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98歳祖父の、長い長い思い出ばなし

夢を見た。
率直に言って夢の内容自体は全く面白く無く、ヤマもオチも存在せぬまま、テキトーな場所で目が覚めた。夢って大体そんなモンよね。
それでもつまらん夢の話をこの記事の冒頭に出すのは、そこそこの理由がある。

内容はザックリとしか覚えていないのだが、夢の中の私は小学生で、作文の宿題を忘れた。
どうやら宿題の存在自体を完全に忘れていたらしく、朝イチで担任教師と思しき大人から叱られ、アナログの原稿用紙を手渡されると同時、こう言われた。
「下校までに書く事」
今日中に書けとかヒデー話である。
余談だが、小学生の頃の私は貪るように文字を読むくせに作文を書くのは死ぬほど苦手で、読書感想文など目も当てられなかった。そんなキッズが生原稿を放課後までに書き上げるのは完全不可能、放課後遅くまで粘っても絶対に終わらないに決まっている。
こういうシチュエーションは大抵、終わるまで帰らせないと意気込んで居た熱血教師の方が先に音を上げ「もう帰って良い」と放り出す、そういう流れになる筈。逆上がりも、縄跳びの二十飛びも、バスケットボールのシュートも、跳び箱も、大抵の体育の授業はこれであやふやなまま終わらせたて来たのが私と言う人間だ。究極のポンコツは時に熱血教師に勝る。
故に、この宿題、この作文、この原稿用紙の空白は、絶対に埋まらない筈だった。
だがこれは夢。流石夢と言うべきなのだろうか、ポンコツクソガキの私にしては珍しく、すぐ執筆テーマが浮かんだ。

「そうだ、おじいちゃんの事を書こう」
祖父のあの話を書こう。何故かそう思った。
テーマが決まれば筆は進む筈。クソガキの頃は知らないが、歳をとってインターネットで胡乱な怪文書を量産するようになったいい大人の現在からすれば、テーマと導入とヤマオチさえあれば、ド下手クソでも読み物と思しき形状にはなる筈だ。
そうして宿題を忘れたクソガキは、具体的な執筆内容を思い浮かべながら原稿用紙を手に、自分の席に着いた。
そこで目が覚めた。
たったそれだけの話だが、目が覚めた現在の私は、夢で決めたテーマ、祖父の思い出話を書こうと思った。
これば別に大事な宿題でもなんでもないし、誰に見せる理由もない。態々ネットで公開する意味もない。ずっと自分だけが覚えていればいい物であり、なんなら過去既に家族と共有した思い出だ。

私はマトモな日記、エッセイ、noteなどを書いた事は無い。ウソ、遊戯王のエッセイ漫画と思しき物は一度描きました。
そんな素人だが、それでもこの話は絶対書かなくてはならないと思った。
何故ならばこの思い出は、しょうもない宿題の夢を見るまで完全に忘れてしまっていた記憶だからだ。これを再び忘れてしまうのは絶対に嫌だと思った私は、もう忘れない為にと筆を取る。

私の父方祖父は、今年2022年3月末に他界した。
享年98歳、長寿にもほどがある。持病も無かったので完全に寿命だ。

この年齢になると、数え年と言う概念や、第二次世界大戦前当時の出生届のテキトーさもある為、正確な年齢や誕生日はさっぱり分からない。祖父の両親は幼かった頃の祖父とその兄弟を残し二人とも他界済み、年齢真実は本人にすら不明である。
書類上は97歳だが、自己申告は98歳だったため98歳とさせていただく。坊さんも98歳って言ってたし。
「今お坊さま98歳って言ったけど、おじいちゃん97じゃあなかったっけ?」
「いや、オレ分からん…」
葬式、坊さんの大事な話の途中に、身内が私語をするんじゃあない。

当たり前だが、人間が死ぬとその後しこたまやる事がある。
遺品整理、引き出しひっくり返しの儀、通帳あさりまとめ、土地の権利書発掘、大事な最新年金書類の振り分け、ン十年前の年金書類廃棄、この銀行最後に触ったの何十年前なの通帳チェック、銀行そのもののの支店撤退とかいう厄介事、ケースを残し中身が家出した実印の大規模捜索という大混乱もその一つだ。
有効期限の切れたポイントカードの束、潰れた店のスタンプカード、10年猶予があるはずなのに期限の過ぎたバスカード、テレカの束、知らん写真、ボロボロの古紙幣、古い家電量販店のハガキ、折った新聞、他界済み親戚からの年賀状、ありとあらゆる薄い系の品が祖父の混沌の引き出しから発掘された。
ちなみに遺書は無い。

ポイントカード系は全て処分し、写真は写真の箱に一先ず放り込み、テレカは寄付する、オリンピックや万博記念硬貨及び古銭や銭系紙幣は余裕がある時に整理、通帳や権利書系はこれから身内が走り回る。一番大事な実印は数日出て来なかったが、しょうも無い所からポロッと出て来た。
正直思い出に浸る余裕はゼロ、そう言うのは後からすれば良い。今はこの引き出しの中から通帳や重要書類と共にまろび出て床にぶちまけられた数多を総出で片付ける事が先決だろう、確定でゴミっぽい物は早めに捨てないとめちゃくちゃ困る。祖父の配偶者である祖母は、このグチャグチャの惨事に大変憤慨していた。
祖母は見合い結婚して現在に至るまで、天然ボケだった祖父の尻拭いを永遠してきた。死後も尻拭いをする羽目になるとか、そらぁ腹も立つわな。

そうしてゴミ袋や雑紙入れの紙袋を片手に、ゴミとゴミじゃない物を仕分けしていた最中、大学ノートから破った古いページが1枚出てきた。
適当にちぎったのだろう、端は破れ劣化しボロボロ、若干の折り目はあるものの、引き出しの中でがっつりプレスされ、アイロンでもかけたようなぺたんこの姿。
そのような黄ばんだ紙に達筆で走った鉛筆は、祖父の物だった。

しかし何書いてあるか分らん。
別にボケた老人文書と言う訳では無いが、それとは別に、祖父が書いたとは全く思えない方面の文章だった。

『momotarosan momotarosan okoshinituketa kibidango』

ハイカラなアルファベットである。なに?達筆も相まって理解できなかった。
他にも文章はあったが、写真を撮るのを完全忘れてしまったためマジで何が書いてあったのか思い出せない。
なにこれ?わからん、なに?祖父の古びた怪文書、謎の手記を囲み困惑の家人、憤慨する配偶者祖母。

私はCoc、TRPGで拾ったメモの裏は毎回必ず確認するタイプのPL。情報ヌケで詰んだり理不尽な即死罠を避けられるなら毎度KPに呆れられるぐらい安いモンよ、ラテン語じゃなけりゃあなんでもいい。そうして私は謎の手記をひっくり返す、その裏に暗号解読の手がかりがあると信じて。

