横須賀のミュージアムに行こう!【オススメ13選】
小泉首相を輩出した街、横須賀
東京湾の入り口に位置し、三浦半島の北半分を占め、西側は相模湾に面する神奈川県横須賀市は横浜市、川崎市、相模原市、藤沢市に次いで、県内第5位の都市だ。
浦賀水道から東京湾に入る要衝にあるため、江戸時代から交通の要所、国防の拠点となり、戦前には海軍横須賀鎮守府や横須賀海軍工廠(工廠は軍隊直属の軍需工場のことで、武器・弾薬、軍事車両、軍艦などの開発、製造、修理をし、貯蔵・補給するための施設)が置かれ、軍港都市(軍都)として栄えた。
幕末にマシュー・ペリーが来航したのは横須賀の浦賀で、上陸したのは横須賀の久里浜であった。
戦後も、アメリカ海軍第7艦隊・横須賀海軍施設が置かれ、海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊、陸上自衛隊武山駐屯地・久里浜駐屯地、航空自衛隊武山分屯基地、防衛大学校などがあり、軍都としての役割は続いている。
東京まで電車で1時間ほどの距離にあり、ベッドタウンとして人口は増えたが、1992年の43万人強をピークに、2023年には37万人強と、人口は減少。
横須賀市は、小泉純一郎という総理大臣を輩出した都市であり、2人目の小泉進次郎総理の誕生も期待されている。
横須賀選出の議員が、鷲、虎、龍などの派手な刺繍が施されたスカジャン(横須賀ジャンパー)を着たり、横須賀海軍カレーを食べたりと、パフォーマンスする姿が印象的だ。
横須賀市民は郷土愛、地元愛が強いと言われているが、ミュージアムに関心がある者からすると、「横須賀の伝統、横須賀が持つ資産を本当に大切にしているのか」と思ってしまう。
横須賀で一生を終えた井上成美の記念館が消滅
1つは日露戦争の日本海海戦で旗艦だった「三笠」の扱い。詳細は「世界三大記念艦『三笠』」で触れているが、敗戦後、連合国側から武装解除を突き付けられ、当時、記念艦として保存されていた三笠を「廃棄せよ」との声が挙がった。
だが、艦橋、大砲、煙突などを取り除くことを条件に存続が認められ、管理は横須賀市に任された。
ところが、横須賀市が運営を委託した民間企業がどんでもない会社だった。大砲などを売り飛ばし、艦船は錆で廃墟のように姿になってしまった。
三笠を建造したのはイギリスの造船会社で、三笠の悲惨な姿を見たイギリス人が惨状を英字紙の「ジャパンタイムス」に投稿。これをきっかけに、全国的な「三笠復元運動」が動き出す。
横須賀市や横須賀の政治家は何をしていたのだろうか。横須賀市の観光資産であるはずの記念艦をぞんざいに扱い、しかも外国人に問題を指摘されるまで放置していたなんて。地元の政治家はなぜ動かなかったのか。
2つ目は、日独伊三国同盟の締結、対米開戦に真っ向から反対した「海軍三羽烏」と呼ばれた米内光政、山本五十六、井上成美の井上成美に対する扱いだ。
井上は語学が堪能で、アドルフ・ヒトラーが書いた『我が闘争』の原書を読み、「日本人は、想像力のない劣った民族だが、小器用で、ドイツ人が手足として使うには便利だ」という一文が、訳本では省略されていることに気付いた。
陸軍が進める三国同盟、それに同調する海軍内のヒトラー礼賛者に、ドイツと組むべきではない、ヨーロッパで起きているドイツと米英との対立に巻き込まれる、と警鐘を鳴らした人物だ。
日米開戦前から国力の差でアメリカに負けると考え、戦時中、早く戦争を終わらせないと、日本、日本人は破滅の道を歩むことになると、海軍大臣だった米内光政の許可を得て、東条英機の暗殺計画を立案したことがある海軍省教育局長だった高木惣吉に指令を出し、政界、財界、皇室などと連絡を取らせ、終戦工作に当たらせている。
戦後は清貧の生活をし、亡くなるまでの30年間、横須賀で暮らした。井上夫妻の死後、自宅は「井上成美記念館」として公開されていたが、老朽化が進み、取り壊されて別荘に姿を変えることになった。
横須賀市は、「井上成美のミュージアム」をなぜ開設できなかったのか。米内光政、山本五十六、高木惣吉には、それぞれ「記念館」がゆかりの都市に開設されている。
盛岡市先人記念館(米内光政)
岩手県盛岡市本宮字蛇屋敷2-2
019-659-3338
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 最終火曜日 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 300円
