自分のなかに溜まっている、いらないものを出していく
私は、3年弱ハートエデュケーションセンターとい
うセラピーの場所で、インナーチャイルド療法、ファミリーコンステレーションを主軸とするさまざまなセラピーを学んでいます。
そのなかのひとつとして、OSHOの瞑想があり、そのメディテーションのなかでも、アクティブ瞑想を今、意識的に毎日の自分の生活の中に取り組むようにしています。
それは、言語化するのは難しいのですが、メディテーションが終わったあと、明らかに、私の中から溜まっていた、いらないものが出ていき、静寂、スペースが広がる、と感じているからです。
セラピーを受けるまでは意識化もできていませんでしたが、私のなかには自己卑下、自己憐憫、怒り、罪悪感、哀しみ、反省、たくさんの、今、ここ、には必要のないものが、私のなかから溢れでていました。
だから、どれだけ静かな瞑想、をしようとしても何かに集中しようとしても、私のなかにはそれらでいっぱいですから、なかなか静寂は訪れません。
それどころか、頭のなかでおしゃべりをし続ける自分に苛立ち、自分を責めたりして、負のスパイラルを続けていました。
またヨガをしても、そのときは楽になるけれど、またあっという間に身体はガチガチになってしまう。
私には、もっともっと奥深くに眠っているところにアプローチしていくものでないと、本当の癒しは訪れない、ということだけは、確信していました。
それから、ハートエデュケーションセンターに出会い、身体に刻み込まれたトラウマをケアしていかないと、そもそも私のようなサバイバーは、神経回路がいつも警戒アラートを鳴らしているのだから、新しい神経回路を新たに接続しなおさないといけない、いうことがわかり、いたく納得しました。
そして、アクティブ瞑想に出会いました。
とにかく呼吸に意識を向ける、身体をダイナミックに動かす、アップビートな音楽のなかでダンスする、など、今まで見たこともない、聞いたこともない、まさにアクティブでダイナミックな瞑想に、はじめは面食らいました。
が、終わると自分のなかに静寂が訪れ、何か私のなかにスペースが生まれる。
頭のなかのおしゃべりがなくなり、私のなかがシーンとし、今ここ、を感じることができるようになりました。
あっ、これは、私に必要だ、と直感しました。
もう、私のなかに必要のない、過去から溜めてきたあれやこれや、それは、物理的なゴミのようには見えないので、どれほど溜まっていて、今、どれほど減っているのか、視覚的に確認することはできません。
が、例えば、人に怒るときの私のボルテージが下がった、前より、自我が騒がしい=誰それがどう、彼それがこう、と興奮して人のことを話すことが減った、など小さな変化は感じています。
OSHOは
観照者になりなさい
と言っています。
この先、私がどれほど観照者として、物事を観れるようにはなるかは未知の世界ですが、そこを目指していくほどに、私が幸せで穏やかになり、そこから波及して、私の周りにそれが広がり、それが社会に、世界に広がっていくことは間違いない、と信じています。
この私の小さな小さな取り組みが、いつかは世界平和に繋がることを信じて、今日もメディテーションをします。
世界が平和で穏やかでありますように。
祈りを込めて。
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