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問い。そして希望。

広島の平和記念資料館に行ってきた。コテンラジオでシンドラー編の配信が始まって、聞いているうちに戦争としっかり向き合いたいねと夫と話して、金曜の朝に宿を取って土日に出かけるという弾丸旅だった。

資料館は4年前にリニューアルされて、新しい展示になっていた。被爆前後の広島の写真から始まり、爆発の様子、被爆したモノや建物、被爆直後の様子を思い出して描かれた絵、被爆者の遺品、被爆直後とそのあと長く続く身体の症状、外国人の被爆者、長きにわたって被爆者とその家族が抱えた苦労などが展示されていた。

ここに来ると、「78年前の8月6日に、ここでこの惨状があったんだ」というイメージがありありと自分の中でよみがえる。資料館に来るのは3度目で、最初が12年前、2回目が6年前だった。その度に心象風景としての「あの日の広島」が鮮やかにイメージされ、心に深く刻みつけられる。日々の生活を送る中で常に意識のどこかにあるわけではないけれど、こうしてたびたびこの心象風景に出会い、アップデートすることが人生においてとても大事なことのような気がしている。

戦争について真剣に考え始めたのは15歳のときだ。それから主に高校性の間、太平洋戦争の政治的な背景、様々な加害の実態と被害の実態について、本を読み、現地を訪れて、考えてきた。

あれから10年以上が経って、いま自分が改めて広島に訪れたらどんなことを考えるんだろうということを、実はちょっと楽しみに今回訪れていた。

でも実際は、残念ながらと言うべきか、新しい感じ方や問いは特になかった。もちろん細かい事実などは知れば知るほど出会うのだが、根本的な問いは変わらないのである。

このような惨事を引き起こす戦争をしないために、自分ができることは何なのか?

万が一戦争に向かうような風潮や世論になったとき、どんな理由があってもそれは絶対にいけないと、戦争反対を主張することはできるだろうか?

10年前にこの問いが浮かんだとき、社会に出て外交や防衛に関する仕事に就くことが、この問いへの答えになると思っていた。

でも大学でさまざまな機会に出会い、戦争への向き合い方もさまざまな立場でさまざまな活動をしてきた人がいることを知り、結局そのような仕事に就く選択はしなかった。それでも30歳になる頃には、何かしらの答えが自分の中にあるだろうと思っていた。

いま30歳を手前にして、この問いにはやっぱり答えられない。仕事を通じて、そして仕事以外の接点も通じて、たくさんの人に会い、いろいろな角度から社会を見る視点に出会ってきた。そして多様な視点に出会えば出会うほど、「この立ち位置だったらこの問いに答えられる」という「絶対」が薄れていった。

お前はどうしたいんだと聞かれたら、正直「わからない」としか言いようがない。でも分からないからこそ、選択の機会にはその時々で考え続けるんだと思うし、きっと一生分からなくて、一生忘れられない問いなんだと思う。

ちょっと前まで「希望」というのは、問いに対して解決策があったり、こうなったらいいというビジョンが見えていることだと思っていた。
でも今は、問いがあって、それに対して何か少しでも自分にできることがあると思えることが希望なんじゃないかと思う。もしくは、そもそも問いがあること、それだけで希望なのかもしれない。

希望のことを想うとき、ミヒャエル・エンデのことを考える。晩年、お金のあり方について疑問をもったエンデは「減価するお金」に関心を寄せていた。世の中を形成する根本概念に疑問を呈しているエンデにインタビューしたNHKのプロデューサーは、エンデは絶望ではなく、希望に溢れてこのお金の問題を語ってくれた、と教えてくれた。

数年前にこの話を聞いたときは、減価するというアイディアがあるから希望を持っているんだと受け止めていたけれど、どうもそうじゃないんじゃないかと最近は思う。ジブリの宮崎駿も、世の中への幻滅を持ち、人間のくだらなさを認めながら、子どもたちに生きるエールを送る作品を作り続けてきた。

表現することの祈り、考えることの癒し。
希望というのはそんな風に言い換えられるんじゃないかと思う。

批判的な情報や暗澹とした気持ちになるニュースは溢れているけれど、それにのまれて一緒に絶望するのではなく、祈りとなる表現、癒しとなる思考を、大事に積み上げていきたいなと思う。

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