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「感度」という網
(写真は文章と何ら関係のない先日の月である)
このところ、何故か「感度」という言葉と遭遇することが多い。
「感度が、高い、低い、よい…」続く言葉はいろいろあるが、おおむね何かの尺度に近い使われ方をしているように感じる。
はてさて、「感度」ってなんだ???
その謎を解明すべく、私はアマゾンの奥地に…は行かず、深夜机でぼーっとノートに書いて眺めてを繰り返している。
考える中で固まってきたひらめきがある。
私の考える感度が良い人とはこうだ。
「私がいいな、と思ったものを見つけてくる人」
なんだそれ!主観じゃん!と思うだろう。言葉を選ばずざっくりいうと「私的超イカしてる人」である。
この「私的超イカしてる人」達は私が「いいな!」「すごいな!」「なにこれ!?」「かっこいい!」と思うものを見つけてくる達人である。
あなたのSNS、もしくは身近な友人にもいないだろうか。趣味が合うけど自分よりもっといいものを見つけるのが上手な人。その人の着眼点が、自分になく、そして共感できるものがある人。彼らは「イカしたもの」を発見することに長けている。
彼らはなぜ「イカしたもの」の発見が上手いのか。そこで「感度」が登場する。
彼らは感度がいい。自分よりも感度が良く、「それどこで見つけてきたの!?」となるようなものを発見して自分のお気に入りに加えていく。
ここまで考えた私は「感度とはアンテナではないか?」という仮説を立てた。
しかし、アンテナは動かない。屋根の上に立ち電波を待ち続ける存在である。
「私的超イカした人」は違う。動いている。普段から気に入ったものが自分のテリトリーに入るように工夫をしている。それはどのような人と関係を持つか、出かけるときにどの店によるのか、新しい店の開拓はどう行うのか、SNSをどう使うか、などに現れる。
そして、それらが自分に合うか、合わないか、の選別を行うのが「感度」になると私は考える。
つまるところ、「感度」とは網掛け漁で言うところの「網」なのではないか。
「感度」という網には「イカしたもの」という魚をひっかけねばならないとしたら、能動的に動くこともわかる。網を張っているだけでは魚は得られない。
魚を得られる場所に向かい、網を張り、網を引き揚げることで魚を得ることができるのだ。
私は周りの人が次々と「イカしたもの」を見つけてくることにいつも圧倒され、そして同じぐらい疑問を抱いていた。
「これはどこから見つけてきたのだろう?」と。
網が大きければかかる魚の種も増え、もっと大きい魚もかかるようになる。
私はもっと自分の網を大きくしなければならない。
それには今自分の網がどのようなものか知り、かかっているものをくまなく知る必要がある。そこを起点に網をもっと大きくしていくのだ。
インターネット、特にSNSは放っておいても自分のテリトリーに情報が入ってくる。それならば、自ら網を大きくしなければ、かかる魚が大きく変化することは稀だろう。
「イカした」人になって世界のまだ知らぬものにもっとわくわくするために、私は「感度」という網をもっと大きくせねばならぬのである。