禅語を味わう...024:雪後始めて知る松柏の操...
雪後始めて知る松柏の操
季節は「大寒」、一年のうちで、もっとも寒さの厳しい時節です。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
さて、今回の禅語は、禅語としては、比較的よく知られたものです。
松や柏、槙の樹は、美しい花を咲かせるわけでもなければ、立派な実を付けるわけでもありません。
競い合うかのように花々が咲き乱れる百花繚乱の春、瑞々しい生気が燃え立つような翠滴る初夏、すべてのものが光り輝き、生命を謳歌しているような夏、去りゆくものが残されたすべての力を振り絞るかのように、最後の命の光芒を放つ錦繍の秋...日本の四季は、本当に美しい。
そして、すべてのものが静けさの中に閉ざされ、厳寒の銀世界に覆われる冬、この冬こそが、それまでは誰の目を惹くこともなく、ひそやかに控えていた松や柏、槇たちの出番です。
しかし、「松柏」の「出番」とは言っても、松や柏、槙の樹が何か特別なものをもたらすわけではありません。
梅や桜、桃や柿、あるいは楓のような樹木は、見頃の姿、盛りの有り様の見事さが身上です。梅や桜であれば、何よりも花、桃や柿であれば果実、楓であれば紅葉。
春に芽吹き、華麗な花を咲かせ、青々とした新緑を茂らせ、豊かな果実を撓わに実らせ、そして色とりどりに紅葉を見せながら散っていく...それぞれ種類によって、さまざまな違いはあるものの、その頂点にある「華」の素晴らしさがずば抜けているから、古くから多くの人たちによって愛され、珍重されてきています。
しかし、松や柏、槙の樹は、それとは反対に、いつでも同じ。
変化しないところをその身上としています。
「常磐木」と呼ばれるように、「とこいわ(常:とこ/磐:いわ)」つまり「磐」のように「常に」変わらない強さを讃えられるのです。それが「操」。
美しさを競い合う四季の移ろいが終わりを告げ、暗く厳しい冬がやってきます。鉛色の空に、木枯らしが吹き渡ります。枝だけが突き刺さるように天に向かって突き出たままの樹木。枯れて色を失い、生気を無くした叢。
そしてそこに雪がやってきます。
雪はすべてを覆い隠し、色褪せた世界を白一色に染め上げます。
美しいけれども、命を感じることができない、閉ざされた世界...
そこに、松や柏は、ただひとり新鮮な緑の色を変えることなく立っています。
美しい花や紅葉、甘美な果実によって媚びるような魅力を振りまくことはないけれども、一番厳しく、一番辛い時にも「操」を守って、決しておのれの在り方を変えることがない。
何も特別なものなどなくても良い。
桜や梅、桃や柿、あるいは楓のような、誰もが惹き寄せられて足を停め、思わず見上げるような「華」がなくとも良い。
人から羨まれたり、誰かを大喜びさせたりするような、優れて抜きん出た才能や業など必要ないのです。
こうしたものは、確かに備わっていればそれに越したことはないものです。しかし、なくてはならないものか? と訊かれたならば、それは違う。あれば、自分にとっても、人にとっても、豊かな人生をもたらしてくれるものではあるけれども、そのようなものなど、実は、なくてもやっていける。どれほど素晴らしいものであろうとも、所詮はそれだけのもの。
私たちにとって一番大切なものは、それなしにはやっていけないものです。
それを無くすことなど、絶対にできないもの。そのためであれば、命懸けで頑張ることができるもの。それが「なくてはならないもの」です。
この禅語が教える「なくてはならないもの」は「操(みさお)」です。
「操」だって、何を古くさいことを言っているんだか...
そんな声が聞こえてきそうですね。しかし、それは違います。
時代とともに変わっていかなくてはならないものは、たくさんあります。しかし、絶対に変えてはいけないものもある。それは、私たちの「生き方」の根本に関わるところ。生きていく姿勢、「生きること」そのものの土台になるところです。「操」とは、まさしくその「生き方」の根本を指す言葉なのです。
桜や梅には桜や梅の、桃や柿には桃や柿の、楓には楓の生き方がある。
だから、桜や梅には、桜や梅の「操」があるのです。
桜の操とは、毎年毎年、美しい花を咲かせたら躊躇うことなくさっと散っていくこと。
桃の操は、毎年毎年、すべての力を果実に托し、撓わに実をならし、成熟させること。
楓の操は、毎年変わることなく最後の力を振り絞って、厳しい冬に向かって最後の命を赤赤と輝かせること。
「操」とは、何も「松柏」に限ったものではありません。誰もが自分の「操」を持っています。それをなくしてしまっては自分が自分でなくなってしまうようなところ、自分が自分であるための、ギリギリ最後のところです。
それでは、皆さんの「操」とは、どのようなものですか?
雪後始めて知る松柏の操...
始めて知る...そう、本当に大切なものは、厳しい冬、過酷な雪の中を潜って「始めて」わかるのです。
自分の人生に対して真剣に誠実に向き合い、どんなに辛くとも自分の苦難にちゃんと自分の力で立ち向かうことをしなくては、ギリギリのところで、自分の生きるべき本当の在り方、自分の本物の「操」はわからないのです。
そして、本当に厳しい世界をくぐり抜けてきた時、「なくてはならないもの」以外はすべてなくなってしまうということが、実感としてわかるのです。華も実も、すべて...
だから、一番尊いのはやはり「松柏」の操。
この世に生を受けてから死ぬまでの間、目立つことなく、ひっそりと静かに私たちの命を繋ぎ止めているもの。それが「松柏の操」です。
失敗をし、苦労を重ね、病になり、歳をとり、華やかな彩りの世界をすべて失う...私たちは、この厳しい「雪」を経験て「始めて知る」のです。
そして、
事難うして方に見る丈夫の心...
困難の中で始めて現れるのが「丈夫の心」です。私たちはよく「大丈夫、心配するな」などと言いますが、その「大丈夫」。
この「大丈夫」とは、ほかならぬ私たち自身のことです。
何があってもぶれることのない自分、絶対にあきらめることなく、厳しい雪の最中でも、常に緑を守り続ける。
順調な時にも驕らず、逆境でも挫けない、本当の強さを持った自分。
「丈夫」とは、すべてを捨て、すべてをなくしても、歩き続けるべき最後の一筋の道を、たった一人で行く者なのです。
私たちも、不器用でもいい、地味でもいい、ただひたすら愚直に正直に、誠実に、真っ直ぐ自分の道を歩んでいきたいものです。
撮影:工藤 憲二 氏