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『碧巌録』第五則「 雪峰尽大地」

初めに

人間は何故真理を求めずにはいられないのか、現実は十分充実して満足すべきものであるにもかかわらず、自ら求めて葛藤の中に飛び込こみ苦しむのかと言うのがこの公案であり、理解できれば、そこから解放される方法を知ることに成るであろう。

「湊泊するに難為なり。」とは、普通何かしなければならないとか、不安とか、居ても立っても居られないと思っても何をして良いか解らないと言う状態であり、「 雪峰尽大地」を読めば意味が解らないと言うもどかしさお感じることがある。

「 雪峰尽大地」とは難と不思議な言葉であることか、まず言葉が出てこない、否定も肯定も疑問も忘れることさえ拒絶されただ立ち止まって佇むより他ないもどかしさにいることを知るのみである。

まさに、これこそ垂示に「湊泊するに難為なり。」と言う状態であり、丁とも半とも白とも黒と言えず進むことも逃げることも安心することも恐れることさえも許されないのである。

それでは何故そのような心境になるのか「 雪峰尽大地」には言葉から意味を奪い去り消してしまう技法があちこちに組み込まれているからである。

その技法とは簡単なものであるが「放行すれば瓦礫も光を生じ、把定すれば真金も光を失す」と言うように生かすも殺すも自由自在といったところであるから、「人を殺すにはまなこきつせざる底の手脚」が無ければ成らないと言うのである。

このような状態を禅では「大擬現前」と言い「大死一番」の前に現れる重要な段階であり、そこまで導く事が出来る者を「英霊底の漢」と名付けるのである。

言葉から意味を奪うと言っても全てを奪うこともあれば、片方だけを奪うことも縦に分けたり横に分割してその一方を奪うこともある。

二輪車の手押し車を知っているだろうか、二輪車といっても自転者のように前後に車輪がついているのではなく、左右にタイヤが付いていて、その片方を奪い去ってしまえば真っすぐに前進することは出来ず、思考は円周を回るように堂々巡りを始めることに成る。

この公案はその思考の堂々巡りに気づき解決することにある。

垂示

大凡おおよそ、宗教を扶竪ふじゅせんには、須らくこれ英霊底の漢なるべし。
人を殺すにはまなこきつせざる底の手脚あって、
まさに立地に成仏すべし。
所以ゆえ照用同時、卷舒けんじょひとしく唱え、
理事不二、権実ごんじつ並べ行ふ。
一著を放過して、第二義門を建立す。
直下に葛藤を截断せば、後学初機は、湊泊するに難為なり。
昨日もいんも、巳むことを得ず、今日もまたいんも、罪過弥天、
若しこれ明眼の漢ならば、一点も他を漫ずることを得ず。
それ或いは未だ然らずんば、虎口裏に身を横たえて喪身失命を免れず、
試みに挙す看よ。

垂示の解説

「照用同時、卷舒けんじょひとしく唱え、理事不二、権実ごんじつ並べ行ふ。」とはどれも言語学者の好む二項対立で構成されていると言う事は、世界は複雑で多様性に満ちていて解釈はいくらでも成り立つのであるが、理解しやすいように二項を対立させその関係を明らかにすることにあるが、ところが禅では二項を対立させず行動を以て解決することである。

「照用同時」とは見たり聞いたりしたらかさず行動に移すことで対立矛盾を解決することが出来る。

「卷舒《けんじょ》ひとしく唱え」のけんとはまくくこと縮む、把定すると言い、じょとは広げる、のばす又は放行と言う意味であり、物を縮めたり広げたりする状態から、話を簡単に言ったり詳しく話すことの、その両方を同時に行うことである。

「理事不二」とは理論と現実が一致していることである。

権実ごんじつ並べ行ふ。」とは仮定の話(方便)と真実の話を並べて行うと言う意味である。

「一著を放過して、第二義門を建立す。」とは「照用」の文字から「照」を放却し打ち捨ててしまえば「用」だけが残ってもその行動の意味が解らなくなってしまうのである。

要するに馬車車のように働いても生きている意義や意味が無くなり、人生に生きてゆく価値を見出せ無いことに成る。

「卷舒《けんじょ》ひとしく唱え、理事不二、権実ごんじつ並べ行ふ。」も同様に片方だけ把定することを「直下に葛藤を截断」すると言う。

「直下に葛藤を截断せば、後学初機は、湊泊するに難為なり。」を解説すれば「照」と「用」は対立、矛盾するから葛藤を起こすのであり、それを截断すれば解決するだろうと考えるのは間違っており湊泊する所を探すのに苦労するであろう言うのであるが、ただそこを自らの行為によって通過すことが必要である。