裏面にあったのは、アルファベットとあいうえお表、五十音表だった。
ヒュ~、完全に暗号。なに?
しかし数秒じろじろ観察して、これが暗号でもなんでも無い事に気付いた。
ただのローマ字じゃん。祖父作、手書きのローマ字表である。

全ての道はローマに通ずる、故にこの怪文書もローマである。おまんもローマ!
この解読表によると、表のアルファベット訳はこうだ。

『ももたろさん ももたろさん おこしにつけた きびだんご』

唯の桃太郎、旧ヘボン式と思われるローマ字練習の一部である。
何?解読出来たは良いが意図が分からなかった。困惑する家人、もう少しで何かを思い出せそうな私、憤慨する配偶者祖母。

祖父は生涯電気工事士であった。
定年退職…とかそう言うのは存在せず無く、定年年齢を過ぎてもまあまあ働いており、老人年齢のギリギリのギリまで車を乗り回し、ずっと家で色々なケーブルやらをいじっており、電圧計や工具を持ち出し、古い単純な家電であれば蓋をバコッと開け接続不良を一発で修理し、脚立を担いで知り合いの家の電気を直しに行ったり、私が小学生キッズぐらいの頃は巨大な製図台に向かい自宅でもくもくと図面を書いていた。
父と母、特に父には大変申し訳ないと思っているが、両親共働きの不在、家に祖母と祖父しか居ない環境にあった私にとって、古びた木製の製図台に向かう祖父の背こそが「仕事をする大人」その物であった。

だが祖父はローマ字を使う機会はほぼ無い。もしかしたら図面を書く為に必要であったのかもしれないが、私は設計方面に疎いため何とも言えない。
主なローマ字の使用先であろう、パソコンのタイピング、コンピューターは祖父にとって未知の品。同じく電気工事士の職に付いた祖父の息子、私の父親はギリギリパソコン世代だったが、それ以上の年齢は正直無理だろう。WindowsXPやそれ以前、95か98の鈍器ノートパソコンの使用。それ位の時代が父の職場備品である。

諸々ふまえ、どう逆算しても98歳で死んだ老人が仕事の為にローマ字を態々勉強する意味は無いのである。
英単語の読みへ至るための最初の一歩か?いや……、それにしたって、変じゃない……?
故に全員首を傾げた。別に勉強するのは悪い事ではないのだが、何故桃太郎さんが出土されたのだろう。しかもこんな引き出しの底から。
まあ後で考えるか。桃太郎をその場に保留、各自他の品の片づけを再開した。
手に取った洋菓子店のスタンプカードは有効期限切れであったが、店舗名や住所から察するに、車の仕事帰りにケーキを買って帰って来た事が何度もあったのだろう。息子夫婦らとの二世帯同居、想像は容易い。
祖父が帰宅すると、私と、私の弟、二人の可愛い孫が居た訳なのだから。

自動車免許返納のせいで遠い洋菓子店のスタンプカードは枠を埋める前に期限切れとなってしまったが、ホッチキスの跡から察するに、満タンになって割引券に進化した先代スタンプカードがあったと思われる。
この店のケーキ、シュークリーム、クッキー、アイスは幼い頃の私にとって馴染み深いものだったが、すさんでつまらない大人になってからは縁がない物になっていた。
とても懐かしかった。だが有効期限が切れていたので私はゴミの袋に放り込んだ。品物一つ一つに思い出はあれど、全てを大事に取っておくことは出来ない。沢山の思い出がたった一枚の洋菓子屋のカードに収まって居たが、これは既に単なる紙切れだ。
私は洋菓子屋のカードを、ゴミを捨てた。

何度も更新して、更新して、何枚も束ねた祖父の古い運転免許証が出て来た。本当に古い物は顔写真の髪が黒く、ふさふさとしており、頭もハゲていなかった。
頻度は知らないが、現場作業で特殊車を運転する事があったのだろう。祖父の免許証は大型や重機など、大体全部の車に乗れるスーパー免許証だった。
家にはいつも白い軽トラがあり、荷台には孫と一緒に色んな物を載せていた。現場機材も野菜も果物もよくわからん部品もゴミも新しい家具も、パンクして帰れなくなってしまった自転車も、色んな物を沢山載せていた。私は祖父の、何時もちょっと汚い軽トラが大好きだった。
祖父はスピード違反で切符を切られた事もあったし、あわれ交番の目の前で無様にエンストか何かをしでかし、切符を切られた事もあったブルー免許だ。
平日も休日も何時も車を運転しており、長女である私と従兄弟長男の二人を連れ、自家用車で様々な所へ旅行に連れて行ってくれていたらしい。この時私の弟はまだ産まれておらず、従兄弟の妹もまだ居なかった。
私は若干幼かったのと、車酔いが酷かった為あまり覚えていない。この旅行の事は、従兄弟長男の方がよく覚えて居てくれているらしい。
この従兄弟は、既に二児の父である。ひ孫を輩出しない我々兄弟より優秀じゃん?ひ孫ちゃんの顔が見れて祖父も嬉しかった事だろう。ちなみに従兄弟妹の方は一児の母だ。私がDNA残す気が無いの丸出しになってるじゃあないの。

「流石に老人が免許持ってまだ運転してるのはマズいのでは?」
あぶねえあぶねえと周囲全員で言ってやっと運転免許を返納したが、それは8年ぐらい前、祖父が90歳付近の時の話だろう。我が家はボケもせず異常なほど元気な祖父と祖母が居るが故、完全に老人の年齢に麻痺していた。普通は90歳まで放っておかない。
祖父は90歳になるまでずっと運転免許と一緒に居た。何度も免許を更新して分厚い束になって、過去の物は引き出しにしまいこんでいた。流石に全てではないが、大体一生分の運転免許証だ。
私は持ち主が居なくなった運転免許証の束を、ゴミを捨てた。

沢山の葉書が出てきたが、祖父が年賀状や細かい葉書のやり取りをしていた友人達は全員既にこの世におらず、祖父の実の弟も他界済み。同級生の最後の一人は数年前に亡くなったし、過去の仕事仲間、親しい取引先も全員居ない。
最後の兄弟である妹さんはまだ生きて居るが、独居老人であった為老人性認知症になってしまい子も居なかったため、老人施設に入ってからは我が家の人間が定期的に顔を見に行ったり、身の回りの物を管理している。
この兄弟どちらかの体調が悪くなったり、転倒して身体を悪くした際は我々「これが最後の挨拶かもしれん」と思いながら必ず祖父を面会に連れて行って居たのだが、大抵両者ともに綺麗に復活し、周囲がぐったりするだけであった。
だが今回は流石に、祖父が本当に死んだ。
妹さんは納骨前の仏壇に一度手を合わせに来たが、恐らく既に忘れてしまっていると思う。
「葬式には行かないし、死んだ事も直ぐには伝えなくていい。」今より認知症がマシな時期、過去の妹さん本人の希望によりこうなっている。