https://www.mfca.jp/senjin/
山本五十六記念館
新潟県長岡市呉服町1-4-1
0258-37-8001
休館日 年末年始
10:00~17:00 500円
http://yamamoto-isoroku.com/
高木惣吉紀念館
熊本県人吉市矢黒町1970-5
0966-22-3637(いわくらの杜)
080-5804-0784(館長の川越)
予約制 500円
https://peraichi.com/landing_pages/view/soukichi/
文化遺産、観光資産を有機的につなごう
横須賀市への不満の3つ目は「よこすかルートミュージアム」というサイトを開設しているのだが、有機的なつながりがなく、「勝手にそれぞれ訪ねてください」という態度。
よこすかルートミュージアムというのは、 横須賀に点在する開国から近代化、軍都へとつながる歴史や文化の見どころ、自然豊かなスポットを「サテライト」と呼び、 それらを「ルート」でつなぐことで横須賀市内全体を大きな「ミュージアム」としてとらえる横須賀の取組みだ。
「よこすかルートミュージアム」
あなたの選んだ「ルート」が「ミュージアム」になる
とキャッチコピーで謳っているが、足(交通手段)が用意されていない。
仙台市(宮城県)、福島市、松本市(長野県)、金沢市(石川県)などは、市民も観光客も利用できる巡回バスがあり、名所、観光スポット、ミュージアムなどを定時で回っている。
観光資産の1つ、住友重機械工業が無償で寄付した浦賀ドックは通常、公開されておらず、旅行代理店のツアーに組み込まれたときぐらいしか見学できない。
休日など、集客しやすいときに、横須賀の見どころを詰め込んだツアーを開催すれば、利用者は増え、観光資産を活用できるのではないか。
金沢市では、金沢文化振興財団が17の施設を利用できるパスポートを発行しており、1DAYパスポートが520円、3DAYパスポートが830円で販売されている。
金沢市文化施設共通観覧券
「城下まち金沢周遊バス」(北陸鉄道)が15分おきに運行しており、金沢市内1日フリー乗車券は大人800円だ。
横須賀市は、文化遺産や観光資産を数多く持っているのだから、うまく活用し、偉大な先人を掘り起こして紹介し、訪れる人々の満足度を上げる取組みをしてもらいたい。
全国には廃校になった学校をミュージアムとして活用するケースも多い。「小栗上野介記念館」「井上成美記念館」などを網羅して、「横須賀先人記念館」を交通の便のいいところに開設してほしい。
横須賀市自然・人文博物館
神奈川県横須賀市深田台95
046-824-3688
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:00 無料
自然博物館と人文博物館の2つのミュージアムを持ち、住宅地に位置する横須賀市営の博物館で、約15万点の収蔵品、資料を有する。
自然系の博物館では、三浦半島の自然、三浦半島をとりまく地形、深海から生まれた三浦半島を紹介し、三浦半島の森林と海岸のジオラマ、ナウマン象、珍しい標本などを展示。
「美しい石」では、菱マンガン鉱を見ることができる。結晶が菱型であることから名付けられ、マンガンを得るための主要な鉱石で、ロードクロサイトとも呼ばれる。色が美しいものは半貴石として宝飾用途や収集目的で取引され、鉱物収集家の間で人気が高い。
人文系では、国指定重要有形民俗文化財の「三浦半島の魚撈用具」をはじめ、17~19世紀の国際情勢、江戸時代の漁師の家、幕末からの近代化と都市化、ペリーの浦賀への来航、横須賀製鉄所のあゆみ、横須賀港の歴史などの歴史資料や写真を展示。
「17~19世紀の和洋船と浦賀――海を切り拓いた人たち」のコーナーには、徳川家康に外交顧問として仕え、相模国三浦に領地を与えられ、三浦按針と名乗ったイギリス人、ウィリアム・アダムスや、横須賀製鉄所の開設・運営に尽力した小栗上野介忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像があり、功績が紹介されている。
映像コーナーでは、横須賀製鉄所の3D映像やペリー来航に関する画像を大画面で楽しめ、映像資料の閲覧にも力を入れている。
ヴェルニー記念館
神奈川県横須賀市東逸見町1-1
046-824-1800
