見出し画像

君は心の病を告白できるか

「うつ病は心の風邪」

私はこの表現に対して懐疑的な立場をとる。

インフルエンザなどの風邪であれば1〜2週間、いや、若者は1週間足らずで回復するだろう。小学生ならば多くの場合、数日も休めば家中を走り回る。学校をズル休みしているのではないかと錯覚するほどだ。
心の病はそうはいかない。数か月や半年、数年単位の中長期戦を強いられ、時には自ら死を選ぶことさえあるだろう。薬を飲んだからといって明日すぐに治るわけではないし、薬が全てを解決してくれるわけでもない。私もまた、最近ようやく鬱の寛解を自覚した。気づけば発病から2年半の歳月が流れていた。心の病から立ち直り日常を取り戻すには、それなりの時間を要するのだ。

うつ病については完治という概念がない。代わりに「寛解」という言葉が用いられる。寛解とは、全治とまではいえない、いわゆる病状が治まって穏やかな病状であること。いつ再燃しても不思議ではないし、普段なら気に留めないような小さなストレスをきっかけに再び発症させてしまう可能性もある。海外の統計によれば、日本人のうつ病再発率は実に5割を越えるという。確率の真偽はどうであれ、まるで一種の爆弾を背負いながら生涯を生きているようなものだ。ときに私も、それを疲れやすさとして痛感することがある。これはスマートフォンのバッテリー容量に例えると分かりやすい。皆の知る通り、スマホに備え付けられているバッテリーは経年と共に消耗して、充電1回あたりの使用可能時間は少しずつ短くなっていく。10時間使用できる新品スマホでも、1年後には8時間しか使用できなくなってしまう。私はこのようなバッテリー容量の縮小を感じてならないのだ。活力の最大値は病前(新品スマホ)の70~80%にまで低下してしまったようだ。日常生活に支障はないが、以前と比べ疲れやすく、また、少しばかりの無茶をすればその代償は大きく現れる。(未だ回復途上にあるのかもしれない。)傷跡は拭いきれない。

だから言う。うつ病は風邪ではない。

心の「ガン」であると。

心の病であるということ

そもそも「心の病」とは何だろう。うつ病、躁うつ病、統合失調症、解離性障害、パニック障害、適応障害。病名らしいものならば思いつく。高所恐怖症や潔癖症は病なのだろうか。「心を病む」といっても、いまひとつ抽象的でわかりづらい。少なくとも、心身ともに健康な人が日常を大きく損うほどの精神的不調を訴えたとすれば、それはもう心の病の他ならないだろう。新入社員が労働環境に耐えられず、精神を病み休職に至るといった話はその典型である。一方で、高所恐怖症や潔癖症(強迫性障害などと呼ぶらしいが)については、軽度の場合それが原因で生活の質が大きく失われるようなことは稀だろう。スカイツリーに登るのを怖がろうが、ハンカチでドアノブを何回拭こうが、軽度である限り日常生活には大して影響しないはずだ。だからそれは病とまでは言えないのではないか。(そんな些細な心の状態にまで病名をつけたがる人の気が知れない)。心の病に侵されると、日々の"当たり前"が困難に直面する。うつ病になった実体験からいえば、料理や洗濯が億劫。食事も面倒。トイレや入浴のために立ち上がることも憂鬱になる。夜は眠れず朝はもちろん起きられない。趣味すらも苦痛。人を避け部屋に独り引きこもる。外出などしたくない。見るもの行動すべてに絶望が宿る。いつもの”当たり前”を完全に失うのだ。目の前にある何気ない日常が否応なしに崩れ落ちる。健常者には決して分かり得ない辛苦である。
心の病には原因がある。同様にうつ病を例に挙げれば、対人関係や家庭の問題、仕事のストレス、学業の不振といった日常的な要因のほか、ルモンバランスや年齢、性別など生理的な要素も素因となりうるし、適応障害については明確な原因が自覚されないケースも少なくはないだろうが、数々の小素因が無意識のうちに複雑に絡み合った結果であろう(一方で、統合失調症、躁鬱病、パニック障害などは原因やメカニズムが完全には解明されていない。それらの大部分は先天性であり、遺伝的な因子を含んでいる可能性も高いことから、障害の意味合いが強いように思う)。心を病むことにはそれなりの理由があるのだから、彼らのことを精神弱者、メンヘラ、ドラッグ中毒、キチガイなどと根拠なく一直線に決めつけてはならない。どんなに能天気でアホ丸出しな人でも、月に100時間の残業を続けていたら脳機能がやられるし、人格を否定されるような叱責を受け続ければ、精神が崩壊するだろう。恋人と別れたことをきっかけに自殺を考える者さえいる。いま話題の「ステイホーム」も鬱症状の引き金となっている。日本社会の行く末を考えるだけで気を病む者もいるだろう。夢を抱けない世の中に絶望する若者もいるに違いない。彼らはいたって正常だ。病むということは脳が正常に機能しているひとつの証でもある。正常が行き過ぎるだけだ。些細なことをきっかけに、いつどこで誰が心を病んでも不思議でない世界。心を食らう魔物は日常の至るところ潜んでいて、この世界には避けては通れぬ落とし穴が無数に存在するのだ。軽蔑される義理など専らない。心を病むと日常の"当たり前"を失うと先に申し上げたが、心を病むこともまた正常で"当たり前"である。これに恥じることはない。

