禅語を味わう...019:白雲片片嶺上に飛ぶ
白雲片片嶺上に飛ぶ
白雲片片嶺上飛
はや、8月も終わりとなりました。
さて、今月は禅語:「白雲片々嶺上に飛ぶ」を味わうことにします。
真っ白な雲が、ふわりふわりと山の嶺の上を飛んでいく...
恵林寺は峡東地方を代表する古刹の一つで、庫裏の入口には、『峡中禅窟』という扁額が掲げられています。「峡中」の「峡」は「山峡の地」という意味だといいます。このように、山々に囲まれた山梨に住んでいれば、この禅語は、日頃良く見慣れた、ごくありふれた景色になります。
高い山の嶺の上を、雲は、何事もなく無心に飛んでいきます。
禅の世界では、雲は修行する者にとっての最高の理想の姿の一つです。なぜならば、それはひたすら「無心」だから...
どこに向って、何のために行くのか?
そんな問いかけをよそにして、どれほど高い山の嶺の上であっても、何の苦もなく、何事もなかったように雲は行きます。
抜けるような青空の下、汚れを知らない真っ白な雲は、日の光を受けて光り輝いています。
どこへ行くのも、何をするのも、「足の向くまま気の向くまま...」と言えば、束縛のない、自由気ままな生き方のように思われます。便利で快適ではあるけれど、何かにつけて束縛の多い現代社会に生きるわたしたちにとっては、羨ましさを感じる境地です。
わたしたちは誰もが「幸福」を求めて生きています。「幸福」であるためには、何が必要か?
便利で豊か、ということはもちろんです。そして同時に、束縛のない自由さも、なくてはならないものです。しかし、残念ながら、「便利で豊か」であるということと、「束縛なく自由」であるということは、なかなか両立しません。むしろ、「便利で豊か」な暮らしを得るために、多くのことを置き去りにして、ひたすら進んできたわたしたちは、いつの間にか自分で自分をがんじがらめにし、息苦しいほどの世界を作り上げてしまった感があります。
ふと気が付くと、わたしたちは、思うほど「幸福」な社会を作ることができず、「便利で豊か」とは言っても、身近なところに貧困があり、格差があり、対立と分断があり、世界に目を転じれば、戦争や環境負荷の限界、エネルギーや食糧、水資源の危機など、綱渡りをするようなバランスの上で、かろうじて現状を維持している、というのが現状のようです。日々の生活に纏わり付く深い不安と懐疑は、将来に対する希望を押し殺しています...
今日、わたしたちは、行きすぎた「便利で豊か」ということよりも、むしろ「束縛のない自由」を、より一層求めています。「幸せ」になるためには、何よりもまず「自由」が必要だ、そんな思いを抱く人も多いでしょう。
しかし、いま見たように、「自由」であることと「便利で豊か」であることは、表面的にはいざ知らず、深いところにおいては、むしろぶつかり合ってしまうものです。経済的にある程度以上「豊か」でなければ、現代社会においては「自由」に生きることはできない...これは、残念ながら、一面において真実です。しかし、殆どの人にとっては、この「経済的な豊かさ」を得るためには、現代社会のシステムの中に自分を組み込ませ、豊かさを生み出すために、徹底的に効率を上げ、肉体と精神を磨り減らしながら自分の人生を経済システムの中に投げ入れなければなりません。「便利で豊か」な社会を生み出し、維持するためには、多くの資源とエネルギーを必要とするのみならず、多くの人の労力を必要とします。
近年のテクノロジーの飛躍的な発展進化は、このパラドクスを解決してくれるでしょうか?
人類が長い歴史の中で、これまで経験してきたことから考えるならば、答えは、「イエス」です。しかし、この「イエス」には直ちに「ノー」が付け加わります。人類はこれまで、何度もイノベーションを繰り返しながらさまざまな問題を解決してきました。そしてそれと同時に、新しい、更に困難な問題に直面してきたのです。その証拠に、わたしたちが直面する問題の多くは、地球規模の、とてつもなく大きな問題になってしまっています。だから、問題の解決は、むしろ問題の先送りなのだ...そんな考え方をとる人もいます。
さて、こうした背景の中で、わたしたちが「幸福な人生」を求め、「自由な生き方」を追求するならば、どうでしょうか?
自由に生きることができるような人生の設計をするのでしょうか? そしてそのような場合、「自由」とはどういうことを意味するのでしょうか?
ここで、はじめに触れた禅語が登場します。
この言葉に描かれる「雲」は、「自由」が何を意味するのか? 「幸福」がどのようなものであるのか、わたしたちが思い浮かべるあらゆる問いかけを振り切って、悠然と行く大らかさを持っています。
空を行く雲に向って、行き先を尋ねる者はいません。
本当に自由であれば、
どこに行くのですか?