祖父は筆まめな人だった。私が実家から離れ別都道府県で一人暮らしをしていた時期、二通葉書を貰った。
一通は祖父母の二人名義、もう一通は祖父のみの名義。
祖父からの葉書が届いたのは八月末、夏の終わりの時期だった。文面は実家の最近の気温、私が住んでいる場所の夏はどうだったか、街には馴染めましたか、元気ですか、家族は皆元気ですよ、安心してください。
「暑かつたでしよう」「通信は古いおじいには手紙しか知りません」「御身大切に気おつけて頑張つて下さい」
「おじいより○○さんへ」
紅葉の絵が印刷された葉書、ボールペンの綺麗な文字で、綺麗な文章だった。
私は新幹線で移動しなければならない遠い場所に住んでおり、年老いた祖父母がこちらに顔を出す事も、私が頻繁に顔を見せる事も出来なかった。何より休日もずっと仕事に追われ、高い金を出して長距離の新幹線に乗れる余裕はまるでなかった。無論手紙の返事も出して居ない、母親のLINEに大体全部送り、家に電話もかけなかった。
他者が起きている時間に電話をかける時間は殆ど取れなかった。祖父のかんたん携帯の電話番号は知って居たが、電話を取る事も、かけ直す事も出来なかった、タイミングが無かった。
その後当たり前に身体をバキボキに壊し仕事をやめ、実家に帰って来てからは手紙は貰わなくなった。同居しているなら手紙を書く用事はほぼ無いだろう。
この二通の葉書は、大切にしまってある。

祖父の引き出しに収まっていた沢山の葉書だが、これらの手紙を出す側も出される側も、全員ぽっくり亡くなってしまっている。
年賀状のやり取りも今どきは行わない。それに祖父が本当に年賀状を出したかった相手は既に故人だ。祖父は別に、友人の子供や孫らに年賀状を出したい訳ではない。
親戚付き合いは父がやって居る為、祖父が年賀状を出す相手はもう居ない、年賀状を送ってくれる友人も居ない。子孫は居れど、祖父の弟もこの世に居ない。祖父個人が本当に親しくしており死去を絶対に伝えなければならない人物は、認知症の妹さんのみであった。
私たちは、手書きの文字が敷き詰められた故人達の葉書の束を、祖父のプライベートな友好の束を、捨てた。

混沌の引き出しから様々な物が出てきたが、通帳や書類系以外は全て捨てた。今はそれどころでは無いからだ。
私達は今、故人の思い出の整理ではなく、死後の諸々手続きのための重要な品を発掘している最中である。
人によるとは思うのだが、こういう物は捨てる時に全て捨てないと永遠に残り続ける。捨てて大丈夫かな?とは思いはしていたが、配偶者である祖母が永遠に憤慨しGOを出していたため、捨てても良かったらしい。
妻が良いなら良いだろう。ここ、祖父の部屋でもあるけど祖母の部屋でもあるしな。
祖母は昔から、祖父に対して常に怒っていた。理由は祖父の天然では済まされない天然ボケと思しき物とは別に、完全な性格不一致である。昔の見合い結婚は無理がありすぎるよな。
大体祖父は言われっぱなしで、口も開かず手も上げず、何も言わずに黙っている男……、な訳では無く、何故叱られているのか分かって居なかったり、そもそも今メチャクチャ叱られているのが自分な事に気付いて居なかったりと、様々なパターンがあった。もう天然ボケじゃねえ。
祖父が祖母に対して反抗する事は殆ど無かったが、流石に頭に来た時は祖父が家のブレーカーを直接レバーで落とし、拗ね、布団で寝た。
家のブレーカーとは、つまり……、ブレーカーである。家の電気を全部落とすとか言う電気工事士の大技、厄介なキレ方だ。
祖母はブレーカーに手が届か居ない為、孫の私がブレーカーを戻しに行った。
孫は見ていたテレビ水戸黄門を途中で切られた哀れな巻き込まれ事故であるが、この事件は父や母が知らないだけで、回数自体は程よくあった。
これホラーゲームかバイオで見るわ的な古いレバー式ブレーカーは重く、そんなガッチャンガッチャンやったら家の電気がイカレちゃうよと言う苦情や、ブレーカーが安易に触れる位置にある事自体が危険な為、自宅バリアフリーリフォームの際は祖父の手が届かない場所にブレーカースイッチが移動した。その後ブレーカー事件は無い。

大体品が片付いた頃、最後に謎の、祖父直筆ローマ字桃太郎さん怪文書が残った。
他の人間にとっては意味不明な品だろうが、私はこれに心当たりがあった。

何故ならば、これは私の為の物だからだ。

年代は恐らく、私が小学校3年か4年生、9か10歳位の頃。
小学校のカリキュラムに「パソコンの授業」と言う物が無理矢理組み込まれ、みんなでパソコンの操作方法を覚える、そう言う「変な授業」が発生した。
学校には、埃っぽい暗幕で閉じられた狭すぎる「パソコンの部屋」があり、小数台しかないパソコンを皆で交代制使用しながら授業を受けていた。パソコンの台数は教員用1台を数に加えても、恐らく6か7台程度しか無かった覚えがある。
視聴覚室か何かを無理に区切り改造し、完全資金不足だがパソコンを購入し、とりあえずパソコンの授業が出来るようにしました、そんな感じだろう。今から思えばムチャクチャである。
私達小学生は、あまりよく知らない「パソコン」とか言う巨大で珍妙な機械を、1台5人ぐらいのチームで交代シェアしていた。

「パソコンの授業」の内容は、パソコンの操作を覚えなさい、電源を入れ、重いマウスの操作を覚え、フォルダを作り、右クリックし、フォルダ名を変更しなさい。
そして、ローマ字を覚え、キーボード入力が出来るようになり、マイクロソフト・ワードと言う名のコンピューターソフトで、何か軽い記事を作りなさい。
これが最終目標、到達地点だ。
記事と言えど本当に簡単な物で、写真や図形を雑にバコッとはめ込み、タイトルを虹色レインボーにギラギラさせた上でひねり込みを加え、軽い文章を添える、それだけの課題だ。今の私であれば、ワードでも5分あれば作れる。デザイン系のソフトであればもっと早く終わる。
それを何時間も、何日もかけてやった。

原因は一つ、私のローマ字の覚えが、暗記能力が、びっくりする程ダメだったからだ。

手元のローマ字表とキーボードを交互に見、頑張って人差し指でキーを押し、入力する。信じられないぐらい時間がかかる作業な癖に、パソコンは交代制。私の課題は一向に終わらなかったし、操作が遅い私はチームから弾き出され、最終的にどのチームのパソコンも触らせて貰えなくなった。
パソコンとか名乗るクソ機械は大変高価で貴重な品であったため「パソコンの授業」以外、校内で唯一パソコンの事がわかる教師の管理時間帯以外では触らせてもらえず、放課後に残って作業を進める事は一切出来なかった。
私は「パソコンの授業」が本当に大嫌いだった。
ヘッポコキッズは、母がどこかで入手してきた古いワープロに向かい、自宅で必死にローマ字やタイピングと格闘した。
だがその内最悪な事態が訪れる。

