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恵林寺焼き討ち事件...史料から見る(2)『甲乱記』

今回は、天正十年、織田信長の甲州征伐による恵林寺焼き討ち事件の史料を見ることにします。
前回は『阿波國最近文明史料』所収の『阿波國各宗寺院及阿波出身僧侶列傳』から、『瑞巌寺 一鶚』の章を採り上げましたが、今回は『甲乱記』からです。
『甲乱記』は、成立年不詳、著者もわかってはいません。天正十年八月に執筆されたという説もありますが、確認できる資料はありません。江戸時代の正保三年(1646年)に開版したとされる版本があるとのことです。
この武州江戸開版本の末尾には、武田家臣の春日虎綱(高坂昌信)の甥・春日惣次郎による評語が付されていると言いますが、確かなことはわかりません。この春日惣次郎を著者と記す刊本もあるそうです。

以下、この『甲乱記』から恵林寺の焼き討ちに関する部分を採り上げ、原文の読み下し文に適宜送り仮名などを補ったものを最初に挙げ、次に簡単な語注、最後に現代語の試訳を付しました。

前回同様、読みやすさを第一とした、あくまでも私的な試みですので、詳しくは原典にお当たりください。


*『甲乱記』


 恵林寺炎滅并(ならびに)織田信長之事

①読み下し文

甲斐国謙(乾)徳山恵林寺と申スは、貞和年中の比(ころ)、征夷大将軍尊氏卿御建立、夢窓国師開闢(かいびゃく)ノ梵場(ぼんじょう)也。殊ニ近年は武田徳栄軒信玄墳墓之地として、七堂伽藍再造悉ク事終りて、金を鏤め玉を琢き、善を尽し美を尽す。堂塔に頭甍(とうぼう)を雙(なら)べたり。頃(このころ)の住持をば、快川和尚とぞ申シける。信玄逝去の時、秉炬(ひんこ)の導師なれば、勝頼尊敬(そんきょう)の上は、貴賤上下答拝し奉る体、釈尊出世成道の如し。殊に去年帝都従(よ)り天子震翰(しんかん)の綸旨(りんじ)を成し下され、大通智勝国師と号せる。彼(か)の国師号之事は、近年断絶之処、此の和尚が絶えたるを続け廃れたるを興す。寔(まこと)に仏法繁昌、福智円満之大善知識哉(かな)と世間の渇仰(かつぎょう)耳目を驚カせり。然りと雖も時の横災をば遁れ玉はざりけるにや。今度甲乱之刻、悉ク炎滅せしむる。其の濫觴(らんしょう)を尋(たずぬる)に、川尻与兵衞が所より、使者を以て申し達せらるるは、今度勝頼父子生害せしむる処、理(ことわり)なくして死骸(なきがら)をとり、追善いたさるゝ事、次に江州佐々木中務太輔(なかつかさたいふ)并(ならびに)上使成福院・大和淡路の守、寺中に隠し置かるる条、奸謀(かんぼう)之事、次に寺家へ小屋銭を懸けらるる之条、欲心深き事、右三箇条沙門之本意に背かるる段、甚だ以て軽からずと伸べられけり。国師御返答には、勝頼父子之事、当事の檀那殊には国主たるによって、遺骨(ゆいこつ)をひろい追善いたす事、又佐々木中務并上使衆、寺中にかくし置ク之由、又小屋銭の事、愚僧全ク存ぜざるとの御挨拶也。使者申シけるは、さらば寺中を掲(さが)し申さんと云フ。尤(もっと)モ掲し候へと有ければ、武士寺中へ執(とり)入リ、さて御出家衆は各山門へ上(のぼ)り玉へと申シければ、信(まこと)と心得国師を始め奉り、我も我もと上リ給フ。喝食(かっしき)若衆達迄、悉ク上リけり。其後梯(はしご)をはづし、門前よりも草屋を壊(こぼ)チて山門の下に積ミ重ネ、それに火を付けたりけり。猛火次第に焼上(のぼり)けれども、国師は少しも騒ぎ給はずして、長禅寺之長老、高山和尚に問(とう)て曰(いわ)く、三界無安、猶を火宅の如し。何(いずれ)の処(ところ)に向かってか廻避せん。答えて曰く、覿面(てきめん)露堂々。又問う、作麼生(そもさん)か是れ堂々底。答えて曰く、心頭滅却すれば火も自ずから涼し。其の後国師は、結跏趺坐、叉手当胸(しゃしゅとうきょう)シテ、綿密の工夫之外更に他事無し。其の外若僧達は、指し違えて炎之内へ飛び入りて死するもあり。或いハ柱に抱キ付きて其の儘(まま)焼死するもあり。或いハ五人三人抱キ合いて共に死するもあり。又喝食若衆達は、出家衆に取り付いて、喚叫(なきさけぶ)有様は、只だ焦熱・大焦熱の炎の底の罪人も、角(かく)やと思ヒ知られたり。前世の業因をば、如何なる有知(ゆうち)高僧の尊宿も、遁レ玉はざりけるにや。哀(あわれ)なりし次第也。焼静まリて後、此の燒骸(しょうがい)を数フルに、国師を始めとして紫衣(しえ)の東堂(とうどう)五人、黒衣(こくえ)の長老九人、惣而(そうじて)僧達七十三人、少人十一人、以上八十四人、焼炭の如クなる死骸是れに重恵(じゅうけい)せり。折節魔風烈ク吹(ふき)立(たち)ければ、佛殿僧堂、庫裏客殿、惣門鐘楼(しゅろう)廊閣、衆寮(しゅりょう)東司(とうす)に至ル迄、一宇(いちう)も残らず一炬の焦土と成リて、千仏泥土に混じ万巻風雨に翻(ひるが)える体、更に短筆に述べ難し。其の胸四海を呑み舌九河巻く信長も亦因果之感ずる所者(は)遁れざりけるにや。恵林寺法滅以後、未だ百日に満たずして焼滅し、川尻も没命すぞと聞(きこえ)ける...