何をするのですか?
などと、最初から質問は出てきません。
あの高い山の上を行く雲は、一体どこに行くのだろう?
そう問いかけるとき、私たちは、本当は行き先なんか聞いてはいないのです。ああ、自分たちも、あの雲のように無心にいきたいものだ...憧れをもって、その行き先に思いを馳せるだけなのです。
「足の向くまま気の向くまま...」という答えですら、気負いに感じられてしまうほどの純粋な無心さが、そこにあります。「向くまま」も「気まま」もない、純粋無垢な世界...日の光を受けて真っ白に輝く雲の純白は、一点の作為(わざとらしい振る舞い)もまじえない、無心の象徴です。
禅の修行僧のことを「雲水」と言います。「雲水」という言葉は、「行雲流水」つまり、行く雲の如く、流れる水の如く自由に行脚して、師を尋ね、道友を尋ね、修行の場所を探して旅をする、というところに由来するといいます。つまり、修行僧とは、常に旅の途中にある存在、行く先も、とどまるべき場所もない自由な旅人なのだ、というのです。
今日では、さすがにほとんど廃れてしまったのですが、つい一昔、二昔前までは、あるときはお寺に一宿一飯(泊めてもらい、食事をいただくこと)の恩義を請い、あるときは篤信(信仰の篤いこと)の家に招かれて投宿(宿泊)を願い、またあるときはお堂の軒先、うち捨てられた破れ屋の、形ばかりの屋根のもとに夜露をしのぎながら、ひたすら道を求めて歩く、ということが、実際に行われていたといいます。
このような、束縛するもののない「足の向くまま気の向くまま」の自由な行脚の道行きとは言っても、もちろん「道を求める」という一大目標がありますから、そこに向ってひたむきな旅をするのですが、どこか或る場所にたどり着けば、この行脚が終わる、というものではありません。探し求めていた自分の本当の師匠に出逢い、この人こそ一生かけて自分のつくべきお方だ、と定めることができたとしても、本来の行脚はそこからなのです。そのお師匠さんのもとで、改めて自分自身の本当の在り方、本当の生き方を探し求める旅が始まるのですから...
古くからよく知られている「公案(禅の修行に用いる問答の問題)」の一つに、このように言われています。
「撥草」:草をかき分けかき分け、道なき道を行き、
「参玄」:禅の奥義、「玄旨」つまり一番深いところに向って参じ、わがものとする。これはひとえに「見性」つまり自分自身の本性、本当の自分の在り方をはっきりしっかりと看て取ること、このためなのだ、と。
しかし、苦労をしながら訪ねてきた行脚の僧は、自分が道を問うどころか、あべこべに、やっと見つけた師匠から、「即今上人の性、甚れの處にか在る」つまり、「いま、ここで尋ねておるおまえさんの本性は、本当の姿は、一体どこに在る! 本当のおまえを出してみよ! と問い返されてしまうのです。
どこに向かっての旅であろうとも、どこにおいてであろうとも、実は問いただされるべきものは、自分自身...ただ今、今ここの自分自身、自分自身の本性、本当の在り方なのです。
さて、この時、或る旅の僧は、こう答えます。
笠は重し呉天の雪 鞋は香し楚地の花...
「そうそう、ついこの間、行脚で呉の国を通ったときは、雪が笠に積もるぐらい降りしきって大変でしたなぁ...だけれども、楚の国に入ると春の真っ盛り、色とりどりの花が道端に咲き乱れて、足下からえも言われぬ香りがたち上っておりましたなぁ...」といった意味の返答です。
どうでしょうか?
これこそ、標題の言葉:「白雲片々嶺上に飛ぶ」がぴったりの、無心の境涯、まさしく「行雲流水」の姿です。
雨に叩かれ、風に曝され、寒さに凍え、空腹に耐え...それでも、高い嶺の上を何事もなく行く雲のように、行脚をしております。これが私の姿、これ以外に、私なんてものは、どこにも在りませんなぁ、ただただ、行脚をしておりますワィ...
この「無心」の處をしっかり掴んでわがものにすれば、辛い道中の苦労も、人生の荒波も、ものの数ではありません。今回の標題の言葉「白雲片片嶺上に飛ぶ」には、続きがあるのですが、それはこうです。
眼下の渓には、緑の水がさらさらと勢いよく流れていきます。
この渓流の流れも、嶺の上の雲と同じく、無心です。ひたすら、さらさらさら...
私たちも、毎日を無心に、そして行く雲の如く、流れる水の如
く、とらわれることなく過ごしていきたいものです。