授業参観である。

授業参観とは、保護者が学校での我が子の授業風景を見に来るアレの事だ。
私の親は共働きだったが、当時女が働く事は世間的な言葉や法律では表向き許されていたものの、現場や人間関係、人間の価値観内では未だ一切許されておらず、母は世間の冷たい視線や差別をブスブスに受けながら働いていた。別に金に困っていたとかでは無い、母は働きたかったから働いていた。家庭から逃げる為でもなんでもなく、仕事が好きな人だったからだ。
母は立派な医療従事者である。働いていたものの、授業参観は出来る限り来てくれた。仕事を途中抜けし、病院で着ている服装そのままで授業参観に来た事もあった。私はそれを恥ずかしいとは思わない。
今思い返すと、清潔を保つための衣服から着替えずそのまま学校に来るのは病院的にどうだったのとは若干悩むが、昔はめちゃくちゃガバな世だったから許されていた。私も夏休みは病院の病理の部屋で様々なブツのサンプル、ブツの本、症例の本を読みあさり、めちゃくちゃ楽しく過ごしていた。一般人のガキが入れるような部屋ではないが、何故か許されていた。

だが今回の授業参観に、母は来れそうになかった。
別に授業参観に母が来れずとも私は気にしない。母は未だに悔やんでいるが、他所様の家と我が家は完全別物である。
だが他者目線では授業参観に親が来ない家庭というのは憐れとしか映らず、そういう勝手な憐れみや母に対する責めを隠さない他保護者らの事が私はめちゃくちゃ嫌いだった。余計なお世話だ。
そして最悪には続きがあり、今回の授業参観は「パソコンの授業」が割り振られた。
学校側から親側に対するパフォーマンス、こういう最先端授業やってますよアピールなのだが、未だローマ字が覚えきれていない小学生からしたらクソッタレとしか言いようがない。

私はローマ字が分からんマヌケな上、親が授業参観に来れない憐れな小学生として扱われる事が決定した。

だが無抵抗なまま憐れなピエロにはなりたくはない。キッズはキッズなりに必至でワープロ相手にローマ字と格闘し、授業参観当日を迎えた。
結論から言うと、ローマ字は濁音、半濁音、促音系統以外はギリ覚えられた。
濁点や小さい「つ、や、ゆ、よ」等がどうしても無理であり、私の入力した文章はそこだけマイナス点を喰らった。
だが、それ位で済んだ。人差し指タイピングもまあまあ速度を増しており、ワープロ練習は無駄では無かった。

結局キッチリしたタイピングだけは高校生になるまで覚えられなかったのだが、数年後「学校のパソコンルーム」経由でフラッシュ倉庫と朝目新聞で出来たインターネットの沼に落ちた瞬間全部覚えられたあたり、私はクソなアホである。

その「パソコンの授業」の授業参観には、仕事を休んだ祖父が来てくれた。
祖父は私がローマ字を覚えきれて居ない事を知っており、狭い教室の中で私のパソコン操作をずっと後ろから見守ってくれていた。
保護者が助けに入るのは完全禁じ手だったのだが、多分私が限界を迎えた時に助けに入る気でいたのだと思う。あの人はそう言う人だ。
祖父は孫の授業参観の為に初めてローマ字を勉強し、達筆なローマ字の桃太郎を書いた。
私はヘマも無く、祖父の助けも無く、何とか授業参観を乗り切った。

小学生の私はローマ字をギリ乗り越え、授業参観には保護者であるおじいちゃんが来てくれた。

祖父は、ローマ字を覚える用事も必要も無い。
だが孫の為であれば話は別だったらしい。

「パソコンの授業」は一年間のみだった。
次は私たちの下の学年があの狭苦しいパソコン室を使い、タイピングの犠牲になって行ったのだろう。あれきりキーボードでローマ字と格闘する事は無くなり、私も練習台のボロで重たいワープロから解き放たれ、祖父もローマ字とは縁が切れた。
下学年の弟はすんなりローマ字もタイピングも覚え、「パソコンの授業」では何の問題も無かった。

故にあの桃太郎は私の為の物、私と祖父だけの思い出である。

そうであったはずだが、祖父の紙モノ遺品整理で全員疲れ切っていたのだろう、私もめちゃくちゃ疲れていた。部屋のゴミをまとめしばらくしてから、ローマ字桃太郎が無くなっている事に気付いた。
大量の紙ゴミに紛れ込んでしまったのだ。その時の私にはゴミを漁り桃太郎を探し出す体力は無く、通常の人間よりHPとMPが減りやすいボロボロボディ、そのまま数日間ぶっ倒れ、布団から出る事が叶わなかった。

ゴミの袋は外に出され、収集業者が回収した。桃太郎もその中に居た筈だ。

そして遺品整理の際の記憶は疲労した私の中で徐々に薄れ、洋菓子屋のカードも、祖父の運転免許証も、沢山の葉書も、ローマ字の桃太郎の事も、祖父が死んで3か月たった6月末の私は全部すっかり忘れた。
品を残さず全て捨てるとはこういう事だ。記憶を掘り起こす為のトリガーは消え、他者と話したり、不意に思い出したりしない限り思い出は薄れて行ってしまう。
私の場合、あの桃太郎は私だけの物であり、他の誰もが既に存在を忘れた珍妙な紙切れ一枚だ。故に私が忘れてしまったら、あのローマ字桃太郎は完全に無かった事になる。今回は夢でポカンと思い出したから良いものの、忘れきってしまったら次思い出せる時は何時か分からず、年月が経っていた場合詳細はどんどんと欠けてしまうだろう。
夢の中の私は宿題を忘れ、帰る前に作文を仕上げろと言われた。そしてそのテーマを、どうしても忘れたくなかった「おじいちゃんの、ローマ字の桃太郎の話」に決めたらしい。
私は祖父との大切な思い出を殆ど忘れてしまっていた。起床した私がこの記事を書くと決めたのは、ただそれだけの理由だ。

これを家族以外の他人に見せる意味は完全に無い。自前のアナログ日記帳や、チラシの裏にでも書いとけ案件であるが、私の日記帳は古来よりインターネットである。
そう、個人サイトのブログだ。
今はもうそんな物所持していない為、noteとか言うアカウント作るだけ作って一年以上放置していた物に放り込む。ここは文字を放り込む場所である為、まあ問題なかろ。