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:00 無料
日本の近代化を支援したフランスの技術者、レオンス・ヴェルニーの功績と、横須賀製鉄所の意義を後世に伝えるためのミュージアムで、2002(平成14)年に開館。
外国奉行や勘定奉行を歴任し、横須賀製鉄所の建設を発案した小栗上野介忠順とヴェルニーの像がヴェルニー公園に並んで建っている。江戸幕府の要請で、横須賀製鉄所の首長として来日したヴェルニーは、1865(元治2)年から1876(明治9)年まで横須賀製鉄所(横須賀造船所と改名、1903年に横須賀海軍工廠になり、軍艦などを製造)の建設、運営に携わった。
明治新政府になってからも日本の滞在し、日本初の西洋式灯台の観音埼灯台の設計(1869、明治2年)、技術者養成学校の黌舎の開設(1870、明治3年)、完成した船の修理を行う第1号ドック(1871年に名称を横須賀製鉄所から横須賀造船所に改称)の完成など、近代化に尽力。
技術者養成のための「黌舎」では造船技術、機械工学、製図法などを教え、人材育成に寄与。後に工部大学校に吸収され、東京帝国大学工学部造船学科に受け継がれ、造船技術者を輩出した。
横須賀製鉄所の跡地は現在、米海軍の横須賀基地になっているが、対岸にあるヴェルニー公園にある、急傾斜の屋根と石の壁の建物がヴェルニー記念館で、蒸気の力でハンマーを上下させるスチームハンマーや工具などを紹介。
1860(万延元)年の遣米使節に随行し、アメリカで造船所や製鉄所を見学した小栗は、帰国後、日本の近代化のために船を修理し、さらに船を造る最新技術と施設が必要になると痛感し、4年間に渡って幕府に提案し続けて、実現したのが横須賀製鉄所だった。
小栗忠順は、明治新政府軍によって言われなき罪を着せられ、1868年に41歳の若さで、子どもや家臣とともに殺された。
1905(明治38)年、東郷平八郎率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破り、日本海海戦で勝利を収めたが、東郷は後に、小栗の遺族を自宅に招いて、以下のような言葉で礼を述べた。
「日露戦争の日本海海戦でロシア艦隊に勝つことができたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」
幕末、徳川幕府や雄藩は武器や船を競うように欧米から購入したが、近代的な船を造る技術を持っていなければ、船の修理もできない。小栗はこのように判断し、横須賀製鉄所は日本の近代化の礎となった。
よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸
神奈川県横須賀市汐入町1-1-1 ヴェルニー公園内
046-827-7003
年中無休
9:00~17:00 無料 シアターは有料で1種類200円。事前予約可
フランス人のジュール・セザール・クロード・ティボディエは1869(明治2)年、横須賀製鉄所の副首長となり、船の修理や製造など技術、産業面の監督を担い、首長のレオンス・ヴェルニーが休暇帰国中は経営・事務の代理を務めた人物だ。
ティボディエ邸は、1869年頃に建てられ、2003(平成15)年に解体されるまで、本州で最古級の西洋館だった。
西洋の木造建築では屋根の重さを受ける小屋組みに、木材をM字型に組む「キングポストトラス」構法が多く用いられるが、旧ティボディエ邸解体時に保存した当時の部材を用いて復元。トラス構法は、明治期に横浜や神戸などで建てられた西洋館にも用いられている。
ティボディエ邸の館内には、横須賀の近代遺産や自然や海などの多彩な見どころを紹介し、日本の近代化が横須賀から始まったことを伝えるパネルや、横須賀製鉄所の歩みが分かる品々や資料を展示。
「横須賀ことはじめゾーン」では横須賀製鉄所で使われ、全国に広まったメートル法、尺貫法、木骨煉瓦構造など言葉を披露している。
目と耳で感じる体験型シアターでは、最新のコンピュータ・グラフィックス(CG)技術と案内人によるガイドで、「横須賀造船所めぐり」「黒船来航」の2種類のコンテンツを楽しめ、1887(明治20)年当時の横須賀造船所(旧・横須賀製鉄所)にタイムスリップできる。
世界三大記念艦「三笠」
神奈川県横須賀市稲岡町82-19
046-822-5225
休館日 年末
9:00~17:30(入館は17:00まで) 4月~9月
9:00~17:00(入館は16:30まで) 3月、10月