(注)梵場:聖なる場所。  秉炬:葬儀の際、松明で棺に火を付ける。
   大善知識:僧侶の敬称。  濫觴:始まり。
   川尻与兵衞:河尻秀隆、織田家家臣、この後一時甲斐国主となる。
   江州佐々木中務太輔...:近江の佐々木次郎と将軍義昭の使者。
   喝食:有髪の侍童、喝食行者(あんじゃ)。
   覿面:目の当たりに面と向かい合うこと。
   叉手当胸:両手を胸の所で重ねる僧侶の作法。

②現代語訳

甲斐国の乾徳山恵林寺というのは、貞和年中の頃、征夷大将軍足利尊氏卿の御建立、夢窓国師が開創の聖地である。特に近年は武田徳栄軒信玄公墳墓の地として、七堂伽藍の再建もすべて終わり、金を鏤(ちりば)め宝玉が輝き、善を尽し美を尽していた。堂塔の甍(いらか)がずらりと並んでいたのだ。
当時の住職は、快川和尚とおっしゃる方であった。信玄公が逝去された時に秉炬(ひんこ)の導師を務めた程の方であるから、勝頼も尊び敬い、身分の上下を問わず拝み奉られる様子は、釈尊が世に出でて仏道をお開きになられる時のようであった。特に昨年、京の都から天皇の御宸翰(ごしんかん)によって綸旨(りんじ)が出され、大通智勝国師という国師号を受けられた。国師号の授与という事は近年断絶していたところであるから、快川和尚が絶えていたものを続け、廃れていたものを興したのだ。これは誠に仏法の繁栄であり、福と智とを円満に備えられた大善知識だと世間は驚き、熱く仰ぎ見たことであった。そのようなお方であっても、思わぬ時代の災厄を遁れることはおできにならなかったのであろうか。今度の甲斐の乱の時には、すべてが炎の中で滅び去ってしまったのだ。
その始まりを探ってみるならば、川尻与兵衞のところから使者がやって来て申し渡されるには、今度勝頼父子を殺させたところ、許可も無く亡骸を引き取り追善の供養をしたこと、次に近江の佐々木中務太輔(なかつかさたいふ)と将軍義昭の使者、成福院・大和淡路の守を寺中に匿った悪巧み、次に寺院でありながら境内に避難して小屋を掛けた者から小屋銭を取った強欲のこと、これらの三カ条は出家者の在り方に背く重大なものであると述べられていた。
快川国師の御返答には、勝頼父子のことは、恵林寺の檀那であり、ましてや国主なのであるから、遺骨を拾って追善をしたまでである。又、佐々木中務や上使衆を寺内に匿ったのではないかとのこと、小屋銭を徴収したのではないかとのこと、これらは拙僧はまったく知らぬことである、との御返事であった。
使者は、それならば寺中を捜しましょう、と言い、そういうことならば探しなされ、との返答になり、武士たちは寺中へ押し入り、それでは御出家衆は各々山門へお上りくださいと言い出したので、わかりました、と納得の上、国師を先頭に、我も我もと山門にお上りになられた。喝食(かっしき)若衆達まで、全員が上った。その後、梯を外し、門前の小屋を壊して山門の下に積み重ね、火を付けたのだ。