私が大好きだった祖父は他界した。
だが疲れ切っていた私が覚えているのは最後の弱った祖父の姿だけ。昔の楽しそうな祖父を思い出しながら仏壇を拝んだ事は全然無い、そんな余裕は一切無かった。
祖父はボケも無くドチャクソ元気ではあったが流石に年齢には勝てず、弱り、トイレに失敗し、自力で風呂に入れなくなり、家族も流石に風呂まではフォロー出来ず、数日おきの日帰りデイケアに通い、そこで風呂に入れてもらい、程よい運動をしていた。
その他の日はいつも通りで、家で新聞を読み、相撲を野球を、スポーツと名のつく番組は全て見、競馬中継も見、BSでやっているタイトルも知らないような洋画をずっと見ていた。居間のテレビを占拠するテレビっ子だ。

だが歳には勝てない、祖父の身体は弱っていく。

ついでに我々家族も弱っていく。弱り、ふらつき、バランスを崩し、すぐ転倒し負傷するようになった祖父の面倒を24時間見切れず、眠れない日が続いた。
全員眠れていなかったが、同室で眠る祖母が一番眠れていなかったかも知れない。自宅介護の限界を感じた。
祖父が高齢という事は、その面倒を見る息子夫婦もいい歳である。
孫である私は若いが完全健康体ではなく、むしろ自分の面倒で手いっぱいズタボロ病人の類だ。

故に日帰りではなく、数日纏まった日付で預かって貰えるタイプの場所を契約した。当たり前だがそう言った場所に行く御老人は既に身体をあまり動かせる状態では無い為、体操や運動のスケジュールは少ない。
運動をしない日が続き、結果、運動不足からくる心不全で肺に水が溜まった。
搬送先の連絡はどのように通ったのかはサッパリ分からないが、預かり施設から心臓専門の病院に救急車で担ぎ込まれたため流石にもう死ぬと思った。こういった心臓の病院に急に担ぎ込まれる場合、いくら若くとも出る時は高確率で仏になっている。
当たり前だが心臓にエラーが出て活動が止まったら、蘇生が成功しない限り人間は死ぬ。救急でここに来たとはそう言う事だ。
だが暫くの入院ののち、なんか回復して、退院した。
ええっ?我々は完全フェイントを食らった。

実はこういったフェイントは初めてではなく、もう何年も何回も食らっている。
流石にここの所その回数はドカンと増えたが、色んな所で色んな怪我をし、病院に行き、謎に回復し、ピンピンで帰って来る。
祖父は毎回、不死鳥のように蘇った。
毎回それであったが故に、今回もそうであると思っていた。
だが今は少し世の事情が違う、新型コロナウィルスの蔓延である。
他施設、他病院に一度入った人間はデイケアには戻れず、陰性陽性関係なく20日ほど自宅で過ごさなければならない。
我々は自宅介護を迫られ、ぐったりし、日数が過ぎる頃には再び数日まとめて面倒を見て貰える場所に祖父を預けた。運動をしなければ心不全で再び肺に水が溜まってしまう事は分かって居たが、自宅介護の限界である。
今度こそ、もう寿命なんじゃないの。

だがなんか普通に元気になってきた。ええっ?

その後日帰りデイケアに通い、家族が介護でフラフラになってきたら纏まった日付の場所に祖父を預かって貰い、次は日帰りに通い、自宅で食事が出来る日はご馳走を食べ、正月も自宅で好きな物を食べ、日帰り施設に通い……、等という、そんな都合のいい話がずっと続く訳が無い。
複数施設の掛け持ちはコロナを拾ってくる可能性が高い。老人施設でそんな事をやったら入居者全滅の危機、冗談抜きの完全エンド。日帰りのデイケアには通えなくなり、まとまった日付の場所に、祖父をずっと預かってもらう事になった。
この頃祖父は殆ど家に居らず、我々は「祖父の居ない日常」に慣れ切ってしまった。

そろそろ施設から家に帰って来る筈という日付で、祖父の斜め向かいの部屋の方がコロナ陽性患者となった。
無論、祖父は帰れなくなった。祖父だけではなく、その時施設に入居していた全員が家に帰れなくなったと思う。その時の祖父はコロナ陰性で、ほとぼりが冷めれば何とか帰れる筈と祈っていた。
しかし数日後、祖父も陽性。ワクチンは二度打っていたが流石に無理がある、陽性となった祖父を施設は暫し預かってくれて居たが施設自体がパンクしたのであろう、祖父は救急車でコロナ病棟に運ばれ、そのまま入院となった。
施設の名は伏せさせていただきます。
流石に終わった。
「こんなに生きたのに、最後が疫病なんて酷過ぎる」そう言って私は数日やけっぱちになり、くそ寒い中カメラ片手に外を徘徊し、無心で冬の風景の写真を撮り、凍えて帰ってきて体調を崩したりしていた。完全なアホだ。
だが他に何も手に付かなかったし、気を紛らわせる物も思いつかなかった。やらなくてはならないことは山ほどあったが、大体全部断った。元々ぐらぐらしていたスケジュール、途中抜けをする可能性が高いと事前に伝えていたため問題は無い。データ類の引継ぎだけは最後までやった。
祖父の三度目のワクチンのスケジュールは既にカレンダーに書いてあり、全ての手筈が整って居たのだが、どうしようもない物はどうしようもない。コロナ患者は普通の葬式は出来ない、知ってはいたし、むしろ葬式の形がなんじゃいと思って居た。だが自分がいざ当事者になるとかなりキツい物があった。

暫しの入院の日数を経て、
祖父はコロナから復活した。ウイルスに勝ったのである。
ええっ?98歳が?我々は再びフェイントを食らった。
実はコロナで入院していたと言ってもそんな重篤な状態ではなく、熱がややあり、あり……、熱があった、それだけだった。
重篤病棟では無く、軽症患者ばかり集めた病室におり、呼吸器なども一切付けていない。高齢者年齢ゆえ悪化する恐れがあるという理由で病棟に居たが悪化などそんなモンはない、身内含む周囲全員がひっくり返った。いやぁ~2回とは言えワクチンって凄いわね。
老人施設内でコロナ陽性となり、施設で数日過ごし、その後コロナ病棟に担ぎ込まれた病院初日の祖父は、自分のかんたん携帯で自宅に電話をかけてきた。
「実は今、病院に居まして…」
ま、まさか、病院に担ぎ込まれた事を家族は全く知らないと思っているのか……?天然ボケ、思っていたらしい。まあ面会出来ないし知らないと思ってもしょうがないな。心配させまいと携帯で電話をかけてきた祖父だが、我々はもうギャグ漫画のようにコケるしかない。配偶者祖母は憤慨していた。
これに関しては単に、初期状態からメンタルよわよわパラメーター設定の孫娘が大げさに悲しんで居ただけである。
退院のスケジュールが即組まれたが、このまま家に帰宅せず別の病院に移り、退院できる体力が戻るまで通常の患者としてリハビリを行う事になった。コロナに勝ったとはいえ、身体が弱っている。今後ダメージが大きく残るのは分かって居るが、まずはコンディションを戻す事から始めよう。
そうして祖父はコロナ病棟をあっぱれ凱旋退院し、通常病院の通常病棟へ移った。午後ぐらいに病室に入り、次の日から少しずつリハビリが開始されるスケジュールが組まれている。
次の日の朝、祖父は眠ったままベッドで亡くなっていた。

