『不動智神妙録』秘伝の神髄:4
まず本文を読みましょう。
「鎌倉の仏国禅師の歌に、心ありてもるとなけれど小山田に徒ならぬかかしなりけり。
此歌のごとく也。山田のかかしとて人形を作りて弓矢を持せて置也。
鹿おぢて逃れば、用が叶ふ程には徒らならぬと也。
万の道に至りぬる人の所作の喩也。」
ここでは鎌倉の仏国禅師の歌を例に取り上げ案山子のような人形でも弓矢を持せると鹿が逃げるが心があるわけではないという。
そして案山子に心がなくっても形、姿で何らかの意思表示が出来るというのであり。
不動智を身に付けた者であれば言葉を使わず敵を動かすことが出来ることの喩である。
「手足身のはたらき計にて、心はそっとも不留して、
こころ心がいづくに有とも不知して、無念無心にして山田のかかしの位へ行もの也。」
これを意訳すると、手足身が動くといっても心が何処にあるか解らぬくらい速いので、まるで山田のかかしのように無念無心に見える。
「至る人は知恵が不レ入程に智恵が所作へ不レ出也。
万事の所作に知覚分別がなく成て、初の凡夫の様に成て心を捨きらぬは上手にて有まじき也。
至極したる道には智恵を捨るなり。」
ここも意訳します。
不動智を会得すると山田のかかしに心がないように敵から心の在りかを知覚分別出来ない、これを「無念無相」という。
それには「心を捨きら」なければならないが凡夫にはそれが出来ない。
。
不動智を極めつくした道にはさらに智恵を捨ることである。
ここが大変重要で常識とは正反対のことを言っているのである。
智恵を捨るとは勝つことや手段、ワザを捨てよというのである。
勝つとも負けるとも考えないことを智恵を捨るという。
勝つとも負けるとも考えないことを「無念無相」という。
このことを『葉隠』では「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という。
この言葉も大変誤解されている不惜身命なんかでは決してない。
自らの身も命も惜しまないということではなく勝つため「無念無相」になることである。
敵のゲシュタルト崩壊を起こさせることである。
自らの身も命も惜しまないという解釈は倫理的思考で善悪を超えたところで考えなければならない。
「理の修業、業の修業と云事あり。わざとは手足にてする事を云なり。
初は兵法を習稽古候時、身がまえ、太刀、三箇九個などの色々様々の事を年月を重て能々稽古する、是を事の修行といふなり。」
ここは解りよいと思います修行には理の修業と業の修業がありワザの修行とは、身がまえ、太刀などいう。
理の修業とは智恵を捨て「無念無相」を体得する修行である。
つぎの文は前回のこしてきたイップスの箇所です。
「然れども所々様々の事を習ひ、身がまへ色々のかまへ色々の事を習ひぬれば、色々所々に心が留りて、人を打んとすればとやかくやとして、却て人に新らるる。」
今回もデータの豊富な野球のピッチャーを取り上げます。
現代では練習をビデオでスローモーション画像にしたり、静止画像にして確認できます。
そこでコーチに投球ホームを修正するよう指導された選手がいたとします。
そこで練習した途端に動き止まってしまう思うように投げられないというゲシュタルト崩壊が起ことがあるようです。
これこそ沢庵禅師が指摘しているところです。
「身がまへ色々のかまへ色々の事を習ひぬれば、色々所々に心が留」ることがゲシュタルト崩壊なのです。
練習に変更を加えようとした途端に起こり選手生命の危険すらあり誰にも言えず苦しむことになる。
しかし理の修業と業の修業には深い関係がありワザにはそれぞれの順序がありその順序が狂う時にゲシュタルト崩壊が起こる。
ゲシュタルト崩壊とは順序に狂いが起こるときに投球ホームがこわれるのだ。
だから考えれば考えるほど窮地に陥る。
しかし新しい投球ホームに拘って練習をする必要がある。
拘るとは心を留めることであり沢庵禅師が諫めてきたことである。
それを煩悩即菩提といって次のようにいう。
「仏とも法とも文字あるとも何とも見へぬ様になる也。
無心無念の位に落着する也。
至極の位に主り候えば手足身が覚へ候て心は切入らぬ位に落着するもの也」
意訳します。
練習に練習を重ね迷いに迷いをぬけて我をわすれたところに無心無念が待っている。
そうなれは考えなくとも手足身が勝手にうごく。
『不動智神妙録』秘伝の神髄:5へ続く
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。