猛火は次第に焼け上ったが、国師は少しも騒ぐことなく長禅寺の長老、高山和尚に次のように問うた、この世界はすべて安らかなところなど無い、火事で焼ける家のようなものだ、どうやってこの火を避けるのか。高山和尚は答えて言った、堂々と目の前にあって隠すところがないワイ。国師は更に問うた、堂々隠すところがないとは、どういうことか。高山和尚は答えて言った、心頭滅却すれば火も自ずから涼し。
問答の後、国師は結跏趺坐(けっかふざ)、叉手当胸(しゃしゅとうきょう)して坐禅に集中し、綿密の工夫をするのみであった。その他の若い僧侶達は炎に立ち向かって飛び込んで死ぬ者もあり、あるいは柱に抱き付いてそのまま焼死する者もあり、あるいは五人三人と抱き付き合って一緒に死ぬ者もあった。又、喝食や若衆達が出家の僧侶達に取り付いて泣き叫ぶ様子は、焦熱・大焦熱地獄の炎に焼かれる罪人はこのような様子なのだ、と思い知らされるようであった。
前世に積んだ業因は、どのような知恵を備えた高僧であっても遁れることはおできにならないのであろうか。哀れなことであった。火がおさまって後、焼け死んだ者の亡骸を数えると、国師を始めとして紫衣の東堂が五人、黒衣の長老が九人、全体として僧侶たちが七十三人、小児が十一人、以上で八十四人。焼炭のような亡骸が折り重なっていた。このような時に魔風が烈しく吹き出して、佛殿や僧堂、庫裏や客殿、総門や鐘楼、廊閣、衆寮(しゅりょう)や東司に至るまで、一軒も残らずまるごとの焦土となって、夥しい数の仏像は泥に塗れ、沢山の経巻が雨風に翻える様子は、拙い筆ではとても表現しきれるものではない。大洋を呑み込むような志を抱き、大河に負けないような弁を揮う信長もまた、因果を遁れることはできなかったのであろう。恵林寺の仏法が滅して後、百日にも満たないうちに焼滅し、川尻も命を落としたと聞いている...


*前回の『阿波國各宗寺院及阿波出身僧侶列傳』:『瑞巌寺一鶚』と並ぶ、当時の様子を生々しく伝える第一級史料です。
この史料が伝えるところで重要なのは、①恵林寺焼き討ちに当たって三カ条の質問を出して咎められていること、②恵林寺が自刃した勝頼父子之亡骸を引き取って供養したこと、③匿った者の捜索のためにと寺僧が山門に誘導され、関係者もそれにしたがったこと、④「心頭滅却すれば...」の句は快川国師ではなく長禅寺の高山和尚の発したものだったこと、⑤恵林寺の山門焼き討ちで亡くなったのは僧侶七十三名、小僧衆十一名であったこと、⑥恵林寺全体の火災は、その時に吹き始めた激しい風による延焼であったこと、です。


②に関しては、このような記述をしているのはおそらくこの『甲乱記』だけであり、信憑性が疑われますが、勝頼父子の亡骸に関しては諸説があり、確実なことがわかっていません。
④に関しては、快川国師とこの偈の結びつきは、おそらく江戸時代に生まれたもので、この高山和尚との問答が出典の一つになっているであろうと考えられます。前回の一鶚宗純禅師の証言史料にも、国師のこの偈は言及されてはいません。

ともあれ、こうした史料を突き合わせて検討することから見えてくることも沢山あります。引き続き、この場で採り上げてまいります。

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