HSPのハッピーの作り方
みなさま、あけましておめでとうございます。
自己理解onteも5年目に突入した。
まさかの渋谷スクランブル交差をジュスト新年通過するとは思わなかった。所感80%が海外の人という感じだった。いったいいつもはどこにいる人たちなんだか。
巻き込まれずだた通過しただけだったけど、外苑前のBARに挨拶をし、大晦日ライブを楽しみ、渋谷のおしゃれなバーで年越しそばを食べた。
なにげなく、予告なく、誰かとただいるのが好き。
予約したり、予定に追われたり、誰かに催促されるなんてまっぴらごめん。
やっと私は私の心地よさと一緒にいられるようになってきた。
新年は旧友人に会う予定だったけど、会えるのが夜かもしれないとか曖昧なことを言われ、「夜になるなら、お土産置いて帰るね〜」なんて、半分断りの連絡もできた。待ち合わせまで私が待ちぼうけることなく、私は私の時間を満喫できた。
たった、それだけのことを今までできていなかっただけだと気づいた。
誰かに無理をいうでもなく、だからと言って相手が自分の思い通りにならないことにストレスを感じるでもなく、自分の考えを言うわけだけど、相手に媚びるわけでもなく、しかと伝える。
たったそれだけ。
一応、年齢も重ねたから言えるけど、HSPの「神経」に近い「気質」ってやつも年を重ねて落ち着いてきたのだと言える。これは大きい。
私の成長はHSPを通じて発達障害という存在を理解しようとしている点が世界に対して優しくなれた。
実は旧友との再会で話を聞くとオールグレーゾーンか!という悩みのオンパレートだった。あー、それは過集中、あーそれは、無関心、あーそれは第三の執着で、結果グレーゾーンの嘘になってるやつね。
驚くほど旧友の身のまわりに起きている人間関係のアレやソレが手に取れてびっくりした。そして、発達障害傾向の強い人はやはりマニアックな業界で重宝がられているし、低所得ながらキャリアもしかと積んでいた。
「え、じゃ、みんな発達障害じゃん!」と旧友に返されて、「んんん???」私も困惑した。
半分正解、半分不正解。
病院で認定される発達障害が何かはわからない。
ただ、私たちはどこまでも発達障害の「症状」「言動」を分解していくとみな持ち合わせている。HSPだからHSPの視点で言うと「過度の緊張」が発達障害の「神経」からくる症状に似ている。「過度の緊張」は通常の人も場面場面で持ち合わせる。その点ではみんな同じなのだ。
ただ、中長期の言動をみて発達障害と言われる人は「矛盾」を生じる。旧友の悩みもそこだった。仲良くなろうと近づいたら「理解ができない」だった。そして、それは「カサンドラ」と言っていい症状だった。
旧友には、「サリーとアン課題」について教えた。非常に驚いていた。また、驚いたのは、私が説明しながら混乱したことだった。去年一年間発達障害に寄ろうとした結果だと思える。「サリーはどこでビー玉を探すでしょう?」で、アンの箱を開ける、これがどれほど異常か、それを一旦「普通」と考えられる人がいると認識することで発達障害を理解しようとした。
これを「信念質問」というらしい。「心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する直観による心の機能のことである。」
ここまで来るとHSPはこれらにかなり忠実だ。だけど、世の中はこのん「心の理論」から外れた方が任務を実行しやすい業務も存在する。
世の中的には発達障害の性質もちゃんと求められているのだ。そう理解した時の自分の心のあり方はとても自由に感じた。
そう考えると「定型発達」も「発達障害(知能、身体においては端におく、あくまでグレーゾーンについて)」は世の仲のパイは違うけど、同じ立ち位置にいると言える。すべての人は良遇された環境に、個人を焦点に当てればそんなに万能に、そもそもいない。
いち早く、自分について気づいた人が、自分の階段を積み上げているそれだけのような気がする。もちろん、先人と自分のタイプが同じならば、残された環境は有効だが、結局は0から生まれ、自己確認の作業に、主体的な経験を積んでいかないといけない。その期間は人はわがままでなければいけない。しかも社会のコミュニティに属した状態でそれをするのはもうすでに非常識とされる(←だいたいここで問題の発達障害はやらかす)。
「その期間」というものがあるのあらば、私たちは親から受けた教育期間に重要な依存が生じる。ここを間違った人が「迷惑」ならば、まだ可愛い「犠牲」を作る人もいる。「気質」や「神経」を理解してあげることも大事だけど、やはり別に、世の中のルールとして親の教育が大事だと言うことを、発達障害の両親もたいてい偏っていることからわかってきた。
ここからは根が深いから、追求の場を民俗学的な方向に今年変えて行こう思う。
実は、神社、お寺へのお願い事は、この根の深い習慣から私たちを救済されるようにできているように見えてきた。
つまり、お願いの仕方で、定型発達、発達障害が分かれてくるくらい「自分自神」との対話が展開されているのだ。そして、そこをスタートラインとすると「問題のないできる発達障害」と「無気力無害の定型発達」の姿が見えてくる。
人類学では、うまく切り離せなかった世論が民俗学から、御神体への願いを通じてやっと私の見たい仕分けに繋がろうとしている。
医学がどうと言う前に私たちの習慣は、えげつない精神病の隔離などとは違う方法で人を生かすこともしてきたのでは?と今希望をいただいているのである。
ただ、ほとんど失われているけど。
掘り起こし作業開始。