【今週の読書】大きく循環させて複雑にすることで成熟していく
今週は以前から気になっていたけど手を付けていなかった本を3冊読みました。
その一つ、リジェネラティブ農法の『土を育てる』という本は、私が家庭菜園でやっている自然農法の海外版みたいなものなのですが、これが内田樹さんがよく言っている複雑化する話と共通項があってとてもおもしろかったです。
わかりやすくシンプルに考えたくなりますが、そうやって考えられてきた慣行農法で疲弊している日本を見ると、次の進む道は、多くのつながりを作って、今まで無駄だったものに価値をつけて循環させていくリジェネラティブ農法にあるなって思うし、リジェネラティブ農法をやることで複雑なものと向き合う教育もできるんじゃないかなって思います。
余計なことはせず、ものやことをつなげて、循環させていくことが次の未来のやることだなって改めて思わせてもらいました。
そんな良きタイミングで内田樹さんの『生きづらさについて考える』も読んでみました。
そしてもう一つ、ずっと気になっていて読みたかった『ケーキを切れない非行少年たち』も読んでみました。これは漫画本にもなっている有名な本ですね。この本を読んでもまた内田樹さんの言葉が思い出されました。
「今の社会に適応できたのはたまたまなので、その能力は社会に還元する形で使ったほうが良い。」
※Audibleで聴いたので本文そのままではなく、私の意訳になっています
内田樹さんの言葉は私の心によく残ります。
では、それぞれの本の感想をどうぞ
(オリジナルはブクログです)
生きづらさについて考える / 内田樹
政治について語る時、悪い面ばかりが語られるけど、結局政治をしてるのも人間なので、半分くらい無視してあげてもいいんじゃないかなと最近は思います。今の日本で若者が生きづらいのと同じように、政治家も政治しづらいんじゃないかな
そうは言っても、内田樹さんの言っていることは結構好きで、私も社会的共通資本は株式会社化せずに、みんなで運営している感じを出した方がいいと思っています。
とは言っても、自分ごとにして運営するのって、無くならないと多分わからなくて、今当たり前に享受できてるものに主体的に関わる、もしくは感じるって、普通はできないかなって思います。
だから、小さなコミュニティ、自分ごとにしやすい範囲ってのが大事かなと思うと、政府がやることって自ずと決まってきたりしないかな、と妄想するも、私もまだ深くは考えられておりません。
あと、インフラコストを下げるためのコンパクトシティ化は、コストとサービスの充実とかを考えると分かるけど、日本全体をどうしたいって考えた時にコンパクトシティってどうなの、って思うので、内田樹さんが本書で言っていた、結局、都市部に流れてくるしかない、という話は放置できないなって思いました。
公共を自分たちで作る
この考えでコミュニティを考えていきたいと改めて思いました。
あと、韓国の教育が民主化されている話も興味深かったです。教育という社会的共通資本は民営化して株式会社的に効率を求めない方がいいけど、韓国は民意主導で教育改革を進めていて、なんか日本より自主性を重んじている教育になってそうな気がしました。やっぱ教育って、専門的な知見もあるんだろうけど、人間としての直感的な正しさみたいなものもみんな持ち合わせているのかな。
最近、おやこ劇場というサークルに入ったのですが、1970年くらいから続いてるみたいで、教育の根底ってやっぱりあまり変わらないのかもしれないなって思いました。
自分の頭で考えて、自分の人生を歩める人になる。他者に振り回されない。私の人生を歩む。
アドラー心理学で教えてもらいました。
私はなーんにも考えずに、社会のステータスばかり考えて生きてきてしまったな
ケーキの切れない非行少年たち / 宮口幸治
自分を知る、という土台に自分の認知能力を知る、というのがあるのかもしれない
障害者教育を問う、という本を読んで、そもそも認知ができてない人がどう社会を見ているのかを想像するのって、めちゃくちゃ難しいなと思ったけど、本書の最後に触れられていた認知テスト(コグトレ)は自分も他人にも相互理解できそうで、すごい良さそうだった。
