正しい(とみえること)を追いかける病から脱する。
私は最近、「正しい」と思えることを追いかけることほど、病んだ思考はなかったな、と感じています。
それは思考停止状態というのかもしれません。
今日ヨガをするなかで、先生が、今までの人生で助けられた、あれは神の助けだったかもしれない、と感じられるものを考えてみてください、といい、最後に瞑想をするなかで今までの自分の身に起きたことを思い返しました。
自分が嫌いで、玄米菜食などあらゆる健康法、資格取得など、欠けた自分に何かを付け足すことばかりにフォーカスしていた20代、体調不良になって退職し、心療内科で、契約社員だろうが何だろうが、働けていることを認めないで、自分をいじめ責め続けていたら、そりゃ、体調不良にもなるよね、とドクターに言われて目から鱗だった30代、病院通いは手放せても、まだまだ悶々とした40代。
走馬灯のようにいろいろ思い返すなか、「正しい」正解にみえる外側のものを追いかけて、自分が今何を感じ、何を欲しているのか、そこに目を向けないできたそのことこそ、病んだ思考はなかったなあ、と感じました。
何か外側に「正解」がある、と思っていて、それを必死に追いかけていたから、探せど探せど見つからず、疲弊していたわけです。
が、やっと今、内側の私が何をしたいのか、何を欲しているか、に目を向ければ、
緩んで周囲と調和し、平安に暮らしたい。
願いはこれだけでした。
本当は、20代、いや10代からこれだったのかもしれません。
が、
いい成績をとらないと、
(いい成績をとることは誰が望んでいるのか?を、考えていない)
いい会社に就職しないと、
(いい会社って誰にとっていい会社か?は考えていない)
会社にとって良き人材にならないと、
(良い人材の定義を本当には考えていない)
たくさん考えて、ぐるぐる思考はしてはいても、そもそも外側ばかりをみて、外側に対して自動的に過剰反応をして行動を起こし、そのなかで考えあぐねているので、本質的なことを観てはいません。
盲目のまま走っては、ぶつかったり転んだり倒れたりしていたようだなあ、と思います。
だからこそ、「正しい」(くみえるもの)に飛びついてきたのだなあと。
が、そんな私が徐々に気づいてきたのは、いろんな良き大人から、
あなたを認めなさい、
あなたの価値を認めなさい、
と言ってくれていたのだ、と今なら分かり、そういう人が、私の人生の節目節目に現れてくれていて、あれこそが、神の助けだったのだ、と今とても感じています。
今生かされているということは、私たちは確実に誰かや何かに助けられて、この生命を繋いでいます。
その素晴らしさに気づくスペースもないほど、「正しい」に夢中になると、自分が転ぶだけでなく、誰かを知らずに突き飛ばして走り抜けているかもしれません。
実際、会社に行くと、お互い盲目のまま突き飛ばしあって進んでいるつもりでいるのが、今の社会かもしれない、とグッとカメラを引いて静かに周りを見渡したとき、そんな気持ちにもなります。
私だけでなく、あらゆる人が、正しい(とみえること)を追いかける病から脱して、本質的な自分の幸せや喜びに目を向けられるよう、祈ります。
私が癒されますように。
みんなが癒されますように。
お読みいただきありがとうございます。