「愛するということ」読んだ
「愛するということ」については、本を購入してはいたが何となく愛というものの定義が自分の中で固まり、他人からの意見によって変わることのないものまで考えられてから読もうと思っていた。つまり愛とは自分の考え方の根幹に根ざすものだと思っていて、そのオリジナリティを大事にしたいという気持ちと、同時に他人の意見によって定義がブレることを恐れていたからだ。自分の中で愛というものの考え方が固まるまで、と書いたが、今、愛というものの確固たる定義が自分の中で形成されているとは結論づけない。あったのは、あるちょっとした変化だった。
その変化とは、小説「西の魔女が死んだ」を読んだこと、プラス自分の生活というものを少し見直す機会があったということだ。
詳細については割愛するが、ざっくりまとめると「自分に自信を持つためには日々の生活の中で自分の決定に責任を持つことであるということ」を学んだ。この変化によって自分の考えは少し改善されたように感じる。それは今まで無意識的に続けてきた、自分の意思を軽んじること、環境のせいにして自分を守っていること、を自覚したということだ。
今までの自分は、周りに期待されているから勉強し、周りに期待されているからリーダーになり、周りに期待されているから働いていた。つまり自分の行動の起始が周りの環境にあると考えていた。それは周囲から見ると立派な行動であり、是正のきっかけは自分の内面にしかないのだからタチが悪い。どういうことかと言うと、勉強しても結果が出ない、リーダーとして適格でない、仕事が上手くできないといった負の結果が生じた時、自分の決定ではないという保険によって、その結果から自分を守れるように思考していたということだ。
このような行動が全て不健全であると決定するわけではない。正しい行いだと信じてきたからこそ、今の自分があるのであり、今までの思考の過程として、ぞんざいに卑下するものではない。しかし、拠り所とするところに少し改善の余地があったことは明確だと考えるようになった。
これは即ち、自分が自分を守ろうとする結果起こる思考であり、ほとんど自動的な反射のようなものなので、とくに自分の精神を守ろうとする反射について自覚することは難しかった。
(精神を守ろうとする反射について具体的な例を挙げると、
・誰彼にこう言われたから自分はこう行動する
→この行動の意思は自分ではなく他人からによって起こされたものであり、行動に結果が伴わなくても自分の責任ではないと思う
・この人が自分を好きで居てくれるから好きである
→ある人を好きという感情を他人から起こされたものにすることで、その人の自分への好意が無くなった時に自分も好意を無くすための理由として用意している)
今までの人生をまったくこのように生きてきた訳ではないが、このような考え方を自分の性格として認識することで、自動的に自分の精神を安定させてきた節がある。しかし、それは正確には自己防衛のための反射として自分に備わっていたものであり、性格とは性質が異なるものであるという風に考えることができる。
これは自分を守るためには確かに効果的だが、根底にある自分の意思を尊重していないという点で考慮する余地があるように思う。つまり、健全な思考というものは自分の意思の尊重にあり、自己決定権の行使とその結果に責任をもつことが、自分への信頼につながるということである。
また、人に向ける愛について、その愛は能動的で自分が与えるものであるから、まず自分の愛そのものを信じて疑わないということが大事だということだと書いていた。
自分の愛を疑う行為はすなわち人の愛を疑うことになり、それは本質的に愛するという行為を理解していないことになる。自分の意思決定を何かに寄与した結果だというふうに考えている限り、つまり自分の決定に対して誇りと責任をもつことが出来なければ、いわゆる真に愛するということには迫ることができない。
本書に関して、一つ疑問を持った点がある。それは、愛というものは対象に依るものではない、という主張だ。
言いたいことは分かる。愛というものは能動的で、内在的なものだから外的要因によって変化しないので、自分が真に愛を信じることが出来るのであれば、それは対象(外的要因)に依らないということだと思う。しかし、今の自分の考えでは自分が愛することのできない人というのが世界のほとんどであり、愛することが出来るようなイメージすらできない。これは問題だろうか?
記憶が正しければ聖書の一説に、汝を愛するように隣人を愛せという文言がある。今までこの文言は、自分に近しい人を形式的に愛することで不和の起こらないように立ち振る舞えという道徳の教えだと思っていたが、どうやら違うらしい。
真に愛するということは、例えば上記のようないわゆる普遍的な神の愛のことを言うのであり、それ以外の愛は未熟な愛であり、真の愛ではないと切って捨てられるような考えなのだろうか?それとも、まだ自分の愛に対する理解が足りていないだけなのだろうか。
これに関してはこれからの自分の精神の成長によって考えが変わるのかどうか、まだ分からない。
まとめると、愛するという行為を正しく行う為には、その準備段階としてまず自分の意思を尊重して結果に責任を持つという姿勢が不可欠である。これは即ち自分を愛し、自分の愛を信頼することである。他人への愛は、自分の愛を信頼して初めてその真に迫ることができる。他人への愛、もしくは他人からの愛に対して疑念が生じる時というのは、自分の愛を見直す機会である。
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