恐らく、一番良い死に方だったのだと思う。
寝て居る内に息を引き取ったのなら、痛いも苦しいも無いだろう。身体へのダメージは相当大きかったようだが、コロナ患者では無かったため普通の葬儀が執り行われ、祖父は98歳と言う天寿を全うした。

私は、このあたりのボロボロに弱って痩せた祖父の事しか覚えていない。
祖父の居ない生活に慣れてしまい、今日も施設に預かって貰って居て、そのうち帰って来るのではないかと思っている。
遺影の祖父は元気に笑っていた。写真加工は背景の差し替えのみで、ほとんどそのまま使ってもらった。いつかの夏の、白いポロシャツの写真だ。私がよく知って居る祖父はこの笑顔の筈だが、遺影を見てもどうにも昔の祖父の姿が思い出せずにいる。

祖父は90歳をこえてもピンピンしており、必ず飲まなければならない持病の薬など存在せず、杖も押し車も無く、背骨の曲がりも無く、一人ですたすた歩いて居た。
一応名札のついた杖を持たせていた時期もあったが、お散歩中に軽やかに杖を振り回しておられると言う近所からのタレコミがあった為、危険物は没収した。
永遠に元気で、孫の私よりも飯を食らい、量をチェックされた上でゴキゲンに日本酒を飲み、「今度こそ死ぬのか?」というフェイントを何回もかましながら、98歳まで生きた。
基本的に我が家は、明らかにバランスに欠け健康を害し寿命を縮めるであろう食生活以外は、「死ぬまで好きなメシを食べ、メシが美味いまま死ぬ」と言う、無理して寿命を延ばすよりは好物を沢山食べ楽しく生きるという方針を採用している。
その為90歳をこえていても、めでたい日やご馳走の時は祖父の為に日本酒を開けたし、好物も沢山食べさせた。

祖父はかなり昔に手術で胆のうを取ったくせに、肉類、特にすき焼きやトンカツが好きで、揚げ物をバクバク食べていた。
普通胆のうを取れば胆汁ビリルビンの量が減り、脂肪や油物の分解が苦手な身体になる筈なのだが、当人は平気な顔でおり、特に腹を壊す事も無く、トンカツに甘味噌を塗ってバクバク食べていた。とにかく肉が好きだった。魚はやや苦手だったが、衣が付いたフライであれば好き嫌いなく何でも食べた。コロッケも天ぷらも食べ、天丼も食べた。
そこに酒が付けば最高である。
酒が出て来るタイミングや量自体は他者が管理していたが、酒は死ぬギリギリまで飲んでいた。
本当に元気な人だった。

家族で数日旅行に行った時に、温泉施設自体のオプションでニューハーフさん達のショーが見れる場所があった。
そう特別な施設ではないが、超可愛いタイ人方面の子達が華やかに踊ってくれる。チンチンはついて居たりついて居なかったりしたらしいが、みんな超美人で、ダンスとパフォーマンスが超上手い。暗い部屋に輝くLED照明、ギラギラのレーザービーム、派手な音楽、此処本当に普通の温泉施設なの?普通の温泉施設だ、このショーは子供でも見れる。
開始前に子供銀行券のようなオモチャ紙幣を複数枚現金購入(安い)し、ダンサーちゃんの衣装の隙間に架空紙幣を捻じ込めるナイスシステムがあった。(捻じ込むと、可愛い子達にちやほやしてもらえる)
祖父はニコニコでショーを楽しんでいた。始まる前に教えるのは無粋な為、ショーが終わった後あの子達にチンチンが付いていた事を教えた。
どうやら祖父にはそこらへん良く分からない文化であったらしく、特にショックも何も無く、露出が高い可愛い子達のショーをめいっぱい楽しんで、沢山ちやほやしてもらった。温泉も料理も全部楽しんだ。
私はチンチンの有無とかどうでも良く、彼女たちの胸の隙間に架空紙幣を何度も突っ込んだ。
弟はニューハーフショーではなく、子供でも見れる健全な、女のポールダンスか何かが見れる方へ行った。

祖父の90歳のお祝いに親戚を集め、ホテルの広い宴会場を貸し切り、舞妓さんを呼んだ事がある。
まあまあどころでは無いハチャメチャな贅沢、ヤベー出費、若干の親戚集金、料理、舞妓さんと幇間さんの出張料、金の屏風…、と絶対に人生最初で最後の体験だと思うが、舞妓遊びはとても楽しかった。舞妓さんは話が上手く、酔っためんどくせーオッサンから、酔った90歳の祖父、酔ったおばさん、酔ったバカ、酔ったバカ、ウーロン茶で素面のおばさん、酔ったコミュ障オタク、全員とそつなく話せる話題の玉手箱、会話のプロだった。まだ若く芸妓さんになる前のお嬢さんだったが、8年たった今はどうしているだろう。
酔い過ぎた従兄弟が舞妓さんと幇間さんの芸のマネをして失敗し、畳の上で派手にひっくり返っていた。アホな酔っ払いと言う物は最高の酒の肴、お座敷遊びジャンケン遊びでベロベロの酔っ払いがガンガン負ける無様な姿は、今まで感じた事のない類の愉悦であった。
流石に祖父はお座敷遊びにまでは参加できなかったが、一番良い席に座り、日本酒を飲んでずっと楽しそうに笑っていた。
90歳まで生きれば上等、何時お迎えが来ても大丈夫なようにという冥途の土産な筈だったのだが、それから祖父は8年生きた。
流石の我々も計算外である。

祖父の誕生日は毎年、ちょっと高めな羊羹を買った。
甘いものが好きで、和菓子も洋菓子も沢山食べた。バナナは甘くなるのを待てず、青いままの15本1房ボリュームを一人で全部食べた。そんな時間に沢山食べたら晩御飯が入らないだろうと思っても、晩御飯もキッチリ食べた。
徒歩のお散歩ついでで定期的にドン・キホーテ1階食品フロアへ一人で通い、ドンキの黄色くデカいレジ袋をパンパンにするボリュームの菓子を購入し、一人でばくばく食べていた。無論晩御飯は残さない。
この菓子の大人買い、間食について、祖母はめちゃくちゃ憤慨していた。
食い意地が張っているとボロクソに怒られていたが、それは「食べれる時に食べておかないといけない」という過去の体験がそのまま来ているのだろう、と思う。思ってるよ、孫は。
食べたいだけだったかもしれない。

祖父は、第二次世界大戦末期の徴収兵であった。
年齢的には少年兵もしくはその少し上だろう。しかし兵と言っても、人を殺した事も、武器を持った事も、国外へ出た事も無い。祖父は電気や機械周りの知識技術を所持していたため、国内技術兵としての徴収を受けた。
派遣先は主に軍港で、日本各地様々な場所で軍艦等の整備に関わっていたと聞く。

