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『夢中問答』第二十二話:魔境は妄想と知る

問い

もし魔境が生じた時どのように対処したらよろしいでしょうか。

夢窓国師曰く

この問題の解決は「不生不滅」を知ればその疑問は起こらないであろう。

今も盛んに議論されている竜樹の『中論』に出てくる「不生不滅の縁起」に関する解釈も同時に解決するであろう。

この問題を哲学的ないしは文法的に解釈しようとすると矛盾が生じるのである。

「不生不滅の縁起」とはそれ自体に矛盾を抱えているのである。

何故なら「不生不滅」と「縁起」は最初からは対立する概念である。

「縁起」とはこの世に永遠不変なるものは存在せず諸行は無常であると言い。

「不生不滅」とはこの世は永遠に不変だと言っているのである。

だからどれだけ哲学的ないしは文法的に考えても答えは出てこないのである。

禅では「今、ここ、自己」を問うているのであることを忘れては理解できません。

「今、ここ、自己」とは過去も未来も考えない世界であるから現在は生じることも無く、未来は来ることも無いのであるから現在は不滅であると考えるのである。

そうは言っても直ぐに死は恐ろしいと考えるのが人間の常であるが精神を集中すれば余計なことは考えないようになるのである。

それには先ずものごとに執着しない事である。

その昔唐の道樹禅師が三峰山に居た時衣服を替え言葉を変えて身辺に形を変え現れた仙人だったり仏菩薩が不思議な光を放ったり警句を言ったりして困ったそうである。

その様な妄想も十年もすればやがて消え失せて精神統一が出来るようになったと言う。

それは天魔来って退屈している我を迷わせるために色々手を替え品を替え楽しませにくるのである。

しかしそのような天魔の新奇な最新情報に目も耳も貸さずにいれば天魔は自然に消えて無くなるのであるそれを「不見不聞」と言い消えることは無い。

天魔とは「縁起」の別名である、「縁起」とは天魔であると知る事である。

さすれば天魔どれほど活躍すれど「不見不聞」なれば「縁起」は起こらずと言う。

起こらなければ消えることも無い即ちそれを「不生不滅」言う。

達磨大師が言うには諸縁を遂はず、内心喘ぐことなく、心壁の如くなれば道に入るとは「不見不聞」「不生不滅」と言う意味である。

「不生不滅の縁起」とは達磨大師のような禅師にとっては「縁起」とは無縁の「不生不滅」の世界に生きていると言うのである。

また一般衆民にとっては「縁起」の世界から一歩も逃れる事が出来ないと言うのである。

また詳しくは述べる機会もあるでしょう。

参照

『夢中問答』夢窓国師 岩波文庫

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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