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*禅語を味わう...035:歳月人を待たず...

歳月不待人さいげつひとをまたず


年の瀬も押し詰まってきました。
毎年、年の瀬を迎えると、年が改まるということの厳粛さを感じるからなのでしょうか、慌ただしい中に、ピーンと張り詰めたものを感じます。

さて、今回の禅語です。

歳月人を待たず...

この言葉は、古くから広く人口に膾炙かいしゃしたものの一つです。
たとえば、東晋とうしん末から南宋にかけての詩人・陶淵明とうえんめい(365~427年)は、このように歌っています。

盛年不重來    盛年せいねん重ねて来たらず
一日難再晨   一日再びあしたになり難し
及時当勉励    時に及んでまさ勉励べんれいすべし
歳月不待人    歳月人を待たず...

(『五詩源』五古)

人生の盛りの時期は、二度と帰ってはこない。
一日一日は、毎日繰り返しているようでも、その日の夜明けは再びやって来ることもなく、一度過ぎ去ってしまったならば、二度とやり直して始めることはできないのだ。
だから、時を惜しんで勉学に努めなくてはならない。
歳月の過ぎ去ることは、人を待ってはくれないのだから...


「無常」を感ずることは、そのかたちこそ異なれ、世界中に共通するものなのでしょう、日本にも、鴨長明かものちょうめい(1155-1216年)の、

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し...

『方丈記』

という名句があります。


さて、「歳月人を待たず」に戻ります。
この語は、特に「禅語」と知られているわけではありませんが、禅の修行現場では特に親しみのあるものの一つです。
禅の修行道場である「僧堂」では、一日のうちに何度も、木製の板が、決められた時間に、決められたやり方で打ち鳴らされます。
朝の夜明けに修行の開始を告げる「開板かいはん」から、「講座」の開始を告げる板、お昼の板、午後三時の板、夕方の修行開始を告げる夕開板ゆうかいはん、坐禅の終わりを告げる板...
あるいは時報のために、あるいは行事の始まりと終わりを伝えるために、季節や修行の日程によって、さまざまに打ち鳴らされますが、この木製の板、「木板もっぱん」には、墨痕ぼっこん鮮やかに、このような言葉が書き込まれています。

生死事大 無常迅速
光陰可惜 時不待人

修行僧たちは、朝夕、木板を打ち鳴らす度ごとに、繰り返し繰り返しこの文字を見つめ、時の流れの無常さ非情さと、限られた「いのちの時間」の中で修行することの厳しさを確認するのです。
そしてこの時、一番大事なことは、この「いのちの時間」の有限性をしっかりと意識することなのです。
それはただ、人生にはやり直しがきかない、時間なんて、あっという間に過ぎてしまうぞ...などということではありません。惜しいとか、もったいないとか、そういうことでもありません。欲望や損得で見るだけでは、見えないことがあります。時というのは、それほど深く生命と結びついています。
あるいは、現代社会における「時」の考え方はどうでしょうか。

時は金なりであることを肝に銘じなさい( Remember that time is money.)

ベンジャミン・フランクリン:エッセイ『若き商人への手紙』

ベンジャミン・フランクリンの言葉として知られ、「時は金なり」という表現で知られるこの言葉は、「時がお金と同じぐらい大切だ」、というだけではなく、さらに精確に言えば、本来は、その日一日仕事を休んで遊興にふける時、失われるのはその遊興費だけではなく、働いていれば得ることができていたであろう一日分の報酬もまた、捨ててしまっているのだ、という教えです。
機会損失きかいそんしつ」として知られるこの教えは、「資本主義の精神」そのものです。この考え方によるならば、時間というのは、使い方によっては「損にも得にもなる」ような軽いものではありません。活かして有効に使わなければ、得られるべきものも得られないことになるのであり、生かすことのできない生命は無駄なものになるのです。
この思想からは、時は黄金のように大切なものであり、しかも時時刻々気を緩め、怠惰に過ごすならどんどん失われていってしまう、血液のようなものであることになります。時を護り大切にすることは、そのまま戴いたいのちを大切にすることにほかなりません。ここには、神からいただいたこの有限な生命を活かし切るために寸暇を惜しんで働き、勤勉に稼ぎ続ける、「貪欲」とすら映る資本主義の精神の厳粛さ苛烈さが、隠されています。


時もいのちも、ともに時々刻々失われ行き、二度と帰ってはこないもの...
時といのちとは、別々のことではなく、「同じもの」の示す二つの姿です。わたしたちが生きている「生命の現場」を離れた「時間」に、大した意味はありません。
生命のはかなさ、もろさに思いを致さない時、時間は、わたしたちの生命とは無関係に流れていくような錯覚を抱きがちです。しかし、限られた時間を生きるわたしたちに、生命とは無関係な、客観的な時間などは、実はそもそも与えられてはいないのです。この五分、この三〇秒、この一瞬は、二度と帰ってこないのですから...一人一人のいのちは、それぞれ一つずつしかなく、一回きりで、儚く、だからこそ尊いものなのです。同じように、その人の生きる時、人生は、時時刻々一回きりなのです。
この一つしかなく、儚く、一回きりのもの、時の中に生きていくいのちのありさまを、仏教の世界では「生死しょうじ」といいます。
生と死を分けるのではなく、生は死を見遣みやりながらの生、死は生を生たらしめるものとしての死です。終わりのない生には、大した意味は生まれません。一回しかなく、一度過ぎたならば二度と帰ってこない、交換不可能、代替不可能だからこそ、価値があるのです。

何だ、くどくどと同じことを繰り返して...

と思われるかも知れません。しかし、生と死を分けて考え、なるべく生を客観的な時間の中で長くし、死を最後の瞬間まで見ないで済むように、考えないで済むようにという考え方があたりまえになりつつある時、そのような姿勢で生きているのでは、わたしたちは、生きることの意味も同時に失ってしまうのではないか? そう思えてならないのです。

わたしたち一人一人に与えられている人生の時を、砂時計にたとえてみる時、砂時計の砂粒の数は誰にもわかりません。そして、生まれた瞬間から落ち続ける砂粒の早さも、その重みも、変わりません。
しかしながら、人生の最後が近づき、残りの砂粒の数が少なくなってきた時、落ちていく砂粒の早さは、どんどん早くなっていくと感じられます。そして、落ちていく一粒一粒の砂粒の重みは、どんどん増していくように感じられます。
これは、砂時計から落ちていく砂粒が変化したのではなく、それを見詰めるわたしたちの心が変化したからです。このように、私たち自身が変わること、このように人生の一瞬一瞬の時を感じ、観ることができるようになることを、成熟と言い、このようにして得られるものこそが、「智慧」と呼ぶにふさわしいのではないか...

歳月人を待たず...

生命の儚さを思い、だからこそ、一度しかない、かけがえのない生命をいただき、生きていくことに感謝する。生命の時の一瞬一瞬をいとおしむ...
道元禅師が言っておられます、

この生死は即ち仏の御いのちなり...

『正法眼蔵』「生死」


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