「照用同時」とは決して対立や矛盾するものではなく、見たり聞いたりしたらかさず行動に移すことであると言ったが、幼児がいたずらをしているのを見たらかさずその過ちを自覚させることであり、二三日たってから注意をしても何が悪かったのか、どのような行動が誰に迷惑をかけたのか理解できないと言うことは「直下に葛藤を截断」した結果意味が消失したのであり、「照用」の文字から「照」と「用」を同時に実行せず、別々に分けて離して奪ったから意味が消失したのである。

「昨日もいんも、巳むことを得ず、今日もまたいんも、罪過弥天」とは老師は、矛盾を解決するために「直下に葛藤を截断」することを昨日も行い、今日も行っている、それは仕方のないことではあって、功労を求めず罪過を逃れようとせずと言うことである。

なを「罪過弥天」とは菜根譚には「功労は自慢すべきものではなく、罪過も逃れようとれせず。」とある。

「若しこれ明眼の漢ならば、一点も他を漫ずることを得ず。」とは「人を殺すにはまなこきつせざる底の手脚」を決しておろそかにはしないと言うことである。

「それ或いは未だ然らずんば、虎口裏に身を横たえて喪身失命を免れず」とは、もし手加減するようであれば「 雪峰尽大地」と言う虎が大きな口を開けて待っているから喪身失命するに違い無いと言うのである。

「試みに挙す看よ。」とはこの公案では自縄自縛の何であるか、どうして自分を縛る必要があるのか、何故そのような愚かな行為に気づかないのか、その言語の構造的原因を知ることであるから見よと言う。

本則

挙す、雪峰衆に示して云く、(一盲衆盲を引く。分外と為さず。)尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。(是れ何の手段ぞ、山僧従来鬼眼晴を弄せず。)
面前に抛向す。(只恐らくは抛不下ならんことを。什麼の伎倆か有らん。)
漆桶不会。(勢いに倚って人を欺く。自領出去。大衆を謾ずること莫くんば好し。鼓を打って普請して看よ。(瞎。鼓を打つことは三軍の為なり。)

本則の解説

「雪峰衆に示して云く、(一盲衆盲を引く。分外と為さず。)」とは、世の中には迷い子が居ることは仕方がないことである。

「尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。」しかし尽大地と言っても見渡してみると、迷うほど大きくは無いではないかと雪峰は言う。

「(是れ何の手段ぞ、山僧従来鬼眼晴を弄せず。)」とは雪峰はふだんから怪しい真似はしないから、「尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。」と言うからには何か秘密の真理が隠されいるに違いない。

「面前に抛向す。(只恐らくは抛不下ならんことを。什麼の伎倆か有らん。)」

いきなり解説も無く放り投げるように粟米粒の大いさだと言われても理解できないだろうが、解らないと言って逃げ出してはいけない、雪峰には雪峰の考えがあってのことだから。

「漆桶不会。(勢いに倚って人を欺く。自領出去。大衆を謾ずること莫くんば好し。」

粟米粒の大いさだと言われても、桶に漆を入れたように真っ黒で何も解らなく誤解をする時、誰にも言わず自分で解決すること(「自領出去)、見事に解決しても「大衆を謾ずること莫くんば好し。」

「(勢いに倚って人を欺く。」とは「鼓を打って普請して看よ。」と言うことでこの言葉は禅では使わず軍隊の用悟である。(瞎。鼓を打つことは三軍の為なり。)」禅でも太鼓は使うが普請しては使わない、普請とは過っては近所や親戚が力を合わせて家を建てることを言い、普請と言う言葉を見逃すと欺かれる事に成る。

禅では「黙によろしくしてけんによろしからず」と言うではないか、あくまでも騒がず一人で解決するのが本道である。

本則の評唱の解説

雪峰義存は徳山の嗣であるが投子禅師の下で三度入門を許され、洞山良价禅師の寺でも典座として働くこと九回に及んだと言われているが、ある日洞山良价禅師が雪峰義存の食事の準備をしているのを見ながら見れば解る事を、何をしているのかと問うと米を洗っていますと答えた。

すると洞山はおもむろに砂をふるって米を去るか、米をふるって砂を去るかと言った。

ところが雪峰はすでに禅のこころへが少しは有ると見えて二者一択をせず、砂米ともに捨てると答えたのである。

見所があるとみて洞山良价禅師は雪峰の言った言葉を把住して、それでは大衆はなにを食べるのかと詰め寄ったのである。

雪峰が何も言わずに即座に盆をくつがえしたのを洞山良价禅師はそれを見て、徳山禅師に相性があると判断して、すなわち放下して徳山にまみえるように仕向けたのであった。

雪峰は師兄すひんである巌頭と旅の途中雪の為ある民家の軒下を借りて泊まった時、徳山に痛棒を食らって桶底を脱が如くに思われたと言うと、さらに巌頭に喝を食らって大吾したのであった。

この話と「尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。」とどのような関係があるのか思われるであろう。