9:00~16:30(入館は16:00まで) 11月~2月 600円
1894(明治27)年~1895年の日清戦争に勝利した日本は、下関条約により清国から遼東半島を賠償として割譲されたが、強力な軍事力を極東に展開していた露(ロシア)独(ドイツ)仏(フランス)の三国の干渉を受け、遼東半島を清国に返還することになった。
欧米列強の軍事的脅威から主権と領土を守るためには、軍事力の強化が急務と判断した時の政府は、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊整備計画」を推進。
戦艦「三笠」は英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦で、1902(明治35)年に竣工し、横須賀に回航された。
日露関係が悪化し、戦時体制に移行した1903年、三笠は連合艦隊に編入されて、旗艦となった。1904年に日露戦争が始まり、翌年、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で破ったときに、東郷平八郎司令長官は三笠に乗艦して指揮を執った。
その後、ワシントン海軍軍縮条約が1922(大正11)年に締結され、日・米・英・仏・伊の5カ国の主力艦保有数を制限することになった。
艦齢の古い「三笠」は軍艦から除き、廃棄を決定。しかし、日露戦争の勝利に貢献した戦艦「三笠」は国の独立を守った象徴として残すべきとの声が内外で高まり、条約調印各国の同意を得た上で、1926(大正15)年、記念艦として保存された。
第二次世界大戦に敗戦した日本は武装解除が求められ、武器、戦艦などは廃棄された。ソ連は三笠の解体を強硬に主張したが、米海軍司令部は艦橋、大砲、煙突、マストなどの撤去を条件に、横須賀市に保存・使用を許可した。
横須賀市から三笠と周辺地の使用を委託された民間企業は、水族館、ダンスホールなど娯楽施設を設置。三笠の近くに保管されていた大砲、マストなどを売却し、遊興施設として利用していた。
施設は一時、客が来たものの、客足は遠のき、錆まみれの鉄屑同然の悲惨な姿となっていた。無責任な民間企業に、横須賀市はなぜ委託したのか、不思議である。
三笠建造時の乗組員と親交が深かった英国の貿易商、ジョン・ルービンは三笠の惨状を嘆き、1955(昭和30)年に英字紙の「ジャパンタイムス」に投稿した。これがきっかけとなり、全国的な規模で「三笠復元運動」が始まった。
1961年に往時の姿を取り戻し、艦内では「三笠紹介ビデオ」を上映。日露戦争で連合艦隊の旗艦として日本海海戦を戦った三笠は、現存する世界最古の鋼鉄戦艦で、日本遺産の構成文化財に認定されている。
三笠は「世界の三大記念艦」の1つ。自国の独立を守るための重要な海戦で戦って歴史的勝利を収めた記念すべき3隻の軍艦を指し、残りの2つは、フランス・スペインの連合艦隊を破ったイギリスの「ヴィクトリー」と、1812年から3年間続いた米英戦争で戦果を上げたアメリカの「コンスティチューション」である。
横須賀美術館
神奈川県横須賀市鴨居4-1
046-845-1211
休館日 第1月曜日(祝日の場合は開館。振り替え休館あり) 年末年始
10:00~18:00 所蔵品展(本館地階)・谷内六郎館380円 企画展は料金が異なる
横須賀市の市制100周年を記念し、2007(平成19)年に横須賀美術館が開館。県立観音崎公園の豊かな自然が三方を囲み、目の前に東京湾が広がる風光明媚な場所にあり、周辺の観音埼灯台や砲台跡などを散策できる。
地階の所蔵品展示室では日本の近代美術約5000点の中から選んだ所蔵品を展示しており、1階の企画展示室では、海外の美術、日本の近現代美術など、多彩な展覧会を年に6回開催している。
別館の谷内六郎館は、ノスタルジックな昭和の風景を描いた谷内六郎の作品が年に4回、展示替えをしながら披露される。
谷内は1971年に横須賀市の観音埼灯台で1日灯台長を務め、家族と共に何度も横須賀を訪れ、1975年には観音崎公園に近い場所にアトリエを構えた。
『週刊新潮』の創刊号から表紙絵を担当し、1956年から描き続け、1981年、59歳で亡くなった。
表紙絵は、顔料などの固形分が多く含まれる不透明水彩絵の具を使って描かれていて、下に塗った色の上に、別の色を塗ることができる。実物の網やレース、砂などを使い、画面に素材を貼り付け、それに絵の具を加えた表紙絵も制作しており、テーマに合わせてさまざまな表現を試していた。
