言葉

言葉は、記憶。

私の記憶のほとんどは、遠い記憶であればあるほど、誰かの発した言葉を核として、そしてその時の映像が絡み合い、成立している。

私は、つまらない記憶ほど、細かいところまで覚えている。よく覚えているなと、時々、驚かれたりするが、恐らく、言葉、映像、記憶という、私独特のルーチンの中で、脳の中に、あるいは心の中に、ひっかかったものが時間の経過に溶け込まずに沈殿しているのだと思う。

私の記事は、ほとんどが、そういう記憶で形成されている。誰の、なんの役にも立たない、日記。私の、独り言日記。

これが、私の日々の記事の正体である。


学生の時、心理学の教授で、T教授という、超人気教授がいた。ゼミ所属の学生を、当時大人気の、マスコミに大量に放り込む。毎年、多くの学生がゼミの門戸を叩くが、激烈な競争率のもと、夢を散らしていくのである。

そのT教授のことは、例に漏れず、私は、苦手だった。だが、どうしても欲しい単位があって、避けて通ることができなかった。そして渋々、ひとつだけ、講義を履修したのである。

その講義の中で、身に付けた言葉がある。


言葉は、伝わらなければ、言葉ではない。

歌は、歌わなければ、歌ではない。

鐘は、鳴らさなければ、鐘ではない。

愛は、与えなければ、愛ではない。


T教授は、この言葉は、卒業したゼミ生に呼ばれた結婚式で花向けの言葉として、いつも、送るのだと、自慢げに話していた。

T教授は、私の価値観の、まったく対岸にいる。物質と反物質くらい、相容れない。だが、私は、この言葉を、なぜか非常に深く、噛み締めた。そして、ずっと、何度も反芻した。

相容れない価値観から出た言葉であっても、真理の部分では、ひょっとしたら、繋がっているのかも知れない。

もしくは、全く裏っ返しの意味で、私は、理解したのかもしれない。だが、確かに、この言葉は、私の心の琴線に触れた。


私は、こう、解釈した。

世の中のすべてのものについて。

もちろん、そもそもの動機も問われようが、その信念に基づき、学び、理解し、自分のものにしたあと、その得たものを、人々の幸せのために使い、発し、人の心の中に届けなければならない。

たとえうまく学べなくとも、理解できなくとも、使えなくとも、発することができなくとも、実践ができなくとも、諦めず、食い下がり、格好悪く、なりふり構わずに、自らと人々が、そして全宇宙の生きとしいけるものが幸せになるという心持ちを持ち続けて進むことそのものに、意味があるのである。

人は、愛を与えて幸せになるためにこそ、生きているのである、と。



■追記■この記事は、あんこぼーろさんの、この記事の企画への参加記事です。「言葉」というキーワードが、私の原点に、かなり近しいものだったので、参加させて頂きました。多くの方々が参加され、みんな、心に響く記事ばかりです。この企画は、noteという世界を照らす、一条の希望の光のように、私は、感じました。当初、12月30日にこの記事を投稿する予定を、明日から年末まで「言葉」に関係する記事を2つ、書くつもりなので、1日早めました。



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