「砂米ともに捨てる」とは米と砂の両方を捨てたと言っており、「尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。」とは尽大地の大小の両方を考え比較しなければ何がどれ程大きいのか小さいのか解らないのである。

禅では「照用同時、卷舒けんじょひとしく唱え、理事不二、権実ごんじつ並べ行ふ。」と言いながら、この二項に反していることは明らかであるから「尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。」の意味が解らないのであり理解出来ないのである。

「尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。」とはもともと仮定の話であり、方便に過ぎず現実の具体的な事実の解説が存在していないことであるから元々考えることはできないのである事に気づかれたであろうか。

「理事不二、権実ごんじつ並べ行ふ。」とは理論と実際、方便と現実が一致していることであるといったが、雪峰は本則に於いてわざと現実を「一著を放過して」と言うように事実を捨て去って表現していないのである。

もうお解りだと思いますがこの公案は人は真実を求める余りに、如何に無駄な苦労や悩みを作り出しているかと言う現実を身をもって体験することにその役目を担ているのであり無駄なことではないのである。

「 雪峰尽大地」は如何に多くの禅の修行者を迷わせて来たことか解らないが圜悟克勤は評唱で「須らく是れ羅籠らろうを打破し、得失是非、一時に放下して、灑灑落落たらば、自然じねんに他の圏繢けんき透得とうとくして、まさに他の用処を見るべし。」と言っているが、圏繢けんきとは雪峰が何故「罠」を仕掛けたのか解れば悩むことはないぞと言っているのである。

「只尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如しとふが如きんば、這箇しゃこの時節、しばらへ」と圜悟克勤は評唱で言っているが、「這箇しゃこの時節」に注目してみると、公案には「時節」などと何処にも語られてはいません。

「初めに」で「湊泊するに難為なり。」の説明をした時「大擬現前」と言う表現を使ったことを思い出してもらえれば「大死一番」の直前であることが解りますが「大擬現前」と言う時節にあたるのであるが、それが解れば何と親切なことかとわかるのである。


牛頭没し。(閃電に相似たり。蹉過了也。)馬頭囘る。(撃石火の如し。)曹溪鏡裏塵埃を絶す。(鏡を打破し来れ汝と相見せん。須らく是れ打破して始めて得べし。)鼓を打って看せしめ来れども君見ず。(汝が眼晴を刺破す。軽易すること莫んば好し。漆桶什麼の見難き処か有らん。)百花春至って誰が為にか開く。(法相饒さず。一場の狼籍。葛藤窟裏より出頭し来る。)

頌と評唱の解説

「牛頭馬頭」とは地獄にいる牢屋の役人で情け容赦なく取り調べをする人のことで、「人を殺すにはまなこきつせざる底の手脚」の人と言う意味である。

「曹溪鏡裏塵埃を絶す。」とは六祖慧能の一句で「明鏡には一点の曇りもない」言うことである。

「鏡を打破し来れ汝と相見せん。須らく是れ打破して始めて得べし。」とは鏡を打破したら会ってやろう、それからで無くては話は始まらないと、曇った鏡を全面的に否定するのである。

「鼓を打って看せしめ来れども君見ず。」とは本則で「勢いに倚って人を欺く」という事で「雪峰尽大地」と言う公案には沢山の嘘偽りを話して来たけど、君は全然見も聞きもしなかったではないかと言うのである。

「汝が眼晴を刺破す。軽易すること莫んば好し。」とは本則で「勢いに倚って人を欺く」と言うことで、「望州亭に汝と相見了他、鳥石嶺に汝と相見了他」と言う表現はこの公案とは何の関係もない意味不明の戯言であったのであり、この言葉に欺かれるようでは禅の修行がまだ足りないと言う。

やはり「南山に一條の鼈鼻蛇べっぴじゃ有り」と言い、「切に須らく好く看取すべし」さもなくば「喪心失命し去ること在らん」と言うが、これも前後脈絡無関係の挿話である。

「漆桶什麼の見難き処か有らん。」とは意味不明の戯言は読み飛ばして肝心の所を読めば理解出来るだろう言う。

「百花春至って誰が為にか開く。」とは是この一句は最終の必殺の武器で以て「人を殺すにはまなこきつせざる底の手脚」を使って見る人聞く人の息の根を止めたのである。

「百花春至って誰が為にか開く。」とは意味を奪って意味を問うているのであり、答えの無い答えを言えと迫っているのである。

我々は真実を求める余り無いものを探し悩み苦しむのである。

「尽大地撮し来るに、粟米粒の大いさの如し。」と言う戯言たわごとに振り回されてはいけないというのが結論である。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


参考文献 
『碧巌録』朝比奈宗源訳注 上中下 岩波書店
『碧巌録』大森曹玄著 上巻 下巻 栢樹社

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