遺族から『週刊新潮』の表紙原画約1300点をはじめ、膨大な関連資料と作品が1998年に寄贈され、2007年に谷内六郎館がオープン。表紙絵には1枚につき約400字の「表紙の言葉」が残されており、「表紙の言葉」も併せて展示している。
昭和の懐かしい風景や活き活きとした子どもたちの様子を描いた谷内六郎作品にひたることができ、「谷内六郎 紹介動画」を横須賀美術館のホームページで紹介している。
カスヤの森現代美術館
神奈川県横須賀市平作7-12-13
046-852-3030
休館日 月曜日 火曜日 水曜日(展示替えの週を除く)
10:00~17:30 800円
カスヤの森現代美術館は、美術家の若江漢字が開設した私設の現代美術館で、1994(平成6)年に開館した。
横須賀市で生まれた若江は、1974(昭和49)年の東京国際版画ビエンナーレで受賞し、翌年の展覧会を機に西ドイツ、オランダに滞在して活動。
文化庁芸術家在外研究員として1982年~1983年にドイツのヴッパタール総合制大学で学び、1988年~1995にわたりヴッパタール市と横須賀市でアーティスト活動を続けた。
美術館を開設したのは、当時、横須賀に美術館なく、一方、ヴッパタール市は小都市なのに、美術館、オーケストラ、サッカークラブチームがあり、文化の格差にショックを受けたことだった。構想から20年、作品をコツコツ集めて、美術館を作り上げた。
カスヤの森現代美術館には、ドイツの現代美術家、彫刻家、音楽家で政治活動家のヨーゼフ・ボイスや、韓国で生まれ朝鮮戦争の戦禍を免れて日本に住み、アメリカで活躍した現代美術家のナム・ジュン・パイク、韓国生まれで日本を拠点に世界的に活動している美術家の李 禹煥(リ ウファン)のなどの作品を常設展示している。
ボイスは「私たちはみなアーティストである」「芸術家の使命は社会を変革することだ」という言葉で知られ、ドローイング(短時間に線で表現していたもの)、彫刻、パフォーマンスと、幅広い表現手法で活動した美術家だ。ボイスの作品を数多く収蔵している。
企画展は、現代美術に接する機会を増やし、作品から感じ取ってもらえることを念頭に開催し、気鋭の作家の個展なども開く。シンポジウムやコンサートなども行っており、竹林に囲まれたティーラウンジではゆったりとした時間を過ごせる。
ペリー記念館
神奈川県横須賀市久里浜7-14
046-834-7531
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~16:30 無料
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/4130/sisetu/fc00000442.html
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊の艦船4隻が日本に来航し、江戸湾の入り口の浦賀(横須賀市)沖に停泊。
江戸幕府はペリー一行の久里浜(横須賀市)への上陸を認め、アメリカ合衆国ミラード・フィルモア大統領の国書を受け取り、翌年、日米和親条約を締結。200年以上続いた鎖国政策を転換し、開国する。
フィルモア大統領の国書には、2国間の貿易、薪、水、食料などの補給のため港の開港、捕鯨船の遭難者の保護などの要望が書かれていた。
ペリー上陸を記念して作られた歴史公園のペリー公園にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館などがある。ペリー上陸記念碑は1901(明治34)年に建立したもので、碑文は伊藤博文が揮毫。毎年7月中旬に「久里浜ペリー祭」の式典が行われる。
ペリー記念館は横須賀市市制80周年を記念して、1987(昭和62)年に開館。ペリー来航と開国の歴史を広く伝えるため、ペリー関連の資料、ペリーの上陸を描いた絵巻物、黒船の概要を記した古文書、瓦版(当時の新聞)、軍艦の模型、当時の文化や風習を伝える資料を展示する。
浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)
神奈川県横須賀市浦賀7-2-1
046-842-4121
休館日 年末年始
8:30~17:00 無料