軍港は軍港であるが故、港のくせに漁師がおらず、魚が大量に居た。
魚を釣れば入れ食い、捕りたい放題の食い放題で、祖父は技術兵仲間らと一緒に魚を釣り、現場で既に不足していた機械油の代わりの品、植物油(?!?!?!)を持ち込んで魚を揚げ、バクバク食っていたらしい。無論上官も仲良く一緒である。(油や上官に関しては話を盛ったり適当している可能性がある為、私は信用していない)
教科書で学んだ戦時中のイメージがガラガラと崩れて行くが、軍港は空爆、空襲で狙われる分かりやすい目標地点、頭の上を通り過ぎて行く敵国戦闘機が全く存在しなかった等と言う都合のいい状況は無いだろうし、実際に軍港を目標とした空襲作戦もあった。
私は愉快な話しか聞いた事が無いが、詳しい人間が詳細を掘り下げると、やはり戦争というのは、戦争である。

ヒロシマに原子爆弾リトルボーイが投下された1645年の夏、祖父は3日前まで広島に居た。
その後ナガサキに、原子爆弾ファットマンが投下された。
祖父は8月6日の広島も、9日の長崎も、両日共たまたま別の軍港に派遣されていただけである。

原爆も、軍港への空襲作戦も、数多を幸運と偶然で切り抜け第二次世界大戦から帰って来た生き字引の老人、私が覚えている限りでは一度だけ戦争を後世に伝えるための講演会に呼ばれた事がある。相手は小学生などではなく、きちんと「それを学びたい」と集まった高校生以上の学生さん達で、一体何を話したのか私は知らないが、大変貴重な話であったと大いに感謝された。

通っていた日帰りデイケアでも、他の御老人相手に戦争の話をしていたらしい。
同じ老人相手に戦争の話をしても面白いの?それが、面白いのである。
何故ならば周囲の御老人は全員祖父より一世代下、祖父の息子世代にあたる。皆父親をとっくの昔に亡くしていたが為、戦争の話をしてくれる90歳を超えた祖父相手に、全員揃って自分のオヤジの姿を重ねていた。
祖父は施設内スタッフさん含む他の方から異様にちやほやされ、完全にアイドルであった。

祖父は新聞を読みつくし、ついでにテレビっ子であったが故、あらゆる方面の話が出来た。
電車も車も飛行機も軍艦も戦闘機も映画も競馬もサッカーも野球もソフトボールもマラソンも相撲も歴史も武士も時代劇も全部好きだった。ついでに仕事であらゆる場所に行った事があったため、日本のあらゆる地方と地方の食事に詳しかった。当たり前だが昔の地元の話にも大変詳しかった。
沖縄で勝手に孔雀を追いかけ水牛車に乗り、北海道へは桜の木を植えに行った。なにやら網走付近まで足を運んだ事がある、らしい。(話を盛られている可能性がある為、北海道の桜植え活動の範囲については断言は出来ない)
我々家族は祖父の長すぎる話に飽いていた為、各々適当な所で話を切り上げる術を身に着けていた。しかし施設では皆永遠に祖父の話を聞いてくれる。ザ・オンステージ、ソロステージ、喋る事自体が好きだったため、施設で永遠に喋っていた、と施設からの連絡帳に書いてある。90年分の知識とはすさまじい。

一週間のうち3日程の通いではあったが、祖父はこの施設が超お気に入りだった。
唯一残念な点と言えば、若者と同じぐらい食欲がある祖父にとってこの老人施設での昼食は少な過ぎ、常にお腹をすかせていた事ぐらいだろう。自宅に帰宅したら早々バナナやカステラをばくばく食べるぐらいにはお腹を空かせていた。

この施設には将棋や囲碁等が複数置いてあり、ワイワイお喋りタイムとは別に、それらで遊ぶ方々も居た。(麻雀は無かった気がする)
しかし碁を打つ方はたった一人。対人遊戯である以上一人で遊ぶ事は出来ず、別売りのお友達を連れて来ない以上、囲碁と言うゲームをプレイする事は出来ない。その方は囲碁セットの傍でしょんぼりしていた。
無論その方は今の今まで永遠ボッチで寂しくしていた訳では無い。この施設には碁を打つ人は過去他に沢山居たし、そのほぼ全員と刃を交えた経験がその方にはあった。
ただ、その方は強すぎた。囲碁の先生だったのだ。
先生は碁で無双し、他挑戦者を綺麗になぎ倒し、常に施設の囲碁プレイヤー頂点に君臨し続けた。
当たり前だが確定で勝てないゲームほど楽しく無い物は無い、歴戦の猛者も居たとは思うが全員プライドを折られたりなどして碁を打たなくなり、碁の先生はしょんぼりしながら一人でずっと対戦者を待って居た。

そこにド天然の祖父が現れた。
祖父は碁を打つが、決して上手い訳では無い。碁の先生相手に勝ちは取れず、永遠負け続けた。しかし祖父は配偶者祖母にボロクソ言われてもボンヤリしている人間、碁で負けてもケロッとしており、何も気にせず折れる事も飽く事も無く、碁の先生が施設に居る日は二人で碁を打っていた。
碁の先生は1人では無くなった。
その後暫くして祖父は他施設との掛け持ちの関係上数日不在であったり等が続き、やっとこの施設に返って来た頃には碁の先生は既に施設を去っていた
他施設に移ったのかお亡くなりになったのか、それはプライベートな個人の話のため、詳細は他者が知る所ではない。
施設にあった囲碁は、しまいこまれてしまった。

祖父は死ぬギリギリまで、この大好きな日帰りデイケア施設に帰りたがっていたが、結局帰れなかった。

祖父は最後付近以外は持病も無く完全健康体で、転倒しても何故か頭を打つ事だけは無く、器用な受け身を取って居た。うっかり頭を負傷しても擦り傷が出来た程度で、剥げた頭に巨大なガーゼの絆創膏を張って貰っていた。転倒し腕を若干縫った事もありはしたが、間際の心不全を除いた大きな治療はその程度だろう。何故か骨を折ったり等もしなかった。

そんな健康体な物だから、骨上げの為に火葬場、焼き場から骨が出て来た際、98歳の老人とは思えないレベルで綺麗に骨が残っており「もしかして焼き場の部屋番号鍵間違えたかな?」と周囲はドヨドヨしていた。
無論番号は間違って居ない、これは紛れも無く、正真正銘、我が家の祖父殿の骨である。
ここまでの年齢あれば、本来骨はボロボロで殆ど残らない筈だろう。老人以外でも重い病気や骨粗鬆症等がある場合、焼いても骨は殆ど残らず、細かな欠片を拾って壷に収めるだけの筈だ。私はそういう葬式を何度か見た事がある。
しかし祖父は違う、綺麗に全部残っていた。

