これがいわゆるHSPなのか。

今日ひらめいたことなので書き留める。私は自分が傷つきたくないのではない。傷ついてる人を見るのが怖かったのだ。他の誰でもない自分自身も離人感が出るくらい傷ついてきたのは認める。傷を持ってない人は居ないだろう。寄り添うことができてる人も居れば、隠してる人も居る。修復に時間がかかっても治してきた人もたくさんいると思う。

自分でも思考や感情はどこまで広がっているのか、どこに何が落ちているのか把握しきれない。ましてや他人のことなど分かるはずがない。一般的に言われる他所は他所。自分さえ良ければ、他人のことなどというのはこういう所からくるものなのだろう。別な人間なのだから当然だ。それが血縁であったとしても。

傷も形を変えれば性格の歪み、自己中、暴力、恐れ。きりがないくらいだ。人間だから、生きてるのだから当然のことだ、と言われればそれまでなのかもしれない。自分だってそうだ。いつからか、恐れるのではなく痛みを持ってでも正すメソッド、それかこちらの器を広げることの重要さを痛感してきたが根本はあの世まで傷を引きずるな、傷ついたままリタイアしてほしくないこういう想いが自分の中にあると気付いた。確かに傷つく事によっての修復までの過程の中での学びは大きなミッションとなる場合がある。しかしそれを人に押し付けたり周囲の雰囲気が悪くなるほどに自分を傷つけてはならないことも大事だと思っている。他人に訳の分からなくなったエゴを押し付けるような生き方は避けたい。いくら自分が恥ずかしくないと思っていたとしてもだ。役目があるのがまた酷だが役目はいつでも交代できる。気付きさえすれば。

いままではそういう人の言いなりになることが多かった。自分さえ傷ついて丸く収まるならと。しかしそうではない。自他ともに、良かったね良かったねと言い合えるシンプルな現状がベストだが、それだけの世の中ではない、それくらい傷ついてる人が多いのだ。他人への配慮が欠けるほど、追い込んではいけない。見てみぬふりはいけない。

しかしあれだけなぜ生きてるのか、ここはどこ私は誰状態だったのがこういう想いを持ってるんだという自己分析をして気付けたときにいろいろあったけどありすぎたけど自分は自分で良かったなと想えたことには驚いた。自身の性質に気付くことの重要さや、楽しさ癒しを求めるばかりではなくいまいちど立ち止まって内側に目を向けることが最短のシンプルな幸福なのかもしれない。


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