江戸幕府の役職の1つに遠国奉行があり、江戸以外の幕府直轄領(天領))の中で重要な場所に置かれ、その地域の政務を行った。有名なのは長崎奉行、京都町奉行、大坂町奉行、駿府町奉行など。
浦賀には1720(享保5)年に奉行所が置かれた。伊豆下田に1616(元和2)年、奉行が設置されたが、江戸湾での経済活動が活発になり、江戸湾に入る船舶の監視や積荷の検査のため浦賀に移転。
19世紀になって、外国船が日本近海に来航するようになり、浦賀奉行は江戸湾の警備も担うようになった。
マシュー・ペリーが艦船4隻を率いて来航したのは江戸湾の入口、浦賀だった。このとき江戸湾の奥深くまで侵入し、測量を行っている。
ペリー来航の3カ月後、江戸幕府は「大船建造の禁」を解き、浦賀造船所を設置。軍艦の建造に着手し、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を9カ月で完成させた。浦賀奉行所の与力、中島三郎助らに軍艦を造れと命じたことがきっかけだ。
1859(安政6)年に日本初のドライ(乾)ドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の整備も行われた。ドライドックは、船体の検査や修理のために水を抜くことができるドックのことで、船渠とも呼ぶ。「ドック」と言えば、「ドライドック」を指す。
小栗上野介忠順の進言によって、1865(慶応元)年、横須賀港に横須賀製鉄所の建設が決まり(後の横須賀造船所。さらに横須賀海軍工廠になった)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876(明治9)年に閉鎖された。
しかし、中島三郎助らの意志を継いで、1897(明治30)年に浦賀船渠(通称・浦賀ドック)が設立され、浦賀造船所があった場所に工場を建設。1899年から艦船の修理と建造を開始。
同じ時期、浦賀に建設された東京石川島造船所(現・IHI)の浦賀分工場との間で、受注合戦を繰り広げ、ダンピング(不当廉売)で両社の経営は悪化。浦賀船渠が石川島の浦賀分工場を買収することで決着が付き、自社工場として使っている。
戦後、浦賀船渠は住友機械工業(住友重機械工業の前身)と合併し、追浜造船所(現・横須賀造船所)を開設。浦賀ドックでは民間船の建造を行い、2003(平成15)年に閉鎖。浦賀ドックとその周辺部は住友重機械工業から2021(令和3)年、横須賀市に無償で寄付された。
浦賀コミュニティセンター分館は、浦賀船渠(浦賀ドック)の迎賓館であった表倶楽部跡地に、浦賀地域の歴史と文化を学習する場として1982(昭和57)年に誕生。
横須賀市で最初の本格的な常設展示室を持つ文化センターで、貴重な文化財を展示し、浦賀公民館(現・浦賀コミュニティセンター)の分館としての機能も併せ持っていた。
奉行所が浦賀に設置されて300周年を迎えた2020(令和2)年にリニューアルし、浦賀奉行所に関する解説や模型の展示を充実させた。ペリー来航時に活躍した浦賀奉行与力の中島三郎助や浦賀船渠の歴史など、浦賀が歩んできた道を紹介する。
煉瓦造りのドックで現存しているのは世界で4カ所。そのうち、浦賀には浦賀ドックと旧・石川島造船所の川間ドックの2カ所が残っている。
横須賀市に寄贈された浦賀ドックは通常、見学できず、バスツアーなどでの観光や撮影で施設を使用する場合だけ活用されている。
https://www.wakuwaku-yokosuka.jp/special.php?ID=51
陸上自衛隊 久里浜駐屯地「歴史館」ギャラリー Webミュージアム
神奈川県横須賀市久比里2-1-1
046-841-3300
久里浜駐屯地は1939(昭和14)年、旧海軍通信学校として開設され、1950(昭和25)年に発足した警察予備隊(自衛隊の前身)から続く自衛隊最古の駐屯地だ。駐屯部隊には2024(令和6)年3月に改編した「システム通信・サイバー学校」のほか、「通信教導隊」などがある。
駐屯地内には「歴史館」が併設され、旧海軍時代の通信装備などが展示され、Webミュージアムで通信機材、ラジオ受信機、営内の生活風景や訓練の写真などを見ることができる。
https://www.mod.go.jp/gsdf/sigsch/rekisikan/index.html
無線歴史展示室 横須賀リサーチパーク
神奈川県横須賀市光の丘3-4 YRPセンター1番館内
046-847-5000
休館日 土曜日 日曜日 祝日
