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摂食障がいの克服263【孤独と鬱と摂食障がい】

 Olympicの開会式はとても好きです。
 全部観ていたわけではないのですが、深夜に、また朝にも観ていました。
 各国の紹介とかもっと真剣に見たらもっと興味深いんですよね。
 無論、やはり平和とか平等が訪れたらいいのに、そう願いながら。
 本当に注意力散漫で集中できなくて気づけば頭鳴りにもっていかれるので、仕事の事前準備や英検同様にただ、画面を観てその情報を視覚的に、聴覚的に理解するのが大変です。

 Olympicは始まるや否や、わりと急激に進むのでついていくのも大変で、今回は少しでも観れたらいいなあと思います。最近は気づけば1週間経っている。仕事していたら1ヶ月が非常に速いです。

 今日・明日には体操の団体決勝なのですねー。
 深夜なので、なかなかです。

 不眠と過眠ミックスなので観られる可能性はあるけど。

 仕事をしていると何かかもしれないけれど、今日はお休みなので何の意味もない1日です。そもそも生きてることに意味を求めるから、しんどくなることもある。今日は何の意味もない。毎日何の意味もないかもしれないけど。逆に毎日マイナスの意味の積み重ねとか、そう思い始めると本当に苦しい。

 (休職していた期間も何も意味がなかったのか。その時はそれが必要であり、逆に、何の意味もないというか、単に生きていた中に、例えば1週間に1度だとか、2週間に1度だとか、感動ってものを感じられるようになったのです。きっと心と体ににスペースが生まれたのでしょう)

 休職時に入院したことがあるのですが。最初はわりと元気(と言ったら変だけど)だったのに、ある時を機に、朝ごはん食べては眠り、お昼ご飯食べては眠り、ベッドの上にほぼほぼいた時期があります。毒が全部出て行って、今までの疲れを、体が『じゃ、そろそろ』って顔を出したのでしょうか。

 私は鬱と摂食障がいでは、やはり摂食障がいの症状のスペシャリスト(不本意すぎるけど、スペシャリスト的に全部わかっているので)なのですが、孤独って非常に敵だと思うんです。鬱もかなあ、鬱もだなー。孤独なんですよね。何というか、身近な人に理解があればそれは大きな助けだし、助けがないから助けを求めて、理解は得られない。なぜなら健常者には『がんばる』ことはよしとされていて、『仕事することは生きる上必須』とされていて、『食べること』は、当たり前にできることであり。『体重』って、本来人の評価の何かではないので。

 だから心の叫び的に誰もいない中で誰かに、助けを求めても、望み通りのことばなんて、返ってこない。それがまた孤独を生むのに、人は誰かに何かを求めて生きているものだから、完全に孤独になり切れない。

 山本文緒さんの『眠れるラプンツェル』は、『自転しながら公転する』が出版されるまで、『恋愛中毒』とともに、私の中の一番好きな作品でした。

 【眠れるラプンツェル】何度も書いて恐縮です。

 28歳の汐美は専業主婦。数年前に少しだけモデルをしていて、CMディレクターの夫に出逢う。結婚するが、夫は帰らなくなる。毎日ひとりで過ごす汐美。冷蔵庫には夫がいつ帰ってきてもいいようにたくさん詰め込まれている。(帰ってこないので破棄となるものも多い。夫が送る15万円きっちり汐美は使い切る。家賃や水道光熱費は、夫が別途支払っている)
 
 毎日毎日暇な汐美(暇だけど暇がベースなので、可燃ごみを4袋溜めるまでに朝起きれなかったりもする)。

 想像するに、
 家賃:15万
 水道光熱費:2万
 生活費:15万

 夫は汐美に与えていたので、何も考えず何も求めず暮らしていけば汐美は安泰だったでしょう。

 けれど、人は機械じゃない。お金の心配がなくて、家があって、それでも、好きな相手が自分の家なのに帰宅せず、帰宅すると聞かされて各所掃除して、ご飯3合炊いて、おさかなやお肉の在庫チェックして、いざ帰ってきた相手が洋服の替えだけ持って、去っていく。

 この積み重ねではひずみが生まれるでしょう。

 汐美は孤独がゆえ、隣人のダニー(仮名)、その息子のルフィオ(仮名・また、ダニーとは血の繋がりがない)とそれぞれ仲良くなる。

 この汐美が、初めてダニーとパチンコ屋さんで出会い話すシーンがあって。(確かパチンコ屋さんだったと思う)
 一緒に飲みに行って、『あなたには奥さんがいて』とか占い師みたいなこと言う(隣だから知っている。ダニーは汐美のことを知らなかった)。

 その後いろいろあって。

 翌日に汐美は思うんです。
 『結局、何もしなければ、平和だ』と。

 これ、すごいわかるなーって思って。
 孤独とは、人にとって最大の敵のように思います。
 何らかの(恐らくは目に見えない)原因により鬱だったり摂食障がいになってしまう奥には、表現できない心や孤独や、閉じ込めた心や我慢した気持ちや。そういう根本があるから、人は鬱や摂食障がいという、自分自身が克服したい何かのためにアクションを起こす。人に対して、だとか。

 それでいて、やはり気づく。何もしないほうが、平和だ、と。

 それでも続く孤独。
 汐美の場合は、この後、何もしなければ平和だった世界に、何かしてしまったので、いい時間も過ごすし、また根本的に解決になっていないので破滅を経験するけれど。汐美はきっと後何年がんばったら、辛うじて生きたら、いい未来がある。ルフィオがいるから。

 そういう小説で非常に好きです。
 (最近小説を読むとか見返すとか、確認するのもつらいので頭の中の記憶だけで書いています)

 鬱とか摂食障がい(私にとってはやはり摂食障がい、それも過食というところでしょうか)において、孤独は敵です。

 鬱とか摂食障がいにおいて、20年先を予測するのも難しいです(というより明日とか明後日)。なので、今日に何の意味も持たなくていい、それはわかっているのに、今日にじたばたします。今日乗り切れるのか、今日過食が来ないのか、今日。今日…って今日の私の自分を救う方法を考える。

 そして例えばアクション起こして。私の場合は、飲みに行っちゃうとかでしょう。

 そして、翌日、『何もしなければ平和なのに』それを繰り返すというか。

 完全なる解決ってきっと難しいのでしょう。
 
 でもどうしようもなく苦しい時に、やはり『何もしなければ』と後で後悔するよりも、何かあったから生きていけるってこともあるんだろうなーって。

 漠然と考えています。

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