンが似通っていたのかもしれない。
最初は、大宮のイオンでひとりで観ようかと思っていたが、長女が我が家に戻ってきてから、映画鑑賞に付き合ってくれることが多くなった。大宮で観ようと言ったところ、日曜日に新宿に買い物に行くから、新宿で観ようということになった。
新宿の、テアトルという映画館である。新宿の事務所にも長年通っていたので、ここは、知ってはいた。だが、入ったことがなかった。夜更けに酔っ払って前の道を新宿駅に向かってふらふら歩くくらいだった。
心の中の、リトルkojuroが、ボソリと、呟いた。
あの頃は、良かったね。仕事も大変だったけれど。
まあまあ狭かったが、ちょっと昭和の匂いがする、雰囲気のいい映画館だった。
夕食の時間帯だったので、食べ物と飲み物を買った。長女は、必ず、映画を観るときには飲み物とポップコーンを買い込んで入る。だが、今回は、夕食として、ホットドッグだった。
長女がつきあってくれたことも少し驚いたが、帰り際に、観客が多かったことも驚きだった。日曜日の、この時間帯の映画ということを考えても。
理不尽と私は書いたが、確かに理不尽だ。このご時世のために、人々の生活や生き方を振り回されるなんて。だが、一昨年からのご時世については、ある面、致し方がないことだとも思う。
だが、世界を見てみて。やらずもがなの争いごとを人が起こしている事実を目の当たりにすると、人間の業というのは、度し難く深いものだと思わざるを得ない。
Ribbonの中で、美大の学生は、自分の創作物を雑に扱われることに対して、こういう。
ゴミじゃない。
価値とは、何なんだろう。目に見えるものなのか、目に見えないものなのか。
有形物であろうが、無形物であろうが、人が大切にしているその価値を、理不尽に壊す権利など、何人たりとも持ち得ないのだと私は思うのである。
今宵も、月は、雲の向こうで。しかも新月である。その、見えない月に、私は、祈る。祈り続ける。
家内は、あるプロジェクトに参画していて。仕事が忙しくて、事務所の側のホテルに寝泊まりしている。日曜日の深夜に戻り、月曜日の昼過ぎにはまた、ホテルに泊まりに行って、そこで仕事をしているのである。
マッサージは、とんと、しなくなった。そのかわりに、家内の健康のことを心配をしている。これならば、マッサージをしているほうが、よほど良かった。
心の中の、リトルkokuroが、ボソリと、呟いた。
今、自分にできることをしよう。できる限りことをしよう。そして、祈ろう。祈りは、いつか必ず、通じるものだ。信じよう。とことん。
だから。
これで、いいのだ。