9:00~17:00 無料 完全予約制
横須賀リサーチパーク(YRP)は携帯電話の国際規格を世界統一するために1997(平成9)年に設立された研究拠点で、公的研究機関、大学の研究室、国内外の企業が集積し、第3世代携帯電話を2001年に誕生させた。
第3世代携帯電話は、アナログ携帯電話の第1世代、デジタル携帯電話の第2世代に次ぐ第3世代(3G)の携帯電話で、高速データ通信が可能になった。無線歴史展示室では無線通信の歴史への理解を深めるため、横須賀リサーチパークの企業を中心に、無線通信に関する歴史的資料を展示している。
★NTTドコモR&Dセンター展示ホール「WHARF」 休館
神奈川県横須賀市光の丘3-5 横須賀リサーチパークYRP 研究開発ゾーン
046-840-3946
休館日 土曜日 日曜日 祝日 ゴールデンウィーク お盆 年末年始
1回目:10:00〜11:30 2回目:13:00〜14:30 3回目:15:00〜16:30
ドコモのR&Dセンターは将来の移動通信とスマートライフを実感できる体験型展示ホール「WHARF」を1997年に開設。「ドコモの描く未来の世界(2020年ビジョン)」と題する映像を見て見学し、将来の移動通信をさまざまな形で体験できるように展示、紹介してきたが、2022年に休館。
NTTドコモやNTTの通信技術の歴史を知るには、以下の2カ所のミュージアムがある。
NTTドコモ歴史展示スクエア
東京都墨田区横網1-9-2 NTTドコモ墨田ビル1階
03-6658-3535
休館日 日曜日 月曜日 祝日 年末年始
10:00~17:00 無料
http://history-s.nttdocomo.co.jp/
NTT技術史料館
東京都武蔵野市緑町3-9-11 NTT武蔵野研究開発センタ
0422-59-3311
休館日 土曜日~水曜日 祝日 年末年始
13:00~17:00
https://hct.lab.gvm-jp.groupis-ex.ntt/
長岡半太郎記念館・若山牧水資料館
神奈川県横須賀市長沢2-6-8
046-848-5563
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~12:00 13:00~16:00 無料
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2494/sisetu/fc00000328.html
長崎県に生まれた物理学者、長岡半太郎は東京帝大教授、大阪帝大初代総長などを歴任し、明治、大正、昭和にわたって物理学に先覚として活躍。世界で初めて土星型原子模型を提唱するなど、日本の物理学の発展と人材育成に寄与した。
1937(昭和12)年に第1回文化勲章を受章。長岡半太郎(物理学)の他、第1回受賞者は本多光太郎(金属物理学)、木村栄(地球物理学)、佐佐木信綱(和歌・和歌史)、幸田露伴(小説)、岡田三郎助(洋画)、藤島武二(洋画)、竹内栖鳳(日本画)、横山大観(日本画)の9人。
長岡半太郎は、横須賀にあった農家を土地付きで買い取り、1950年に亡くなるまで別荘として、風光明媚な北下浦の海岸近くに住んでいた。長岡家の跡地に、京浜急行が記念館を建てて横須賀市に寄贈。記念館には長岡愛用の机、渡航かばん、直筆の雑記帳、レポート類が展示されている。
歌人の若山牧水は宮崎県(現在の日向市)の医者の家に生まれ、中学校時代から短歌と俳句を詠む。早稲田大学に入学し、福岡県柳川出身の北原射水(後の白秋)、福岡県出身の中林蘇水と親しく交わり「早稲田の三水」と呼ばれた。
歌人仲間であった喜志子と結婚し、長男の旅人が生まれるが、喜志子の体調がすぐれず、医者の勧めもあって1年後、神奈川県の長沢に移り住んだ。
「漂白の歌人」と言われ、旅と酒を愛した牧水だが、温暖な気候の地での生活、地域の人々との触れ合いで、喜志子の健康も回復し、長女のみさきが生まれた。この地で多くの歌を残している。
長沢に住んだのは1年10カ月で、若山牧水一家は東京・小石川に引揚げて行くが、横須賀市は長岡半太郎と若山牧水の記念碑を建て、長岡半太郎記念館・若山牧水資料館を開館。
若山牧水資料館には、書家としても有名な牧水の書や直筆の手紙などを公開。記念館・資料館前の海岸は公園として整備され、牧水の歌碑がある。
牧水の「しら鳥はかなしからずやそらの青海のあをにもそまずたゞよふ」、歌碑の背面に、喜志子夫人の「うちけぶり鋸山も浮かび来と今日のみちしほふくらみ寄する」の歌が刻まれている。
