神秘と真相に迫る!高田崇史著『QED 伊勢の曙光』読後の旅路
「伊勢神宮の謎」古代から現代まで
「謎が渦巻く場所に行きたいか?」と尋ねられたら、興味が湧かない人は少ないでしょう。
『QED 伊勢の曙光』は、伊勢の神秘と日本の歴史の深層を垣間見るスリルを提供するミステリーで、事件の解決を超えて、日本の根底に流れる「神話」と「歴史」を紐解く手がかりを提示します。
高田崇史氏が描くこの作品は、探偵小説と日本史の融合で、「真珠」をはじめとする秘宝が事件と神話を繋ぐ要として登場します。
今回はその全体像から、解き明かされる神話と史実の狭間について、少し踏み込んで見てみましょう。
事件の渦中に飛び込む登場人物たち
冒頭に登場するのは、伊勢の神職が持ち出した「鮑真珠(あわびしんじゅ)」という秘宝を巡る事件。
『QED 伊勢の曙光』はその神職の不審な墜落死から始まります。
この事件に招かれる形で、主人公・桑原崇(くわばらたかし)と棚旗奈々(たなはたなな)は伊勢に向かいますが、すぐにただならぬ危険が二人に迫ります。
桑原崇の友人である小松崎良平から依頼された事件調査は、普通の事件ではなく、日本の精神世界に直結する謎へと進展していきます。
桑原崇は一見、「おっとり」としているように見える人物ですが、歴史に対する洞察力と冷静な判断力は並大抵ではありません。
彼の「QED宣言」とは、「証明完了」を意味し、彼が推理に行き着いたときの決めゼリフで、物語のクライマックスにこの言葉が放たれると、読者は息を呑む瞬間を迎えます。
一方の棚旗奈々も、桑原崇の鋭い洞察を支えつつ、自らの意見を繰り出し、二人の軽妙なやり取りが事件の謎解きにスパイスを加えています。
歴史と事件の交錯点「伊勢神宮の謎」
『QED 伊勢の曙光』の肝となるのは「伊勢神宮」にまつわる深い謎と、日本の神話と歴史が密接に絡み合う部分です。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀るとされる伊勢神宮は、日本で最も古く神聖な場所のひとつとして知られ、皇室と密接な関係を持つ存在。
しかし、高田崇史氏はこの伊勢神宮が、実は「表に出ない」役割を果たしていた可能性を提示しています。
ここでは日ユ同祖論(日本とユダヤが同じ祖先を持つという仮説)など多様なアプローチも取り入れられ、読者は伝統の裏側に秘められた別の物語を目の当たりに。
ここで筆者の狙いが明らかになります。伊勢神宮が皇室の祖先神として、歴史を支え、守り続けるだけの存在ではないことが、古代からの神話と共に解き明かされていく。
高田崇史氏は「記紀」(日本の古代文献である『古事記』と『日本書紀』)や、それに基づく史料を読み解くことで、神々と人間、そして権力者と「まつろわぬ者」(支配者に従わない人々)の対立と和解を描き出しています。
こうしたアプローチは読者に「日本の歴史そのものが長い物語である」と実感させるものです。
伊勢神宮の解釈と現代日本
『QED 伊勢の曙光』は殺人事件を解決する推理小説を超えて、日本人の精神的な支柱となってきた「伊勢神宮の意義」を掘り下げていきます。
天照大御神が祀られている伊勢神宮には、当然のように「神聖」なイメージが伴いますが、物語の中で描かれるその姿は、崇高というだけものではありません。
「伊勢神宮には、私たちが考えている以上の側面があるんだ」と桑原崇が語る場面は、神社のあり方を見直す視点を提示しています。
桑原崇たちが伊勢神宮の秘密に近づくにつれ、私たちの歴史や文化に対する見方も変わってくるでしょう。
歴史や神話は過去の遺物ではなく、現代においてもなお生き続ける要素で、私たちの日常に新たな視点をもたらす。このように、高田崇史氏の作品を通じて、読者は歴史と自分の距離感を意識せざるを得ません。
締めくくり『QED 伊勢の曙光』が示すもの
『QED 伊勢の曙光』は、推理小説にとどまらず、日本文化や歴史、神話に対する視点を広げる作品です。
事件の謎が解けた時、その先にあるのは日本の奥深さそのものです。桑原崇と棚旗奈々の二人が繰り広げる絶妙なやり取りと推理の中に、私たちは「自分自身の歴史」を探る旅に誘われる。
事件の真相が解き明かされた瞬間、そこには日本の「曙光」、つまり「新たな光」が差し込みます。
高田崇史氏の『QED 伊勢の曙光』は、歴史と現代、事件と真理が交錯する物語として、私たちに「本当に大切なもの」を問いかけるのです。
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