本書で出てきた図1-2が個人的には衝撃的でした。
誰でもできそうな図を書き写すということ。これができないことをどう認めるか。
自分の想像を超えるものと出会った時に、自分の範囲内で考えない方が良いことを学ばされます。でも、本というガイドがあったからできることで、本の知識なく出会ってしまうと、多分、認知の歪みなんて考えずに、その人を評価してしまいそうですごく怖いです。
会社にも知的障害の方がいるのですが、普段のコミュニケーションは僕よりずっとしっかりしてて、障害を何も感じないけど、本人はここに来るまでに大変な経験をして、障害があると疑い、診断を受けて、自分を受け入れて、いまここに立っている、という感じがしています。だから、僕よりずっとしっかりしていて、できることできないことをしっかり言ってくれます。その上でチャレンジもしたいという意欲もあります。
一度、ありのままの自分を受け入れると強いなって思います。
本書でも言っていた、教育としてできることは、ありのままの自分への気づきを与える環境づくりというのはとても共感です。
学校だけじゃなく、会社や会社以外の場所でも、ありのままの自分に気づける環境は頑張って作っていきたい。
今の社会に適応できるくらいの認知能力を僕は授かったので、それがあるうちに社会に還元していきたい。
最後にちょっとだけモヤっとしたことについて書きます。
障がい者を納税者に変えるという話があり、経済効果を試算して、だから障がい者に認知トレーニングをした方がいい、という論理を説明してくれていました。
お金がないと支援もできないため、国からの支援を正当化するために経済効果を試算するのは合理的だと思うのですが、そもそも経済効果がないと支援しないものなんだっけ!?というのは思ってしまいました。
いや、そういう論理があるのはいいので、否定しているわけでもないのですが、国を動かすのに経済効果だけが判断軸にならないでほしい、という思いが個人的にあります。
人としての直感でもっと世の中を駆動できないかな!?リスクを取りづらい民主主義の欠点なのかな!?
土を育てる:自然をよみがえらせる土壌革命 / ゲイブ・ブラウン
カバークロップを考えていきたい
私自身も自然農(自然菜園)を学び、自分の畑で実践しているので、理解共感できる部分と、農業という仕事としてやる勇気みたいなものも感じました。
最後の方に書かれていた、アメリカと日本の違いにちょっと納得で、アメリカはコスト削減のための手段としてリジェネラティブ農法が発展してるのに対して、日本はストイックな自然尊重というのが面白かった。
確かにちょっと私もストイックにやろうとしてる節があるので、目的を忘れないようにしたい。
私の場合は、仕事ではなく、塾みたいな感じなので、収量や収益なんか考えず、コントロールしない精神を鍛えて、環境を整えることを考える場所として捉えています。だけど、ちゃんと社会の一要素としての農をやる場合は、社会的責任のもと収量と収益を考えなきゃなんだろうな。
農もビジネスも同じで、学び考え続けなきゃです。そして、やれると信じることですね。根拠がない時の拠り所が神
もう一つ印象に残っているのが多角化経営について。農だと残渣など大量の不要物を活用したり、家畜などを使って作業をある意味自動化することで経営を安定させれるという話でしたが、個人的には無駄をなくして大きな循環を作るのがとても良いと思っています。世の中繋がっていることを実感ができるところが少ない。農はつながりを作りやすくて感じやすいと思うので、農を起点にどんどん繋げていきたい。繋がれば繋がるほど複雑になるけど、その複雑の中で生きていることをちゃんと実感するのが良い。シンプルに捉えない方がよい。それが成熟するってことだと、内田樹さんに教えてもらいました(独自解釈だったらすいません)
いつか私がやっている畑も家畜を飼って、家畜共に循環する場所にしていきたい。ヤギがいいかなー
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