流石におかしくない?
何かがおかしい事は全員分かって居たが、焼き場職員以外でその場の奇妙さを詳しく理解していた人間は、元医療従事者であり人体解剖経験もある母、現物は知らぬが美術解剖学を学んだインターネットお絵描きマンの私、この二名のみである。

まず大腿骨。太もも部分の骨であり、人間の骨の中でも一番大きく、そして丈夫である。人体の中でこの骨が一番目印として残りやすい。標本か、もしくは棍棒か?というぐらい、凄く白く綺麗に残っていた。
骨盤、寛骨の全体の姿は流石に崩れていたが、拾って組み合わせたら大体元に戻るんでねえのってぐらい大きいパーツが残っていた。デカい仙骨の方も何故か綺麗に残っていた。
背骨、脊柱。これはもう、ボロボロの円柱パーツ同士が嚙み合う事を忘れただけであろう。数を全部数えた訳ではないし、流石に崩れている場所もあるだろうが、並べたら多分一列綺麗に並ぶ。
胸郭、胸骨、肋骨。欠けてはいるが、アレは胸骨の破片なんじゃあないか?焼いてこんなモン残るのか?細い肋骨は流石に本数が足らなかったが、それでも破片はそれなりの形として残っており、骨の姿としてはカンペキ綺麗な物もあった。肋骨が綺麗に残ると"骨"と言う感じがして画面が生々しくなると言うのを私は改めて感じた。
そしてあの大きい破片は、位置的に肩甲骨だろう。
太さが無い為途中で折れてはいたが、上腕骨も程よく綺麗であった。
鎖骨、尺骨などの細い物、手先足先の細かい骨などは流石に分かりやすい姿は残って居ない。

頭蓋骨、流石に頭蓋骨の姿は残らない。
頭部の骨は構成するパーツが多く細かく、焼いた場合全ての部品がばらばらと離れてしまう為、おなじみのあの形は絶対出て来ない。
が、薄い骨が皿のように綺麗に残っていた。恐らく頭頂骨の一部と思われるが、アレは皿としか形容しようが無いだろう。
そして顎の骨はクソデカで残っていた。

火力が弱いのか?
祖父の火葬で何故か一通り人体骨格知識をおさらいしたインターネットお絵描きマンはそう思ったが、火葬場の火力に弱いも強いも無い。
はぁ~?98歳でこんなに骨が残る訳かなろ。
母と私の二人で「おかしくない?」とヒソヒソしていたが、やはりおかしい、こんなに残る物なのか?どうやら残る物らしいですね。目の前に現物を出されたら完全に納得せざるを得ない。

さて、これからこの骨を骨壺に収める訳なのだが、私の地方の骨上げ骨壺は小さく、重要な部分の骨のみを拾ったり割ったりして最小限収める形式になっている。
地域によっては残ってる骨を全部箒でかき集めてデカイ壷に全部ぶち込むとか風の噂で聞いた事あるが、ウチは違う。
故に、可愛らしいサイズの骨壺に収める為に、立派に残った祖父の骨を……割る!!!!!
……割るのは焼き場の職員さんだ。
右手に鉄箸を、左手に金属トレーを、傾かざる、不動の職員。
これより壷に収める為、割らせて頂きますと言い、職員さんは作業を開始した。

骨壺に骨を収める順番は、足の骨を初めに徐々に上にあがり、喉仏の骨を収め、一番上に頭の骨を被せ、蓋をする。
足元から順に、直立した人間の姿のように骨を入れて行く、そういう収め方だ。頭の骨と喉仏、どっちが一番上にくるかは地域によるはずだけど、大体そんな感じだよ。

鉄箸でつついて割る作業を行いながら、壷に収める際に「これは何処の骨であるのか」という人骨解説を優しく穏やかな声で話してくれる男の職員さんだったが、如何せん骨が丈夫過ぎて一向に割れない。
「これは○○(骨の名前)、●●(体の部位)の骨です、大きいので割らせて頂きますね(コンコン)割らせて頂きます、(コンコンコン)……割れませんね、割らせて頂きますね(コンコンコンコン)」
これを足の骨から頭まで、一通り全部やった。

優しく穏やかな声で説明し作業を続ける職員さんだが、その優しい声から奮闘具合が漏れてしまっている。
必死に頑張る職員さん、鉄箸でコンコン骨をつつく音、全然割れない骨、葬儀、火葬場、目の前のアツアツな祖父の骨、実の親の骨を前に割れる割れないとかそれ所では無い喪主父、若干遠くに居て反応が伺えない祖母と弟、コロナの密を避ける為に近寄れない親族たち、絶対に笑ってはいけないシリアスな状況。

笑わん訳が無い。
孫はもう駄目だった、こんなもんコントである。

母と二人「割れないの?おかしくない?」とヒソヒソ話す孫の口元はゆるゆるであった。
その後祖父の骨はきちんと壷に収まり、我々は火葬場を後にした。
笑った罰当たりな孫は、焼き場に数珠を落として来た。

私は葬式の時も含め、祖父を亡くしてからきちんと泣いていなかった。
何時か思い出したように沢山泣くのかも知れないと雑に考えていた適当さだが、泣けない事自体はずっと引っかかっていた。だがそれは単に思い出の整理が出来ていなかったからだと思われる。
楽しかった頃の記憶を思い出して、苦しかった介護時期と弱った祖父の姿も死んでしまった事も受け入れる。この記事を書く過程、様々な思い出を整理したら、目玉が縮んで流れ出るかと思うぐらいにはきちんと泣けた。シュロトルみたいだな。

祖父の人生は、長い。
私が知って居る祖父の人生は、私が産まれ物心ついてから今年に至るまでの、たった数十年の間のみだ。
祖父の長い人生を知る人は沢山居る。配偶者である祖母、既に死去した祖父の弟、認知症となってしまった祖父の妹、同居していた息子である父、嫁に行ってしまった娘である叔母、既に死去した祖父の友人達、既に死去した祖父の古い仕事仲間、きっと他にも大勢居たのだろう。
私が知る祖父の姿や年数はその人達には到底及ばないが、別に及ばなくとも良い。
何故ならば私は「祖父と孫娘」という他の誰も所持していない、私のみの祖父との思い出を持って居るからだ。

私は祖父の98年にわたる人生の中で、ほんの少しの間居た人間だ。だがそれでも、その枠の中でめいっぱい可愛がって貰った。
祖父の人生の、良かったと思える場所の一部に、私が混ざって居ればそれで良い。
私の祖父と言う人物は、私の人生の良い場所の中に居る。それで十分だろう。

祖父との思い出は尽きない。
当初の作文テーマからはみ出た上、数日かけて長く長く書き殴った作文ではあるが、採点する人間もいない曖昧な夢の中の宿題としては上出来な筈だ。
良い話っぽく〆る話のオチなどは存在しない、道徳の話をする気も無い。
故にこれで提出とする。

偶然にも、あと数日で祖父の百回忌。ギリギリな滑り込みで心の整理が出来てよかったなぁと、わたしはおもいました。

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