心の病は目に見えない

「わたし、うつ病なんです」そう告白するには想像を絶する勇気と覚悟が必要だ。うつ病を患ったからといって身体のどこかから血が出るわけではないし、脇下に入れた体温計が40度を示すこともない。レントゲンや血液検査を受けたところで、精神的な病の有無を判定することはできない。目に見える指標がないのだ。心の病は目に見えない。だからそれを「甘え」だと見なす者がいる。あいつはドラッグ中毒、奴は精神異常者、おまえは人格障害者、社会不適合者。人間失格。メンヘラ。心無い言葉を投げつける者もこの世界には少なからず存在する。それらは完全なるスティグマであり、極めて悪質な差別である。心を病みやすい人ほど人生を真面目に生きているし、誰よりも他人のことを考えて行動している。現実から逃げることなく立ち向かっている。人の痛みは人一倍わかる。少なくとも、差別的な態度を示す彼らよりかは、ひとりの人として高潔で知的な理性を有している。
見えないものに対する理解は得られにくい。カミングアウトするには相当な勇気が必要だ。人に侮られ、嫌われ、避けられることを受け入れる覚悟を持ち合わせねなけばならない。どのように思われるだろうか。恥ずかしい。変な目で見られるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。仲間外れにされるかもしれない。不安や恐怖と闘いながらひとり孤独に苦しんでいる者がいるということを忘れてはならない。決して他人事ではないのだ。もしものとき、あなたは心の病を告白し助けを求めることができるだろうか。

悩み人の向き合い方

悩みがあるときにはひとりで悩まずに相談しましょう。そんな類のセリフはよく耳にするが、これでは少し無責任だ。本人が悩みを告白するための行動を起こさない限り、彼らはずっと独りぼっちでいることになる。悩みを抱えていそうな人がいたら優しく手を差し伸べよう。そんな意識があれば暖かい。
家庭、進学、就職、人間関係、自己嫌悪、恋愛、子育て、介護、お金。他人に打ち明けづらい問題に悩んでいるときに限って、全てを自分の中だけで解決しようとしてしまう。真面目で優しく完璧主義な人ほど、他人には迷惑を掛けまいと自分ひとりの力だけでどうにかしようとするし、どうにかするべきだと考えている。答えの見出しにくい問題と向き合い続けるには、やはり莫大な心のエネルギーが必要だ。ゆえに不確かな思考を巡らせれば消耗し、疲弊した脳はますますネガティブで悪質な思考に侵される。これは当然だ。生物には生まれながらにしてネガティブな意識が本能として備わっていて、人間にもまた最悪の事態を察知するための思考回路が構築されているからだ。これが危機回避に欠かせぬ生存戦略であることには違いない。しかしながら、これを暴走させたがゆえに発症してしまう心の病とは、まさに高度な脳機能を有したホモ・サピエンスの受けるべき皮肉な宿命であるのかもしれない。少し話が逸脱したが、悩み続けるほどにネガティブで誤った思考循環に陥るのは、生物として生きる上では当然の作用である。思考すればするほどに視界が狭くなり、客観性を失ってどこまでも自分を追い詰める。私もまさにそんな経験をしたホモ・サピエンスのひとりだ。「悩みがあるときにはひとりで悩まずに相談しましょう」などという決まり文句を知ってはいたが、一度悩みの闇に落ちてしまえば、自分から声を発して助けを求めるなど容易ではない。悩みは独りで解決するべきだと錯覚していたし、自分でしか解決に導けないのだと勝手に思い込んでいた。答えの見えない問いに対して自問自答を繰り返しているうちにエネルギーが欠乏し、みるみる思考の柔軟性が失われ視界が閉ざされていった。しまいには、自分はもう生きてはいけないのだという生の究極に追い詰められたのだ。

本気で悩んでいるときほど人は孤独になりやすく、思考の客観性は時間とともに失われる。独りで閉じこもる彼らには、その周りにいる人々の助けが必要だ。悩んでいそうな友達はいないか。ひとり孤立している知人はいないか。彼がちゃんと笑えているか。彼女が下ばかり向いていないか。食欲が落ちていないか。いつもより口数が少なくなってはいないか。声に張りがあるか。引きこもり気味ではないか。どんなに小さな気づきでも良い。自分に余裕があるときには、そんなセンサーをはたらかせたい。できる限りの声を掛けよう。そばにいるだけでもいい。あなたの心の温もりに勝るものはないのだから。

いいなと思ったら応援しよう!