長岡半太郎と若山牧水は直接関係ないが、「北下浦」で過ごしたことがあり、横須賀ゆかりの人物としてミュージアムを開設した。
若山牧水が生まれた宮崎県日向市に「若山牧水記念文学館」があり、晩年を過ごした静岡県沼津市に「沼津市若山牧水記念館」がある。
若山牧水記念文学館
宮崎県日向市東郷町坪谷1271
0982-68-9511
休館日 月曜日(祝日の場合は開館) 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 310円
https://www.bokusui.jp/museum/
沼津市若山牧水記念館
静岡県沼津市千本郷林1907-11
055-962-0424
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 200円
http://web.thn.jp/bokusui/
★井上成美記念館 閉館
海軍大臣や内閣総理大臣を歴任した米内光政、海軍次官や連合艦隊司令長官を務めた山本五十六と共に「日独伊三国同盟」の締結やアメリカとの戦争に反対し、終戦3ヶ月前、何度も断わってきた「海軍大将」となった井上成美。
米英と対立しているドイツと手を結ぶと、日米の対立を深め、国、国民を危うくすると、ドイツとの同盟に反対。
ドイツ語に堪能な井上はアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』の原書を読み、その中で「日本人は、想像力のない劣った民族だが、小器用で、ドイツ人が手足として使うには便利だ」という一文が、訳本で省略されていることを知り、軍の内部で警鐘を鳴らした。
日米開戦前から国力の差でアメリカに負けると考え、戦時中には、東条英機の暗殺計画を立案したことがある海軍省教育局長だった高木惣吉に密命で終戦工作に当たらせている。
終戦直後、軍人の割腹自殺や自決が続く中、自殺は自己満足であり、自殺の流行は国家の損失、有終の美を飾るように行動すべきと発言し、自らも律する生き方を続けた。
井上は妻の病気療養のために横須賀市の長井に1936(昭和11)年、木造平屋建ての自宅を建てたが、完成前に妻は逝去。留守がちだった自宅に、戦後、井上は住んだ。
軍人として責任を取る意味で赤貧の生活を送り、わずかな収入を得るため英語塾を開き、相場の5分の1ほどで、近所の子どもたちに教えていた。
生活に窮していることが報道されると、元部下や、校長をしていた江田島の海軍兵学校の卒業生が企業などへの就職を勧めるも、受け入れなかった。
英語塾で教えを受けていた生徒の思い出話を残されている。
英語塾の中休みに、おやつが出た。後になって分かったことだが、身の回りの世話をしていた女性が、井上の持ち物を鎌倉の質屋に持って行き、お金に換えていた。井上は「子どもも可愛いが、海軍の軍帽だけは残してくれ」と話していたという。
戦後8年経った1953年、井上は胃潰瘍で入院し、英語塾も閉鎖された。長年世話になった女性と再婚し、この年から軍人恩給が受けられるようになった。
1975年、井上は86歳で亡くなり、1年半後に夫人も死去。2人の没後、自宅は保存され「井上成美記念館」として公開されていたが、2011年3月の東日本大震災の被害により閉館。老朽化した旧井上邸は解体され、跡地には別荘が建てられる。
旧井上邸の「井上成美記念館」は閉館となったが、井上成美の遺品の一部が「ガレージ文庫横須賀西」で保管され、展示している。井上成美記念館については、以下の「横須賀~井上成美記念館など」で、写真とともに紹介されている。
私設図書館 ガレージ文庫横須賀西
神奈川県横須賀市長井3-48-16
090-1259-0360 平間博彦館長の携帯電話
週末・休日を中心に不定期で公開 利用は無料
三浦半島の西海岸、横須賀市の長井にあるガレージ書庫で、明治から昭和に至る近代史、外交史、軍事史、特に海軍や海上自衛隊、横須賀に関連する書籍中心に当時の資料など約3000点を収蔵する。
戦後、横須賀で余生を送った最後の海軍大将、井上成美ゆかりの品も収蔵しており、歴史の研究や、横須賀・三浦地域活性化の活動をしている人などに公開。
館長の父親の平間洋一(元海将補、元防衛大学校教授)の蔵書・著書を中心に収集。井上成美ゆかりの品は「井上成美氏を語り継ぐ会」からの寄託品。